第26話
お店を出たあと、栗崎さんは「ちょっと話そう」と言って、駅とは反対方向に歩き出した。人通りの多い国道沿いから、外灯の少ない細い道に入る。
「――萩原くんから、聞いたんだ」
栗崎さんがそう口火を切ったのは、街から少し外れたところにある、小さな児童公園に着いたときだった。
「高校の頃あの子が、好きになった先生に、ずっと、ストーカーまがいのことしてたって」
公園内にひとけはなく、しんと静まりかえった中に、栗崎さんの低い声だけが響く。
「そのせいで先生、異動まですることになったんでしょう。それでそのあと、千紗ちゃん、クラスのみんなから総スカン食らっちゃったんだって。だけど宮田くんは」
そこで軽く言葉を切った栗崎さんは、僕のほうを振り返って
「宮田くんだけが、ずっと、千紗ちゃんのこと見捨てないで傍にいたんだって」
僕は黙って栗崎さんの言葉を聞いていた。
暗い公園には、子どもの忘れ物らしい小さなバケツがぽつんと転がっている。
「ねえ、なんで?」栗崎さんはもどかしげに言葉を継ぎながら、僕の前に立つと
「あの子、ほんとに犯罪すれすれのことやってたって聞いたよ。家まで押しかけたり、毎日毎日電話したり。ほっとくと、何しでかすかわかんないような子なんでしょう。そんな子のこと、なんで」
「好きだったから」
さえぎるように告げると、真正面から僕を見据える栗崎さんの顔が、ふっと強張った。
「だから、ほっとけなくて」
栗崎さんはくしゃりと顔を歪めて、視線を落とす。
苦しげな息を吐いてから、でも、と絞り出すような声をこぼす。
「あの子は、宮田くんのことなんて、全然大事にしてない」
「うん」
「宮田くんの気持ちに甘えて、都合良く扱ってるだけなんだよ。自分が困ったときだけ、遠慮なく宮田くんに頼って。あの子は宮田くんに、なにもしてあげようとしてない」
「それでいいんだよ」
静かに口を挟めば、栗崎さんは眉を寄せて僕を見た。
「千紗ちゃんから、してもらいたいことなんてなにもないから」
ただ、与えるだけ。それだけでよかった。そう、していたかった。
栗崎さんは僕の顔を見つめたまま、しばらく沈黙していた。
やがて、うつむいて軽く唇を噛むと
「……今回のことも、庇う気なの?」
「今回のこと?」
「あの子が、五十嵐くんを階段から突き落としたこと」
はっきりとした声で告げた栗崎さんに、僕は苦笑いしながら頭を掻くと
「べつに、千紗ちゃんが突き落としたかどうかなんてわかんないでしょ」
「え?」
「栗崎さんが見たのは、階段の上から千紗ちゃんが逃げるところでしょ。突き落とすところを見たわけじゃない」
言うと、栗崎さんはあっけにとられたようにまばたきをして
「なに言ってるの。充分だよ、それだけ見れば。だって五十嵐くんは」
「浮気してたから?」
かぶせるように尋ねれば、栗崎さんはちょっと驚いたように口をつぐんだ。
「むしろ千紗ちゃんのほうが浮気だったのかな。どっちでもいいけど。……栗崎さん、知ってたんだ?」
栗崎さんは足下に視線を落とすと、少しのあいだ迷うように黙ったあとで、曖昧に頷いた。
「……同じ大学の子と付き合ってるって話は、聞いたことあった」
「じゃあ、彼女はいないって言ってたの嘘だったんだ。五十嵐くんのことはよく知らないってのも、嘘なんだよね?」
栗崎さんは顔を上げると、ぎゅっと目を細めた。なにか警戒するような表情で、次の言葉を待つように僕を見る。
「栗崎さん、本当は五十嵐くんと仲良かったんでしょ。千紗ちゃんが見たって言ってた。栗崎さんと五十嵐くんが、仲良さそうに喋ってるところ」
「……そりゃ、同じバイト先だったから、喋ったりすることはあったよ」
