第6話 待て、狸。

 夜。私たちは河野さんの家の前に張り込んでいました。既に時刻は日付を超え、住宅街の光は街灯だけになっています。


 そんな暗闇の中をこそこそ歩いていく影がありました。彼女は河野家の門に手をかけると、その中へと消えていきます。その横顔を見た狸さんは目を見開きます。


「赤田さんの奥さん? どうしてあんな風にこそこそと……」

『今はまだ踏み込めない。もう少し待て』


 一応警察側として動いている身ですからねえ。形式にとらわれなきゃいけないなんて本当に面倒なことです。


 ま、違法捜査をするときはしますが。


 赤田利美が家の中に入ってから約十分後。河野宅から、甲高い悲鳴が鳴り響きました。


『今だ狸! 他の奴らも連れて突入しろ!』

「はっ、はい!」


 私の指示を受けて、狸さんと愉快な仲間たちは河野家へと駆け込んでいきました。その後ろを私と水無瀬は悠々と歩いていきます。


 現場は河野家のキッチンでした。私たちがたどり着いたころには、修羅場は過熱していました。


 床に散らばっているのは何かの資料。床に押さえつけられた赤田十夜。その手元に落ちている包丁。どうやら侵入してきた妻を、十夜が包丁で殺そうとしたようです。


「な、何の騒ぎですか。赤田さんたちに何が……」


 寝室から出てきたらしき河野幸恵が呆然と呟きます。そんな彼女を無視して、水無瀬はふらふらと赤田利美へと近づきました。


「ねえねえ。どうして十夜さんはこの家にいたの? もしかしてベッドで遊んでた?」


 それは、一切悪意の感じられない無邪気な声でした。しかし、その内容に利美さんは修羅の顔で立ち上がりました。


 かくして回想は終わり、思考は現在に引き戻されます。


 夫は床で拘束され、妻と浮気相手はつかみ合いの大喧嘩です。その剣幕に警官たちも近づけずにいました。


「ふざけないで!」

「こんな奴に十夜さんは!」

「負け惜しみは醜いわよ!」

「何ですって!?」

「あはは! 十夜さんが本当に愛してたのは私! あんたなんてただの金目当てだったのよ!!」

「あぁぁあああ! 殺してやる! 許さない!」


 赤田利美は床に落ちていた包丁を拾い上げると、誰かが止める暇もなく、河野幸恵に振り下ろしました。


 あーあ。スプラッタ。


 キッチンが幸恵さんの血で汚れていきます。背後できいっとドアが開く音がしました。


「おかあさん……?」


 ドアの隙間からのぞいていたのは、省吾くんの震える瞳でした。


 警察がようやく利美さんの拘束に成功します。利美さんは意味不明なことを言いながら泣き叫んでいました。



 後日、ファミレスで私たちと狸さんは向かい合っていました。水無瀬は注文もしないまま、子供用の間違い探しに熱中しています。


『騒動の原因はゴーストライターだったというわけだ』


 目の前のピザにピザカッターをぐりぐりと押し付けながら私は言います。狸さんはそんな私たちの向かいで、陰鬱な表情で俯いていました。


『赤田十夜のゴーストライターだった河野智彦は、何者かから警察の機密情報を得ていた。十夜の周囲を探っても情報が出ないわけだ。だって自分で書いているわけじゃなかったんだから』


 私の隣で、水無瀬は手にしている油性ペンで間違い探しにマルをつけています。


 こら。後で来るお子様に迷惑をかけるんじゃない。


『パイプが明らかにならなかった以上、お前たちの仕事は終わらないな』


 ご愁傷様です。まあ、私には関係のないところなので、どうぞ私に仕事を回さない範囲で頑張ってください。


『十夜は河野幸恵と不倫をしていた。幸恵は十夜と一緒になるために邪魔だった夫を殺した。それが十夜の指示だったのか、単独行動だったのかは……まあ、お前たち警察がこれから明らかにしていくところだろう』


 これ以上は私の仕事ではありませんしね。念入りに切り終わったピザを一切れ持ち上げます。びろーんと伸びたチーズをはむはむと口に運びました。濃厚なチーズの香りを堪能しながらごくりと飲み下します。


