第2話

「千紗ちゃん。僕と付き合ってください」

 僕が千紗ちゃんにそう言ったのは、十日前。

 お互い大学に入学して一ヶ月が経ち、ようやく生活も落ち着いてきた頃だった。


 そのときばかりは、さすがにいつも脳天気で空気が読めない千紗ちゃんも神妙な顔をして

「えっと、こたちゃん、ごめんね」

 慎重に、言葉を選ぶようにして口を開いた。

「わたし、こたちゃんのこと、そういうふうには」

「わかってる」

 続きそうになった断りの言葉を、僕はそう言って遮った。「それでいいんだ」と重ねる。

「僕のこと、好きじゃなくていい」

「え?」

「なんていうか、そういう一般的な、恋人っぽいことは何にもしなくていい。デートとかもなくていいし、千紗ちゃんが嫌なら、僕は千紗ちゃんには指一本触れない。ただ、付き合ってほしいんだ」

「……ええ?」

 千紗ちゃんは、わけがわからないという顔で僕を見た。

「どういうこと? じゃあ付き合ってなにするの?」

 向けられた質問に、僕は待ってましたとばかりに用意してきた答えを返す。

「ご飯を作らせてほしい」

「ご飯?」

「うん。僕に、千紗ちゃんのご飯を作らせてください」


 千紗ちゃんは心の底から困惑した顔をして、何度かまばたきをした。僕の言ったことがよく理解できないみたいだった。

「こたちゃんが、わたしのご飯を作るの?」

「うん」

「なんで?」

「心配だから」

「心配?」

「千紗ちゃん、まともにご飯食べてないじゃん」

 朝ご飯を抜いたり、ひどいときは晩ご飯も抜いたり。食べたとしてもカップラーメンだとかコンビニのおにぎりいっこだとか。千紗ちゃんの食生活はそんな感じだ。それも大学生になって一人暮らしを始めてからではなく、高校生の頃からわりとそうだった。両親が共働きで帰りが遅い千紗ちゃんの家では、晩ご飯はなにか買って食べていて、とお母さんからお金だけ渡される日もしばしばあった。そして千紗ちゃんはそのお金で、よく晩ご飯ではなく服やら雑誌やらを買っていた。


「わたし、食べなくても平気なんだもん」

「そんな人間いないって。だからそんなに痩せてるんじゃん」

「でも、体調崩したりはしてないし」

「いや、千紗ちゃんたまに顔色悪い日あるよ。とにかく僕は心配なの。千紗ちゃんにまともなご飯を食べさせたいの」

 高校生の頃にも、見かねて、千紗ちゃんにお弁当を作ってあげたり、晩ご飯をごちそうしたりすることはあった。だけど千紗ちゃんは、友達にそこまで甘えるのはおかしいから、なんて言って、あまり頻繁には受け取ってくれなかった。脳天気なわりに、千紗ちゃんは変なところで律儀で遠慮がちだ。

 だから。

「彼氏からなら、気兼ねなく受け取れるでしょ?」

「なにを?」

「ご飯。彼氏が彼女にご飯作ってあげるのは何にもおかしいことじゃないし。気後れする必要もないし」

「そのために、付き合うの?」

「そう。僕が千紗ちゃんにご飯を食べさせるために」


 千紗ちゃんは難しい顔をして、なにか考えるように黙り込んだ。僕の言ったことを、頭の中で噛み砕いて整理しているみたいだった。

 三十秒ほど沈黙したあと

「……あの、あのね、こたちゃん」

 罰が悪そうに、おずおずと口を開いた千紗ちゃんは

「実はわたしね、今ね、ちょっと気になってる人がいて」

「知ってるよ。パスケースの彼でしょ」

「へっ?」

 彼女が告げるより先に引き取れば、千紗ちゃんは素っ頓狂な声を上げてこちらを見た。

 だって、と僕は笑って続ける。

「千紗ちゃん、最近その人の話ばっかりだし。最近毎日探してるんでしょ? その人にパスケース拾ってもらった交差点のところで」

「う、うん。だから」

「それでもいいよ」

「へ?」

 間の抜けた顔で僕を見つめる千紗ちゃんに、僕はにこりと笑みを向ける。

「千紗ちゃんがその人のこと好きだっていうなら、邪魔しない。ていうか応援する。今までどおり、千紗ちゃんはその人のこと探していいから。会えたなら、遠慮なく連絡先とか交換して、仲良くなってもらっていいし……っていうか、僕のことは何にも気にしないでいいから。いないものと考えてもらって」

「え、ええ?」

「もし千紗ちゃんがその人と付き合えるってことになったら、僕は千紗ちゃんとすぐに別れる。だからそれまで。それまででいいから、僕と付き合って。僕に千紗ちゃんのご飯を作らせてください。お願いします」

 そう告げて深々と頭を下げれば

「……え、で、でも」

 と千紗ちゃんの心底困惑した声が後頭部に降ってきた。

「それ、こたちゃんには何の得があるの?」

「得?」

「だって、デートもしないしキスとかもしないんでしょ? ただこたちゃんが、わたしにご飯を作ってくれるだけ。そんなの、こたちゃんが何にも得してないもん。ただわたしの分の食費がかさむだけで」

「え? そんなことないよ」

 今度は僕がきょとんとして返す。

「千紗ちゃんの笑顔が見れるじゃん」

「へ」

「好きな子の笑顔を間近で見られるんだから、それだけですごい得だよ。僕、千紗ちゃんがおいしそうに食事してるときの顔がいちばん好きなんだよね。だから千紗ちゃんにご飯食べさせてあげられるなら、それだけで充分幸せ」


 千紗ちゃんはなにかを探すみたいに、まじまじと僕の顔を眺めた。

 だから僕は、できるだけ優しい笑顔を浮かべてみせる。

「……こたちゃんって」

「うん?」

「そんなに、わたしのこと好きだったの?」

「そうだよ。高校のときからずっと。知らなかった?」

「……知らなかった」

「えー、だいぶ優しくしてたと思うけどなあ」

「こたちゃん、みんなに優しいんだと思ってた」

「さすがに好きでもない子にお弁当作ってきてあげたりはしないよ」

 千紗ちゃんは一度考え込むように目を伏せた。

 短い沈黙のあと、決心したように顔を上げる。それからまっすぐに僕の顔を見据えると、すっと短く息を吸った。

「わかった」

「え」

「わたし、こたちゃんと付き合う」

「ほんとに?」

「うん。こたちゃんのご飯、おいしいし。いっぱい食べたいもん」

「いっぱい作ってあげる。さっそくだけど、今日はなに食べたい?」

「えっ、えーと、じゃあ、オムライス!」


  こうして、僕は千紗ちゃんと付き合い始めた。

 僕のことを好きではない、他の男に恋をしている彼女と。

 ただ、彼女のご飯を作ってあげるために。

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