僕の彼女は僕のことが好きじゃない

此見えこ

本編

第1話

 ――いくら可愛くても、あれはないわ。


 それが僕の友人たちの、千紗ちゃんに対する評価だった。

 正しくは、千紗ちゃんの高校時代を知る友人たちの。

 きっと大学で知り合った友人たちは、千紗ちゃんに対してこれといった印象は持っていない。だって彼女は、まともに大学に通っていない。

 千紗ちゃんは昔から、恋をすると、他のことなんて全部どうでもよくなってしまう子だった。






 インターホンが鳴ったのは、日付が変わって少し経った頃。限界まで迫る睡魔と戦いながら、なんとか明日提出のレポートを書き上げたときだった。

 ドアを開ける前から、その訪問者が誰なのかはわかっていた。こんな時間に僕の部屋を訪れる人物なんて、一人しかいない。だから僕はベッドに向かおうとしていた足を方向転換させ、玄関へ向かう。どんなに眠かろうと、僕はその訪問者を無視なんてしない。できない。


「やっほーこたちゃん、お腹すいたー」

 開いたドアの向こう、立っていたのは思った通りの人物だった。

 毛先をゆるく巻いたセミロングの髪に、白いワンピース。ベージュのチェスターコートを羽織った小柄な女の子。

 遠慮なく僕の部屋に上がり込んだ彼女は、バッグをベッドの上に放り、その隣に腰掛ける。それから僕のほうを見上げると軽く首を傾げ

「ね、こたちゃん。なにか食べさせて?」

 いつもの台詞といっしょに、へらっと笑った。


「なに、晩ご飯食べなかったの?」

「うん。今日はバイトの時間ギリギリまでいつものところにいたから」

「てことは、今日も会えなかったんだ」

「うん、残念ながら。なんでだろうねえ」

 なんでだろうねえ、と真似するように返しながら僕は台所に向かう。

 冷蔵庫には作り置きしたおかずを詰めたタッパーが並んでいる。野菜室にもある程度の野菜はそろっているから、こんな時間だろうと困ることはない。「千紗ちゃん」中を覗きながら、僕は後ろにいる彼女へ声を投げると

「なにか食べたいものある?」

「えっ、リクエストしてもいいの?」

「応えられるかはわかんないけど」

「じゃあ、えっとね、オムライス!」

 りょーかい、と返して冷蔵庫から卵とタマネギを取り出す。冷凍したご飯と鶏肉もあるから問題ない。彼女のいちばん好きなオムライスだけは、いつだって作れるように準備ができている。

 タマネギをみじん切りにしていると、千紗ちゃんは「なんか寒―い」と言いながら勝手にエアコンをつけていた。テレビもつけ、ベッドに腰掛けたまま適当にチャンネルを回している。まさに勝手知ったる他人の家だ。

 だけどべつに嫌な気はしない。非常識だとも思わない。千紗ちゃんは、僕のカノジョだから。

 夜中だろうといつだろうと、気兼ねなく訪れてもらっていい。彼氏の家なのだから。


 完成したオムライスをローテーブルの上に置くと、千紗ちゃんは目を輝かせてベッドから降りてきた。テーブルの前に座り、「いただきます!」と元気よく宣言してからスプーンを手に取る。そうして幸せそうにオムライスを頬張る千紗ちゃんを眺めながら

「千紗ちゃん、今日大学行かなかったでしょ」

「うん。いつものところにいたもん、ずっと」

「朝から?」

「うん。8時ぐらいから」

「バイトの時間までずっと?」

「うん。なんかね、今日は会えそうな気がしたの。だめだったけど」

 はー、と呆れたような感心したような複雑な声が漏れる。彼女のバイトはたしか夜の8時からだ。朝の8時から夜の8時まで、12時間。ずっとあの場所で張っていたということか。あいかわらずの熱意だ。この熱意がもう少し他のことにも向けばいいのに。たとえば勉強とか。

「明日は大学行く?」

「どうしよっかなー」

 チキンライスをすくいながら返ってきた声の気のなさだけで、明日も千紗ちゃんは大学に行く気がないらしいことは充分にわかった。

「明日こそは会えそうな気がするんだ。だから明日も探してみようかな」

「朝から?」

「うん。あの日も朝だったし、そのほうが可能性あるかなって」

「つまり、明日も大学は行かないんだね」

 えへへ、とごまかすように笑って、千紗ちゃんはケチャップのかかった卵を口に運ぶ。


 千紗ちゃんが探しているのは、二週間前、千紗ちゃんが落としたパスケースを拾ってくれたという男の人。

 そのときは千紗ちゃんも急いでいたし、簡単にお礼を言うだけで別れたらしい。けれどその後、千紗ちゃんはその親切な彼のことが忘れられなくなった。また会いたいと思うようになった。それで、彼に会った交差点に通い詰め、彼を探すようになった。名前も連絡先もなにも知らない彼とふたたび会う方法は、それしかない。偶然に賭けるしかない。けれど二週間ほぼ毎日通い詰めても、未だその偶然は巡ってこないらしい。


「今日、泊まってくの?」

「もっちろーん。今から帰るのめんどくさい」

 千紗ちゃんの返事を聞いて、僕はクローゼットから布団を引っ張り出した。彼女の寝床ではない。今日の僕の寝床。ローテーブルを片付け、床に布団を敷いているあいだに、千紗ちゃんは洗面所で歯を磨いてきた。寝間着代わりのスウェットに着替えた彼女が、勢いよくベッドにダイブする。安いベッドのスプリングが軋む。

「ねえ、千紗ちゃん」

「うんー?」

 枕に顔を埋めた彼女から、くぐもった声が返ってくる。

「あの人探すのはいいけどさ、ご飯はちゃんと食べてよ」

「うん、大丈夫だよ」

 あっけらかんとした笑顔で顔を上げた千紗ちゃんは

「こたちゃんいるもん。お腹すいたら、こたちゃんがおいしいご飯食べさせてくれるもん」

「明日も、お金ないならうちおいでよ。なんか作っとく」

「ほんと? ありがとう!」

 うれしそうに笑ってから、千紗ちゃんはまた枕に顔を埋めた。そのまま壁のほうに寝返りをうった彼女の肩に、僕はいつものように布団を掛けてやる。

「おやすみ」

「うん、おやすみー」

 短い挨拶を交わして、僕は床に敷いた布団に入る。千紗ちゃんが泊まりに来たときの僕の寝床は、いつもここだった。千紗ちゃんと僕が同じベッドで寝たことはない。一度も。だから同じ部屋で寝ていても、僕は千紗ちゃんに指一本触れることはない。千紗ちゃんがそんなことは望んでいないから。僕は彼女が望まないことはしない。ただ、僕が彼女のためにご飯を作って、食べさせてあげる。僕たちがするのは、ただそれだけ。


 僕たちは、そういう約束で付き合っている。

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