「そういう、彼女の話とかも五十嵐くんから聞いたことあったんだよね。僕には、知ってたけど知らないって言ったんだ。あのとき」
栗崎さんの表情が一瞬強張る。
うつむいて黙り込んだ栗崎さんは、一度だけ唇を噛んだあとで
「……よけいな心配、させたくなくて」
「心配?」
「だって、あの子の彼氏がそういう人だって知ったら、宮田くん、またほっとけなくなるでしょ。それが嫌で」
「千紗ちゃんが傷つくのは、べつにいいと思ったんだ」
途方に暮れたような顔で大きく息を吐いた栗崎さんは、そうだよ、と投げやりな調子で頷いてみせ
「あの子だってべつに子どもじゃないんだから。自分で宮田くん捨ててそういう人を選んだんだもん。それで酷い目に遭おうがあの子の自業自得でしょ。私は宮田くんに、もうあの子のことでいろいろ悩まないでほしくて、これ以上振り回されないで早く吹っ切ってほしくて。私は」
そこでためらうように言葉を切った栗崎さんが、苦しげに息をつく。
一瞬だけ迷うような間があった。だけどなにかをあきらめるみたいに、私は、とさっきよりはっきりとした声で繰り返した栗崎さんは
「宮田くんのことが、好きだったから」
放り出すように、そう告げた。
言ったあとで、栗崎さんは自分の口にした言葉に傷つくみたいに、ぐしゃりと顔を歪める。
「ああもう」前髪を掻き上げ、急に地面にしゃがみ込んだ栗崎さんは
「こんなつもりじゃなかったんだけどなあ……」
自分の膝に額を押しつけるようにうつむいて、ぼそぼそと呟いた。見下ろすと、茶色い後れ毛の散らばった細い首が見えた。
「今日は、好きだってことだけ、言おうと思ってたのに」
泣きそうな声をこぼす栗崎さんと、僕もしゃがんで目線を合わせる。震える彼女の肩に手を伸ばしかけて、途中でやめた。中途半端に宙に浮かせた手を下ろし、「……ありがとう」と口を開く。
「でも、ごめん。僕は」
ゆっくりと顔を上げた栗崎さんの目を、まっすぐに見つめる。
せめて、その視線を逸らさないよう努めて、言葉を継いだ。
「千紗ちゃん以外、考えられない」
つかの間、栗崎さんは放心したように僕を見た。
短い沈黙のあと、ふたたび目を伏せ、わかった、と小さく呟く。
「急にごめんね」
栗崎さんはそれだけ言って立ち上がると、手の甲で一度目元を拭った。そうしておもむろに踵を返すと、僕に背を向けて歩き出す。そのまま一度も振り返ることなく、逃げるようにその背中が曲がり角の向こうに消えるのを、僕はただ、見ていた。
家に帰ると、「おかえりー!」と千紗ちゃんがうれしそうに玄関まで出迎えに来た。
着替えたのか、朝着ていたものと違う、白いTシャツを着ている。あれも僕の服だけれど。勝手にクローゼットから拝借したらしい。
「遅かったね。待ちくたびれちゃったよー」
言いながら僕の手元を見た千紗ちゃんは、あれ、とちょっと拍子抜けしたような声を漏らす。
「今日はおみやげないのかー」
期待していたらしく、残念そうに呟いて部屋に戻る千紗ちゃんに続いて、僕も部屋に入る。
「あ、そうだ」テーブルの前に座ろうとしたところで、千紗ちゃんは思い出したようにこちらを振り返ると
「ご飯ね、炊けたのは炊けたんだけど、なんかやわらかすぎたの。目盛りどおりに水入れたんだけど。なんか間違えたのかな。ねえこたちゃん、この炊飯器って」
「千紗ちゃん」
彼女の言葉をさえぎり、名前を呼ぶ。千紗ちゃんは、うん、と聞き返しながら僕を見た。
その表情には当然ながらなんの緊張感もなくて、僕は目を細める。次の瞬間の彼女の表情を見逃さないように。
僕はきっと、それを一生忘れない。
「いい加減さ、帰ってくれないかな」
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