第27話

「やっぱり、こたちゃんがいてくれてよかった」

 うれしそうに千紗ちゃんがそう言ったのは、僕が佐久間先生の連絡先を手に入れて、千紗ちゃんに教えてあげたとき。


「こたちゃんだけだよ。こんなふうに、佐久間先生のこと協力してくれるの」

 連絡先を登録したスマホを宝物みたいに握りしめて、千紗ちゃんが言う。

「みんなはしてくれないの?」

「うん、だーれも」

 千紗ちゃんは不満げに口をとがらせると

「萩原くんなんてひどいんだよ。それ以上やったら訴えられるぞ、とか言うの。いい加減ストーカーやめろって、最近は顔合わせるたびそればっかり」

 それはきっと、萩原が千紗ちゃんのことを、友達として心から心配しているからだ。

 僕と違って。

「千紗ちゃんは、萩原になんて言ったの?」

「関係ないんだからほっといて、って。だって、わたしと先生のことなんて、萩原くんは何にも知らないんだから」

「そっか。そしたら萩原は?」

「じゃあ好きにすれば、って。もうなにも言わないって」

「……そっか」

 これで、またひとつ大切なものを失ってしまったことに、千紗ちゃんはきっと気づいていない。僕も、教えてなんかあげない。

 ――いつか、彼女が気づくことはあるのだろうか。



「宮田くんの下の名前、こたろーっていうの? いいね」

 ふいに横から聞こえてきた声に、振り返る。

 ついさっき行われた席替えで隣の席になった女の子が、身体ごとこちらを向けて僕を見ていた。

 にこにこと笑う顔は小さく、長い睫毛がくるんと上を向いている。化粧をしているのか、白い肌の頬にだけ薄くピンク色が載っていた。

 なにが、「いい」のかよくわからず、僕が返事に迷っているあいだに

「じゃあ、こたちゃんかな? どう?」

「え、なにが」

「こたろーくんのあだ名」

 低い位置で二つに束ねた長い髪に触れながら、その子は言った。

 こたちゃん、と僕は呆けたように繰り返す。こちらの困惑なんてつゆ知らず、うん、と彼女は相変わらずにこにことした笑顔で頷いてみせると

「なんかこたろーくんって、こたちゃんって感じ」

 こんなひとっ飛びの距離の縮め方をする子ははじめてで、僕はちょっと圧倒されていた。それでも嫌な気がしなかったのは、人懐っこい笑顔でこちらを見つめる彼女が、きっと可愛かったからで。

 可愛いって得だなあ、なんて僕は頭の隅で思いながら

「……どうぞ、好きなように呼んでください」

 ぎこちなく頷けば、やった、とその子は八重歯をのぞかせて笑った。

「あ、わたしのことも好きなように呼んでね。よろしくねー、これから」


 それが、千紗ちゃんと交わした最初の会話だった。

 こたちゃん。彼女の声で響いたその呼び名は、それから長いこと耳に残って消えなかった。

 声だけではない。チークののったピンク色の頬も、まっすぐにこちらを見つめた黒目がちな大きな目も、長い睫毛も。これまで女子とろくな関わりがなかった僕にとって、全部が鮮烈に、まぶたの裏に焼きついていた。



「わ、こたちゃんのお弁当おいしそー」

 それからも千紗ちゃんは、ことあるごとに話しかけてきた。宿題忘れたから写させて、とか、今日の授業であてられそうな問題の答えを教えて、とか、主にそんなお願いが多かったけれど。