『あの時十夜が河野の家にいたのは、河野智彦がゴーストライターだったという証拠を消すためだった。あいつは最初に水無瀬が接触したときから、自分がゴーストライターを使っていることを疑われていると勘違いしたんだろう。そして独断で河野家を探ろうとした妻と鉢合わせた、と』


 勘違いで身を亡ぼすなんて、哀れなことです。でも身から出たさびですし、自業自得というやつでしょう。


『とまあ、これが事件の真相か』


 終わってみれば単純な事件でしたね。ただ、ちょっとだけ勘違いがあっただけの普通の痴情のもつれというやつです。


 これなら最初から適当に事件を『終わらせ』ておけばよかったです。


『感謝しろよ、狸。私たちがここまで丁寧に事件を『終わらせ』てやるなんて滅多にないことなんだからな』


 ピザカッターを再びピザに押し付けます。切れたばかりのピザに、水無瀬は手を伸ばしてきました。


 テーブルの上の料理はどんどん減っていきます。しかし、狸さんは一言も言葉を発しないままでした。


『どうした狸。ピザが切れたぞ』


 ピザをもう一切れ取りながら、パペットで狸さんにピザの皿を寄せてあげます。しかし彼は俯いたままでした。


「水無瀬さん。あなた、どうしてあの時、あんなことを言ったんですか」


 ちらりと水無瀬をうかがって狸さんは言いました。ああなるほど。彼は今回の事件に思うところがあるのですね。まあ、修羅場で終わりましたから、そう思うのも無理はありません。


 しかし、彼が言うのはどれのことでしょう。


 赤田十夜に警戒心を抱かせたこと?

 赤田利美に夫の罪の隠蔽を意識させたこと?

 それとも夫が浮気をしていたことを告げたこと?


「え? 僕、何もしてないよ?」


 水無瀬は机から視線を上げないまま言いました。その手元にはずらりと食器が並んでいます。


「見て見てカトラリー!」

『食器で遊ぶな』


 レストランごっこをする水無瀬から食器を奪い取り、片付けます。


「あ。そういえば彼女、息子の前で堂々と浮気宣言してたけど、あれっていいことなの?」


『お前にしては鋭いな。あれは『罪悪感がない』クズの行動だ。どんな理由があろうと息子は母親に捨てられたと思うだろうな。まあ、母を恨もうにも彼女はもう死んでしまったわけだが』


「ふうん、そうなの」


 水無瀬はコーラをじゅるじゅるとすすります。自分で聞いたくせに興味がなさそうですね。まあ、いいですけど。


 私も頼んだミートソースパスタにフォークを突き刺してぐるぐる回し始めました。隣では水無瀬が白シャツにピザをこぼしています。水無瀬……。


「……お二人は!」


 狸さんはうつむいたまま、大声を上げました。周囲のお客様がびっくりして一瞬店内が静かになります。


「お二人はどうも思わないんですか。あんな、ひどい終わり方なんて……」


 声を震わせて狸さんは言います。


 たしかにひどい終わり方ではあります。被害者は殺され、容疑者も殺され、父母を失った子供の心にも大きな傷が残った。だけどそれがどうしたというのでしょう。


『この男を頼った時点でそんなこと分かりきっていたことだろう』


 狸さんは泣きそうな表情で顔を上げます。


『最初に言ったはずだ。私たちにできるのは――事件を『終わらせる』ことだけだと』


 解決はできない。事件を壊して、台無しにして、『終わらせる』。それこそが水無瀬片時の唯一の技能なのですから。


『それにだ、狸』


 私はピザ一切れで満足そうに腹をさする水無瀬を見ました。


『事件なんてものは、大抵ひどいものだ』


 狸さんは何か言いたそうな顔をした後、その言葉を飲み込みガタンと音を立てて立ち上がりました。


「……署に戻ります」


 そのまま立ち去ろうとした狸さんを、私は慌てて呼び止めました。


『待て、狸』


 狸さんは憔悴した顔で振り向きました。

 でもこれは大切なことです。これだけは言っておかなければ。


『経費で落ちるんだろう。伝票を持っていけ』


 私が差し出した伝票を、狸さんは奪い取って足音荒く去っていきました。

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