第9話

 別れたあとも、千紗ちゃんは週に三日ほどのペースで僕の家にご飯を食べに来ている。

 別れればさすがに会う機会は減るかと思っていたけれど、実際はこれまでとさほど変わりない生活が続いていた。

「五十嵐くんと、デートとかしなくていいの?」

 その日もバイト終わりに僕の家へ来て、僕の作ったオムライスを食べている千紗ちゃんに、ふと気になって訊いてみると

「ときどきはしてるよ。でも五十嵐くん、わたしと違ってすごい頭良い大学に通ってるから、忙しくて」

 あっさりした調子で答える千紗ちゃんの髪は、なんともやる気のないカールがかかって彼女の肩に載っている。爪のマニキュアも少し剥がれているし、今日は五十嵐くんと会う予定はなかったらしい。外見の整い方が全然違うのですぐにわかる。

 ただ今日千紗ちゃんが着ている白いワンピースは、今まで一度も見たことのない服だったので

「その服、はじめて見た。買ったの?」

「うん、昨日買っちゃったー。可愛い?」

「めっちゃ可愛い」

「やった! 五十嵐くんもそう言ってくれるかなー」

 にこにこと笑いながら、千紗ちゃんは幸せそうにチキンライスをすくう。その手首で、シルバーの華奢なブレスレットが光った。そのブレスレットも、僕の記憶にある限り見るのははじめてだった。

「それも?」と指さしてみれば、千紗ちゃんは自分の手首に目をやって、それから、ああ、とうれしそうに顔をほころばせた。

「これはね、五十嵐くんにもらったんだー」

 可愛いでしょー、と千紗ちゃんは愛おしげな目でブレスレットを眺めながら

「わたしに似合いそうだったから、って。優しいでしょ。もう、嬉しすぎて泣きそうになっちゃった」

「よかったね」

「うん! あ、それでね、わたし、ちょっとこたちゃんに訊きたいことが」

 千紗ちゃんはなにか思い出したようにスプーンを置くと、傍らに置いていたハンドバッグからスマホを取り出した。画面を開き、こちらへ向ける。

「これなんだけどね」

 映っていたのは、ショーウインドウの中にある腕時計の写真だった。黒い革バンドに青い文字盤の、男性ものの腕時計。

「これ、どう思う?」

「どうって」

「こたちゃんなら、これもらったら嬉しい?」

 訊かれて、僕はあらためて画像の腕時計を眺めてみた。どこのブランドかはわからないけれど、ぱっと見高級そうだ。「嬉しいけど」と僕はとりあえず答えてから

「なに、五十嵐くんに買ってあげるの?」

「うん、もうすぐ誕生日らしいから」

「でもこれ、けっこう高そうだけど」

「まあ安くはないかな。でも、付き合って初めての誕生日だもん。せっかくなら、五十嵐くんが喜んでくれるようなプレゼントあげたいし」

「……大丈夫なの? お金」

「大丈夫。最近バイト増やしたんだ」

 もしかして、最近大学に来ないのはそのせいなのだろうか。話を聞く限り、千紗ちゃんと五十嵐くんはそれほど頻繁に会っているわけではないらしい。考えてみれば、五十嵐くんも学生なのだから、平日の昼間は授業があるはずだ。


 僕はふと玄関のほうへ目をやった。僕の靴と並んで、高いヒールの黒いパンプスがある。僕の記憶にある限り、あれもはじめて見る靴だ。

「……あの靴も、買ったの?」

「うん、この服に合わせて買っちゃったー。可愛いでしょ」

 なんの迷いもないあっけらかんとした笑顔で、千紗ちゃんは頷いてみせる。

「五十嵐くん、きれい系の服装が好きらしいんだ。でもわたし、あんまりそういう服持ってなくて。あわてて買い足しにいっちゃった」

 僕は曖昧な相槌だけ打ってから、そういえば、とポケットに入れていた映画のチケットを取り出した。

「これあげる」

「なあに、チケット?」

「友達にもらったんだけど、千紗ちゃん、五十嵐くんと行ってきなよ」

 笑顔で差し出したけれど、予想に反して千紗ちゃんの反応は渋かった。「あ、でも……」困ったような声を漏らして、チケットに書かれたタイトルを確認した千紗ちゃんは

「五十嵐くん、映画あんまり好きじゃないみたいなんだ」

「そうなの?」

「うん。前に一回、レイトショー行こうって誘ったことあるんだけどね、断られちゃったの。映画デートあんまり好きじゃないんだって」

 だからごめんね、と返されたチケットを、僕は首を振って受け取ってから

「千紗ちゃんさ」

「ん?」

「五十嵐くんは、優しい?」

 うん、と千紗ちゃんは一秒も間を置くことなく頷いて

「すごく優しいよ。だってブレスレットもくれたし」

 心底うれしそうに笑う千紗ちゃんを眺めながら、だけどなんとなく、あのブレスレットはたいして高いものではないのだろう、と僕は奇妙な確信をもって思ってしまった。

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