第19話
テレビで、キャスターが今日のプロ野球の試合結果を伝えている。晩ご飯の片付けも終わったあとはとくにすることもなく、僕はテーブルの前に座ってそれをぼんやりと眺めていた。
「ね、こたちゃん」
千紗ちゃんはベッドの上から、同じようにテレビを眺めている。早く寝るよう再三勧めているのだけれど、昼も寝たから全然眠くないのだと言って、まったく聞く耳を持たない。
「わたし、大丈夫だよね?」
唐突な質問に、僕は千紗ちゃんのほうを振り返った。
「なにが?」
「五十嵐くんとのこと」
興味なんてないはずのプロ野球情報をいやに真剣な顔で眺めながら、千紗ちゃんが続ける。
「五十嵐くん、忙しいだけだよね?」
僕もテレビ画面に視線を戻してから、うん、と静かに頷いた。
「そうだと思うよ」
「そうだよね」
「うん。だって五十嵐くん、国立大の法学部なんでしょ。勉強忙しいんだよ。生活費稼ぐためにバイトも頑張らないといけないなら尚更」
うん、と千紗ちゃんはぼんやりとした声で呟く。
「そうだよね」
いつかも、千紗ちゃんとこんなやり取りをした気がした。高校時代、ひとりの先生に望みのない片思いをして、それでもあきらめきれず、必死に追いかけていた彼女と。
そんなことを思い出していたら
「佐久間先生のときも」
「え」
まるで僕の考えていたことを読み取ったようなタイミングで、千紗ちゃんがその名前を口にしたので、ちょっと驚いた。
「こたちゃん、ずっとそうだったよね」
「そうって?」
「ぜったい否定しないで、応援してくれた。こたちゃんだけだったよ。みんな、やめろやめろって、そればっかりだったのに。萩原くんになんて、ずっとストーカーだとか言われてたし」
「……言ってたね」
思い出して、僕がちょっと笑うと
「ねえ、こたちゃんは」
千紗ちゃんはふとなにかに気づいたように僕を見た。
「あの頃から、わたしのことが好きだったんだよね?」
「そうだよ」
「なのにどうして、あんなに協力してくれたの? 佐久間先生とのこと」
不思議そうに首を傾げる千紗ちゃんに、僕は笑って、悩むことなく答えを返す。
「千紗ちゃんの笑顔が見たかったから」
「……笑顔」
「うん。千紗ちゃんが喜んでくれるなら、それでいいやと思って」
そっか、と呟いて千紗ちゃんは目を伏せた。なにか口の中でもごもごと呟いたようだったけれど、よく聞き取れなかった。
観ていたニュース番組も終わり、適当にチャンネルを切り替えていたときだった。
テーブルの上に置かれていた千紗ちゃんのスマホが震えた。途端、勢いよく起き上がった千紗ちゃんが、スマホを拾う。そうして画面を見るなり目を見開いて、え、と声をこぼした。
「五十嵐くんからだ」
「え」
「今からこっち来るって!」
あわてたように声を上げた千紗ちゃんが、僕を振り返る。そうして、あたふたと部屋を見渡しながら
「ごめん、こたちゃん、帰って」
僕の顔を見ることもなく、きっぱりとした声で、そう言った。
そこには、なんのためらいもなかった。数時間前に僕に帰らないでと縋りついたことなんて、もうなかったことみたいに。落ち着きなく部屋を歩き回る千紗ちゃんは、きっともう五十嵐くんのことしか考えていない。
僕は頷いて立ち上がると、床に置いていた鞄を拾いながら
「……よかったね、連絡あって」
「うん!」
頬を紅潮させ、うれしそうに頷いてみせた千紗ちゃんは、さっきまでより格段に元気になったように見えた。
「五十嵐くんには、具合悪いってこと言ってあるの?」
「うん、いちおう」
「じゃあ、あとは五十嵐くんにしっかり看病してもらいなね」
言いながら、だけどきっと五十嵐くんは千紗ちゃんの看病なんてしてくれないことは、嫌になるほど察しがついた。壁に掛けられた時計に目をやると、そろそろ日付が変わろうとしていた。
「冷蔵庫にヨーグルトとかゼリーとか入れてるから、食べられそうなら食べてね」
そんな言葉を投げたけれど、千紗ちゃんの耳に入ったかは怪しかった。「わかった、ありがとう」と答えた千紗ちゃんは、姿見の前に立って忙しなく髪をいじっている。
「ね、わたし、おかしくないよね?」
「何にもおかしくないよ」
「あの、こたちゃん、今日はいろいろありがとう。ごめんね、なんか急に」
「いいよ。五十嵐くんが来てくれるならよかった。鉢合わせたら大変だし、もう帰るね」
うん、とそこでようやく千紗ちゃんは鏡から目を離して、僕のほうを振り返った。
「またね、こたちゃん!」
明るい笑顔で手を振る。そのあとはもう一度も、こちらを振り返ることはなかった。
アパートの階段を下りたところで、駐車場のほうからこちらへ歩いてくるひとりの男が見えた。
きっとあれが五十嵐くんなのだと、自分でも不思議なほどはっきりわかった。すらっと高い背や彫りの深い整った顔立ちが、わかりやすく千紗ちゃんの好みだったから。
向こうはもちろん僕のことなど気にせず、まっすぐに歩いてくる。だから僕も軽い会釈だけして通り過ぎた。邂逅はそれで終わった。だから僕は五十嵐くんについて、それ以上のことはなにもわからなかった。
ただ、彼の着ていた真新しそうなジャケットも、すれ違う際、かすかに酒の匂いに混じって漂った香水の匂いも、千紗ちゃんの語るような苦学生のイメージとは、まったく重ならなかった。
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