圏外から叫ぶ
誰もいないこの部屋は、きらい。世界にひとりぼっちになったみたいな気分になるから。
浴室から聞こえる水音に耳をすます。そこにちゃんと彼がいることを確認して、わたしは少し安心する。
ベッドに紺色のマフラーが落ちているのを見つけて、拾った。
鼻を埋めると、こたちゃんの匂いがした。こたちゃんの匂い、だけ。あの日こたちゃんの服に染みついていたような、香水の匂いはしない。女の子の匂いは、しない。犬みたいに、わたしはそれを何度も確認する。目を閉じて、大きく息を吸う。
だけどもし、そこから女の子の匂いがしたとしても。
わたしはどうせ、なにもできない。問い詰めるなんて、そんなうざいこと、できない。彼に嫌われそうなことは、できない。なにも気づかない振りをして、バカみたいに笑って、ずっとこたちゃんの傍に居続けることしか、どうせ。
ぺこん、と、気の抜けた通知音が響いた。
心臓が一度硬い音を立てる。
メッセージが届いたことを知らせる、短い音。わたしの、きらいな音。
目をやると、こたちゃんのスマホがあった。ローテーブルの上に、画面を下にして置かれている。
わたしはゆっくりとベッドを降りて、テーブルのほうへ歩いていった。手を伸ばし、そっとスマホを拾い上げる。
『今日はありがとねー! やっぱり今度ゆうきもいっしょに来たいらしくて、明日、』
あったのは、『ちゃしー』からのメッセージ。
表示されていたのは、そこまでだった。続きはアプリを開かないと読めない。だからわたしには、それ以上のことはわからない。『ちゃしー』が誰なのかも、『ゆうき』が誰なのかも、今日なにがあったのかも、明日なにがあるのかも。そこには、わたしの知らないこたちゃんの世界があって、わたしはそれに、触れられない。
こたちゃんは大学に行っている。バイトをしている。友達がいる。この部屋が世界のすべてになってしまった、わたしとは違う。
後ろでドアが閉まる音がしたのは、そんなときだった。
驚いて振り向くと、こたちゃんが風呂場のドアの前に立っていた。
あ、と掠れた声がこぼれる。
こたちゃんはわたしの手元をちらっと見て、それからわたしの顔を見た。スマホを手にしたまま、呆けたように立ちすくむわたしに
「……どうしたの?」
「え」
「なんかあった? それ」
それ、と彼が指したのは、わたしが言い訳のしようもないほどしっかりと握りしめている、彼のスマホ。
わたしはゆるゆると首を横に振って
「なに、も。ただ、通知がきて」
「見たの?」
「……ごめん、なさい」
「べつにいいけど」
こちらへ歩いてきたこたちゃんが、わたしのほうに手を差し出す。
「見られて困るようなものじゃないし」
おそるおそる顔を上げると、こたちゃんは落ち着いた表情でわたしを見ていた。その目にはなんの動揺もない。わたしを責めるような色もない。なんにも、ない。
スマホを返すよう差し出されたはずのその手を、気づけば、わたしはぎゅっと握りしめていた。
「ごめんなさい」
口を開くと、いつの間にか喉がカラカラに渇いていたことに気づいた。鼓動が硬く速くなる。
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
そう返したこたちゃんの声も表情もやわらかくて、わたしはよけいに途方に暮れる。
「あの、もう、ぜったい見ないから」
「うん」
「だから、おねがい。ゆるして」
懇願する声は、自分でもびっくりするぐらい必死だった。こたちゃんはちょっと困ったような顔で首を傾げる。
「だから、怒ってないってば」
知っている。
こたちゃんはわたしを怒らない。
あの日だけだった。こたちゃんに冷たい言葉を投げつけられたのも。縋る手を振り払われたのも。あの日以降、こたちゃんはまた、ずっとわたしに優しい。
だけど知っている。あの日の言葉が、こたちゃんの本音なんだ。あの日の言葉だけが。
こたちゃんは黙ってわたしの手からスマホを受け取ると、画面を見た。
指先をすべらせ、さっき届いた『ちゃしー』からのメッセージを確認する。わたしの知らない、こたちゃんの友達からの。
その伏せられた目を見ていたら、ふいに、喉を絞められるような息苦しさがおそってきた。
画面に目を落としたまま、こたちゃんがわたしの横をすり抜ける。そうして台所のほうへ向かいかけた彼の背中に、気づけばわたしは手を伸ばしていた。
「こたちゃん」
彼のお腹に手を回し、ぎゅっと抱きつく。まだあったかい背中に顔を埋めると、石けんの匂いがした。
「こたちゃん、したい」
焼けるような焦燥に押されて呟く。
――知っている。
こたちゃんは、わたしを信じていない。
だからこたちゃんは、わたしに、なにも期待しない。
少しだけ迷うような間があって、こたちゃんはお腹に回されたわたしの手に触れた。抱きしめる力をゆるめれば、こたちゃんがわたしのほうを向き直る。そうして逆に抱き寄せられて、心の底からほっとした。喉を締めつけていたなにかがゆるんで、ようやく、息ができるようになる。
だから、いつか。
この手がわたしを突き放す日がきたら。
わたしはきっとその瞬間に息ができなくなって、死ぬのだろう。大袈裟でも、比喩でもなく。
「……こたちゃん」
だから、わたしは今日も繰り返す。
なんの意味もない言葉を、祈るように。
「こたちゃん、好き」
彼がけして、信じない言葉を。なにも気づかない振りをして、バカみたいに笑って。それしか知らない。知らないから。
僕の彼女は僕のことが好きじゃない 此見えこ @ekoko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます