泥に沈む

 千紗ちゃんが、台所に立っている。なんだか不思議な光景だった。

 危なっかしい手つきでご飯を鍋に移す千紗ちゃんを、僕はベッドの上から眺めていた。


 風邪なんて、久しぶりにひいた。

 大学で講義を聴いていると頭が痛くなってきて、昼過ぎには席に座っているのもしんどくなった。

 帰宅してそのことを伝えると、千紗ちゃんはなぜかあからさまに目を輝かせて

「じゃあ、こたちゃんは寝てて。わたしがこたちゃんのために、おかゆを作ってあげます!」

 そう宣言して、僕をベッドに押し込んだのが一時間前。


 おかゆはまだ出来ないらしい。

 さすがに心配になって様子を見に行こうかとしていたとき、「痛っ」と千紗ちゃんが声を上げるのが聞こえた。

「どうしたの?」

 起き上がって台所へ向かうと、千紗ちゃんは左手の人差し指を押さえていた。

 見事なまでに、心配していたとおりの展開だ。

「切ったの?」

「あ、うん、ちょっと……あ、でも大丈夫だよ! こたちゃんは寝てていいから」

「絆創膏持ってくる」

 千紗ちゃんの言葉は無視して、戸棚のほうへ歩いていく。絆創膏とティッシュを手に台所に戻ると、千紗ちゃんはまだ左手を押さえたまま立ちつくしていた。その手をとって、血のついた人差し指をティッシュで軽く拭う。そうして絆創膏のテープをはがし、傷口に当てた。

「あ、ありがとう……」

「うん」


 見ると、まな板の上にはリンゴと包丁が載っていた。ほんの少しだけ皮が剥かれている。どうやらそこで指を切ったらしい。コンロの上には、ご飯の入った鍋が火にかけられていて

「リンゴ、僕が剥くよ」

「えっ、駄目だよ! わたしがするから、こたちゃんは寝て」

「千紗ちゃん、鍋」

「へ」

「焦げそうだから、千紗ちゃんはそっちして」

 僕の言葉に、思い出したように鍋のほうを見た千紗ちゃんは、わあっ、となんとも間の抜けた声を上げた。あわてて火を弱めると、おたまを手にとる。きっともういくらかは焦げついてしまったあとだっただろうけれど。


「……ごめんね、こたちゃん」

 ご飯をかき混ぜながら、ぽつんと千紗ちゃんが呟いた。叱られた子どもみたいな声だった。

「具合悪いときまで、こんなことさせちゃって」

「いいよ。そこまできつくないから」

「うそ。こたちゃん、すっごい顔色悪いよ。寝ててほしいのに……」

 たしかに顔色は悪いのだろう。さっきから頭はがんがんするし、立っているとふらつきそうになる。だけどこのまま千紗ちゃんを一人台所に立たせていても、どうせ心配で寝られたものじゃない。

「大丈夫。ご飯食べたら寝るから。早く作ろう」

 そう言って、僕はリンゴと包丁を手に取る。そうして千紗ちゃんが中途半端に剥いた皮の続きを剥きはじめると、「……うん」と今にも泣き出しそうなぐらい消沈した声が返ってきた。



 外がすっかり暗くなった頃、ようやくおかゆは完成した。

 梅干しの載ったおかゆは、明らかに水の量が多すぎるやわらかさだったけれど、食欲のない今はするりと喉を通ってくれるのがありがたかった。

「どうかな? 食べられる?」

 向かい側に座る千紗ちゃんが、心配そうに顔をのぞき込んでくる。

「うん、おいしい」

「ほんと? よかったあ」

 ぱっと顔を輝かせる千紗ちゃんの前には、そういえば何の料理も並んでいなくて

「あれ、千紗ちゃんのご飯は?」

「あ、わたしはいいの。お腹すいてないから」

 さらっと言い切る千紗ちゃんに、僕はまた眉を寄せると

「いや、だからそれは駄目だって。ちゃんと食べなきゃ」

「いいから。今はわたしの心配なんてしないで」

 きっぱりと告げてから、「それより」と千紗ちゃんはさっさと話題を変える。

「こたちゃん、体調はどんな感じ? ちょっとは良くなった?」

「んー……あんまり」

 むしろ悪化しているような気もする。昼間より身体が熱っぽくて、重たい。

 僕の答えに、千紗ちゃんはおもむろにこちらへ手を伸ばすと、手のひらを僕の額に当てた。

 途端、けわしい表情になって、あつい、と呟く。

「なんか熱上がってるみたい。ご飯食べ終わったら測ってみよう」

「うん」

「あ、後片付けはわたしがするから! こたちゃんはなにもしないでね、ぜったいだよ」

「わかった」

 あわてたように釘を刺され、僕は小さく苦笑しながら頷いた。

 茶碗の中の、ほとんど汁物みたいなおかゆをすくう。薄い塩味だけがついたそのごくごくシンプルなおかゆは、だけど不思議ほどおいしくて、ちょっと鼻の奥がつんとした。

 きっと体調が悪いせいだ、と思った。



 軽くシャワーを浴びて部屋に戻ると、「身体が温まってるうちに、早く寝て」と千紗ちゃんに親みたいな顔で言われた。だから思わず、はい、と子どもみたいな返事をしてしまったら、千紗ちゃんは満足げに笑っていた。