 今日も横から身を乗り出して、僕の食べているお弁当を覗き込んできた彼女は

「いいなあ、お母さんが作ってくれてるの?」

「いや、今日のは自分で」

「えっ、自分?!」

 驚いたように千紗ちゃんが勢いよく顔を上げる。至近距離で視線がぶつかり、一瞬息が詰まった。

「うそ、これこたちゃんが作ったの?!」

「うん、まあ」

「え、すごすぎ! めっちゃ上手いね!」

 目を輝かせてじっと僕を見つめてくる千紗ちゃんに、気恥ずかしくなって僕が視線を落とすと

「ね、ひとくちちょうだい?」

「え」

 言うが早いか、千紗ちゃんは自分の箸を僕のお弁当へ伸ばしてきた。卵とかにかまのサラダをちょいとつまむと、口へ運ぶ。

 途端、目を丸くしてまた僕の顔を見つめると

「おいしい!」

「……よかった」

「え、ほんとに超おいしいんだけど、なにこれ」

 千紗ちゃんは興奮気味に言いながら、許可もとらずサラダをもうひとくち食べている。

 んー、と噛みしめるように目を瞑る。

「こんなおいしいお弁当はじめてかもー」

「大袈裟だって」

「いやいや、ほんとに」

 真面目な顔で言って、今度は水菜のおひたしのほうに箸を伸ばしながら

「今まで食べたお弁当の中で、いちばんおいしいよ!」


 ――思えば、それが決定打だったような気がする。

 いちばん、だとか、はじめて、だとか。千紗ちゃんはわりとよく口にしている。きっとあまり深く考えることもなく、軽い調子で。

 だけど、それでも僕には鮮烈だった。これまで勉強でも運動でも、特別に秀でたところのなかった僕にとって。彼女がまっすぐに僕の目を見つめて、満面の笑みで、たいした重みはなくとも、きっと心から思って向けてくれた「いちばん」は。

 どうしようもなく、刺さってしまった。



 千紗ちゃんがそんなふうに接しているのは、べつに僕だけではなかった。千紗ちゃんはたいてい誰にでも人懐っこく話しかけていたし、仲の良い男子も多かった。変なあだ名で呼ばれている男子も、僕以外にも何人かいた。隣の席ということで、他のクラスメイトたちより少しだけ話す機会は多かったけれど、あくまでもそれだけ。僕は千紗ちゃんにとって、特別仲が良いわけでもない、ただのクラスメイトの一人だった。

 あの日までは。



「今まで出会った男の人の中で、絶対いちばんイケメンだと思うんだ!」

 浮き立った声で彼女がそう言った相手は、先生だった。

 若くて優しい、生徒からも人気の数学の先生。

「しかも名前も、佐久間だよ佐久間。すごくない? 名前までイケメンって!」

 イケメンな名前というのがどういうものなのかはよくわからなかったけれど、たしかに宮田よりはイケメンかもなあ、なんて思いながら僕が曖昧な相槌を打っていると

「でもね」

 ふと千紗ちゃんが顔を暗くして、ぼそっと言った。

「佐久間先生、カノジョいるらしいんだよね……」

 たしかに、そういう噂はあった。佐久間先生には学生時代から長年付き合っている彼女がいて、結婚も近いらしい。どこから仕入れた情報なのか知らないけれど、クラスの女子が話していたのを聞いたことがある。

「だから、さすがに無理かなーって……」

 落ち込んだ声で呟く千紗ちゃんの顔を、僕は見つめた。


「……なんで?」

「え?」

「なんでカノジョいたら無理なの?」

 僕の言葉に、千紗ちゃんはぽかんとした顔を上げると

「え……だ、だって」

「べつにいいじゃん、カノジョいたって。結婚してるわけじゃないんだし」

 僕はできるだけ優しく笑ってみせると

「無理なんてことないよ」

 千紗ちゃんは心底意外なことを言われたように、驚いた顔で僕を見つめた。

「……え、ほんとに」何度かまばたきをして、ちょっと期待の混じる声で口を開く。

「こたちゃん、ほんとにそう思う?」

「うん。千紗ちゃん可愛いんだし、頑張ればいけるって」

「そう、かな。いけるかな」

「いけるいける。佐久間先生、千紗ちゃんのことよく見てるし、気に入ってるんだと思うよ」

「え、うそ。ほんとに?」

 沈んでいた千紗ちゃんの顔がしだいに明るくなり、頬が紅潮してくる。


 千紗ちゃんの周りに、こんなことを言う人は他にいなかったのだろう。

 当たり前だ。だってどう考えても、あきらめるべき恋だった。結果なんて目に見えている。望みなんてみじんもない、ただ迷惑をかけるだけの恋だった。

 だからみんな、あきらめるよう厳しく諭したに違いない。千紗ちゃんのために。

 だけど僕は、輝いた目で僕を見つめる千紗ちゃんに、うん、と力強く頷いてやる。そうして、千紗ちゃんが欲しがっている、きっと誰もかけてはくれなかったであろう言葉を、あげた。

「好きなら、あきらめなくていいと思うよ」



 その日から、僕は千紗ちゃんの唯一になれた。

 千紗ちゃんの愚かな恋を応援してあげる、たったひとりの仲間に。

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