第18話

 部屋に入るなり、千紗ちゃんは僕の肩に額を押しつけるようにしてもたれかかってきた。

「ちょ、大丈夫?」

 あわてて支えた身体は本当に力がなくて、けっこう深刻な具合の悪さらしい。足取りも覚束ない千紗ちゃんを、とりあえず抱えるようにしてベッドまで運んだ。

 座らせると、彼女はそのまま横向きにばたんと倒れ込む。

「死にそうー」

 掠れた声を力なくこぼす千紗ちゃんは、青いボーダー柄のパジャマを着ていた。頬は赤く、両目も潤んでいる。額に触れると、ちょっとびっくりするぐらい熱かった。

「いつから具合悪いの?」

「昨日の夜、こたちゃんが帰ったあとぐらいからきつくなって、夜中に熱が上がって」

「連絡してくれればよかったのに」

 でも、と千紗ちゃんはしんどそうに目を瞑りながら

「そこまで甘えるのはだめかなって……夜中だったし」

 らしくもない殊勝な言葉に、僕は思わず苦笑する。「そんなの気にしないでよ」言いながら、千紗ちゃんの肩に布団をかけると

「友達なんだから。なんかあったらいつでも連絡していいよ」

「うん。……ありがとう」


 僕は立ち上がると、ぶら下げていたビニール袋を手に台所へ行った。

「なんか食べたいものある?」ここへ来る前に買い込んできた果物やゼリーを袋から出しながら、千紗ちゃんに問いかければ

「いらない。食欲ない」

 布団に潜り込んだ千紗ちゃんからは、そんな力ない声が返ってきた。

「なにも食べれそうにない?」

「うん。今は無理」

「じゃあ、とりあえず寝ときなよ。冷えピタいる?」

「いるー」

 今度はちょっと弾んだ声が返ってきて、僕は笑った。

 買ってきた冷却シートを袋から取り出すと、ベッドに横たわる千紗ちゃんの顔の横に膝をつく。壁のほうを向いていた千紗ちゃんは、いそいそとこちらへ顔を向けた。汗をかいたのか、少し湿った千紗ちゃんの前髪を掻き上げ、僕は彼女の額にシートを貼りつける。

「気持ちいいー」

 千紗ちゃんは本当に気持ちよさそうに、ふにゃりと口元をゆるませる。

「よかったね」

「さすがこたちゃん、気が利くんだから」

「五十嵐くんには、連絡したの?」

 何気ない調子で尋ねてみると、千紗ちゃんはふっと目を開けてこちらを見た。ほころんでいた口元が、少し引きつる。

「……いちおう。既読にならないけど」

「そっか。忙しいのかな」

「うん、たぶん」

 千紗ちゃんは表情の消えた目で相槌を打ってから、また壁のほうへ寝返りをうった。


 そのまま眠ってしまった千紗ちゃんが目を覚ましたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 生姜を入れたおかゆとすりおろしたリンゴをローテーブルに並べる。千紗ちゃんは困ったように「食べれそうにない」と言ったけれど、「ひとくちだけでも食べて」と僕は彼女を半ば強引にベッドから降ろした。

「……おいしい」

 渋々ながらおかゆを口に運んだ千紗ちゃんが、ぽつんと呟く。

 よかった、と僕は笑った。

 朝からなにも食べていなかったようなので、お腹はすいていたのだろう。ひとくち食べたあとは、千紗ちゃんはふーふー息を吹きかけながら、熱々のおかゆをどんどん口へ運んでいる。


「ね、こたちゃん」

 半分ほどおかゆを食べたところで、千紗ちゃんはふと思い出したように顔を上げた。

「この前いっしょにいた女の子、誰?」

「この前?」

「日曜日。駅で、こたちゃんといっしょにいた」

「ああ、栗崎さん。同じ学部の友達」

「仲良いの?」

「うん、まあ」

 ふうん、と呟いて千紗ちゃんは視線を落とす。そうしてまた無言でおかゆをすくうと、息を吹きかけた。

「そういえば栗崎さん、五十嵐くんと同じ喫茶店でバイトしてるんだって」

 何とはなしに教えれば、知ってる、と千紗ちゃんからは素っ気ない調子で返ってきた。

「五十嵐くんに会いに行ったとき、あの子いたから」

「あ、喋ったことあったんだ」

「喋ったことはないよ。ただその子、五十嵐くんと仲良さそうに喋ってたから、ちょっと覚えてただけ」

「そうなの?」

「うん」

「……ふうん」


 けっきょく千紗ちゃんは、おかゆもリンゴもきれいに平らげた。おいしかった、とうれしそうに呟く千紗ちゃんは、最初に顔を合わせたときより、いくらか元気が戻ったように見えた。

 それでも、雑然とした部屋から体温計を探し出して測ってみると、37.7という数字が出て

「病院行かなくていい?」

「いい。お金かかるし。寝れば治ると思うから」

 千紗ちゃんがさらっと口にした一部分にちょっと眉を寄せながらも、僕は、そっか、とだけ返した。そうして千紗ちゃんにはもう一度寝るよう勧めてから、テーブルの上の皿とコップを流しに運んだ。


 夜も更けた頃、千紗ちゃんの体調もだいぶ回復したようだったので、僕は「そろそろ帰るね」と告げた。

 途端、ベッドに寝ていた千紗ちゃんが弾かれたように顔を上げる。

「え、やだ」布団の中から手を伸ばし、ぱっと僕の手首をつかんだ彼女は

「帰らないで、こたちゃん」

 ぎゅっと僕の手首を握りしめながら、縋るような目で僕を見上げた。

「また明日来るから」優しく言いながら、僕がその手を離そうとすると

「怖いんだもん、一人になると。また熱が上がったらどうしようって」

「大丈夫だよ。もうだいぶ良くなったみたいだし」

「昨日も、夜まではそんなにひどくなかったの。夜中になって、急に熱が上がって」

 だから、ね。泣きそうな顔で、千紗ちゃんがじっと僕の目を見つめる。僕が断れないことはもう知っているような、甘えた声で続く。

「帰らないで。泊まっていって。……おねがい」

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