 言われたとおり、素直にベッドに横になると、千紗ちゃんがすぐに部屋の電気やテレビを消したので

「つけてていいよ? ついてても寝れるから」

「ううん。わたしももう寝るの」

「そうなの?」

 時計はまだ八時半を少し過ぎたところだ。

 困惑する僕にかまわず、千紗ちゃんはベッドに上がると、僕の着ていた布団を捲った。かと思うと、当たり前のように僕の隣に入り込んでくる。ちょ、と思わずぎょっとして声を上げた。

「今日は別々に寝ようって言ったよね」

「うん。やっぱりやだ」

「風邪うつるよ」

「いいよ」

 ふいに身体を起こした千紗ちゃんが、僕の顔の横に手をつく。そうして覆いかぶさるように真上から僕の顔をのぞき込んで

「わたしに、うつして。こたちゃんの風邪」

 見上げた彼女の表情は、場違いに真剣だった。

 眉を寄せた僕に、千紗ちゃんが顔を寄せてくる。彼女の長い髪が、頬に落ちる。


「ほんとに、うつるって」

「だから、うつしてって」

 まだ吐息がかかるほどの距離にいる千紗ちゃんは、とても真面目な顔をして繰り返すと

「こたちゃんに、早く治ってほしいから」

「べつに千紗ちゃんにうつしても治らないよ、風邪は」

「え、人にうつしたら治るって聞くよ?」

「迷信です。二人で寝込むことになるだけだから」

「でもわたしが風邪ひいても、誰も困る人なんていないし」

 ふいに乾いた声が耳を打って、一瞬、息を止めた。


 この部屋に来てから、彼女がたびたび口にするようになった、自虐的な言葉。何度聞いても、やっぱり慣れない。彼女らしくない、と思う。高校時代の彼女なら、きっと絶対にこんなことは言わなかった。

 卑下とか自虐とか、そういうものとはなにより遠いところにいる子だと思っていた。

 ちょっと無神経なぐらいに無邪気で、奔放で、だけどいつも誰より楽しそうで。傍にいると、こちらまでつられて笑顔になってしまうような、千紗ちゃんはそういう子で。

 そういう子、だったから。


 あの日、僕が惹かれたのは、そういう彼女だったんじゃないのか。

 ふいに頭の隅で、冷たい水が差すように思う。

 だけど。


「わたし、何にもできないから。今日だって」

 落ち込んだ声で、千紗ちゃんがぼそぼそと呟く。

「こたちゃん、具合悪かったのに。わたし、なにも役に立てなかった」

 その卑屈な顔に湧くのは、いつだって、どうしようもないほどの高揚だった。


「……おかゆ、作ってくれたじゃん」

「でも、こたちゃんに手伝わせちゃった」

「リンゴ剥いただけだよ。おかゆ作るのはなにも手伝ってない」

「リンゴも剥けないんだよ、わたし」

 途方に暮れた声で、放り出すように千紗ちゃんが言う。

「何にも、できない」

 千紗ちゃんはうつむくと、僕の胸に顔を押しつけた。


 僕はその頭をゆっくりと撫でながら、「それでいいよ」と優しく返す。いつものように。

「なにもできなくていいよ。リンゴなんて、僕が剥くし」

 顔を上げた千紗ちゃんが、僕の目をのぞき込む。なにかを探すみたいに。その必死な目に、僕はまた、たまらなく満たされた気分になる。なって、しまう。

 彼女が頼れるのはもうこの世で僕しかいないのだと、そんな錯覚すら抱くほど。


「こたちゃん、おねがい」

「うん」

「ずっとわたしと、いっしょにいてね」

「うん」

「ぜったい、いなくならないでね。わたし」

 縋るようなその声に、ぞくりと肌が粟立つ。目眩がする。

「こたちゃんがいないと、生きていけないよ」

「……じゃあ」

 だから、これでいい。これがいい。

 確認するように思いながら、僕の上にいる彼女の肩をつかむ。ベッドに沈め、今度は僕が真上から彼女の顔を見下ろす。

「もし、僕が死んだら」

「わたしも死ぬ」

 一秒の間も置くことなく返された答えに、ふいに頭の芯がぐらりと揺れる。


 また熱が上がってきたのかもしれない。重たい痛みが頭を覆っていて、うまく思考がつながらない。

 顔を寄せると、千紗ちゃんは笑顔になって目を瞑った。

 こういうときの彼女は、いつもこんなふうに、ほっとした顔をする。なんの緊張も恥じらいもない、ただ、安堵。僕に求められることに、千紗ちゃんは安心している。僕の役に立っていると思えるから。

「……風邪、うつしていい?」

「いいよ」

 うれしそうに、千紗ちゃんの腕が僕の首に絡む。頬をすり寄せ、僕にしがみついてきた彼女が、耳元で甘くささやく。いつものように、媚びる声で。


「こたちゃん、好き」

 頭が痛い。

 もう、なにが嘘でも、いいと思った。

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