第25話

 翌朝、僕は千紗ちゃんが起きる前から暗い台所に立って、肉じゃがを作った。

 八時過ぎ、そろそろ家を出ようかと準備をしていたところで、ようやく千紗ちゃんが起きてきた。おはよう、と眠たそうにあくびをこぼす。

 僕は鍋に肉じゃがを作っていることと、冷蔵庫にきゅうりとわかめの酢の物が入っていることを伝えてから

「ご飯は時間になったら自分で炊いてね。炊飯器の使い方、わかるよね?」

 ふと心配になって尋ねると

「わかるよー。こたちゃん、わたしのこと見くびりすぎー」

 口をとがらせた千紗ちゃんからは、そんな反論が返ってきた。

「じゃあ、いってきます」

「うん。……ね、こたちゃん」

 うん、と聞き返しながら振り返ると、玄関まで見送りに来た千紗ちゃんが

「早く帰ってきてね」

 子どもっぽい口調でそんなことを言ってから、いってらっしゃい、と手を振った。


 三限目の授業が終わったあとに待ち合わせ場所の図書館に行くと、今日も栗崎さんは先に待っていた。時間より五分は早めに行っているのに、いつも栗崎さんにはかなわない。

「学祭、楽しかったね」

 並んで歩き出したところで、栗崎さんが明るく言った。白い半袖シャツにデニムのタイトスカートを穿いた栗崎さんは、今日も眼鏡をかけていない。

「うん」

「やっぱり、実行委員すごく面白そうだったな。ますますやりたくなっちゃった」

 はつらつとした声でそんなことを言う栗崎さんに、また感心する。実行委員といえば、皆とにかく忙しそうに動き回っていて、僕には、大変そうだな、という感想しか残らなかった。

「ね、やっぱり宮田くんもいっしょにやりませんか?」

「やりません」

 きっぱりと返せば、栗崎さんは「えー」と不満げな声を上げながらも、楽しそうに笑った。


 平日の中途半端な時間だからか、映画館はガラガラだった。おかげで、僕たちはど真ん中の席に座ることができた。「こんなにいい席で観るのはじめて」と栗崎さんがうれしそうに言った。

 恋愛映画を真面目に観たのははじめてだったけれど、コメディタッチで案外楽しめた。あまり艶っぽいシーンもなかったし、結末もすっきりとしたハッピーエンドで、見終えたあとに気まずくなることもなかった。


「面白かったねー!」

 エンドロールが終わり館内が明るくなると、すぐに栗崎さんが笑顔でそう言ってくれて、僕は少しほっとする。たしか栗崎さんは二回目の鑑賞だったはずだけれど、楽しんではくれたらしい。映画館を出て、遅めの晩ご飯を食べるため近くの洋食屋に入ってからも、ずっと楽しそうに映画の感想を喋っていた。

「ラスト、よかったよねー。うるっときちゃったもん」

「うん。お母さんの台詞とか、よかったね」

「そう、そこ! 私もあのお母さんで泣きそうだったー」

 ハンバーグに載った半熟卵を崩しながら、栗崎さんは興奮気味に話し続ける。クーラーの効いた店内は肌寒くて、僕は冷製パスタなんて頼んだことをちょっと後悔していた。


 栗崎さんの背後にある大きな窓の外はすっかり真っ暗で、僕はちらと腕時計に目を落とした。七時四十分。千紗ちゃんはちゃんとご飯を炊けただろうか。

 そんなことをぼんやり考えたとき

「このあと、バイト?」

 ふと栗崎さんが訊いてきた。ううん、と僕は首を横に振ると

「今日はないよ」

「そっか。さっきから時間気にしてるみたいだから、なにかあるのかなと思って」

 僕はちょっと驚いて栗崎さんの顔を見た。自分では気づかれないように確認していたつもりだったけれど、しっかりばれていたらしい。失礼なことをしたと思って謝ると

「なにかあるの? このあと」

 栗崎さんはグラスに口をつけながら、軽く首を傾げた。

 僕は少しだけ迷ってから

「千紗ちゃんが、うちに来てるんだ」

 正直に答えると、栗崎さんはぎゅっと眉を寄せて僕を見た。

「……え、なんで?」なにを言われたのかよく理解できなかったみたいに、何度かまばたきをする。

「別れたカノジョが、なんで宮田くんの家にいるの?」

「家に一人でいたくないって言うから」

「だからって、自分が振った元カレの家なんてふつう来ないでしょ」

 言葉尻がふいに鋭くなって、僕は黙った。栗崎さんはグラスを置くと、指先についた水滴を不快そうに拭ってから

「もしかして、またご飯作ってあげたりもしてるの? 付き合ってた頃みたいに」

「うん。ほっとくと、たぶん千紗ちゃんなにも食べないだろうから」

「なにそれ、あり得ないよ。その子、宮田くんと付き合ってる間に新しい彼氏作って別れたんでしょ? そんなことしておいて、今度は五十嵐くんとあんなことになったからって、なんでまた宮田くんにすり寄れるの。宮田くん、もっと冷静になって考えてみたほうが」

 一息に捲し立てたあとで、栗崎さんははっと口をつぐんだ。急に周りに人がいることを思い出したのか、素早く視線を巡らせる。それからちょっと罰が悪そうにうつむいて、ごめん、と呟いた。


「……あんなことって」

「え」

「なに?」

 さっき栗崎さんが口にした一部分を拾って聞き返すと、栗崎さんは一瞬きょとんとした目で僕を見た。僕はその目をまっすぐに見つめ返しながら

「さっき栗崎さん、五十嵐くんとあんなことになったから、って言ったけど。あんなことって何のこと?」

 栗崎さんはしばらく黙っていた。

 やがて、ひとつ息を吐いた栗崎さんは、どこか挑むような目で僕を見て

「……私、見たよ」

「なにを?」


「あの日、あの子が、五十嵐くんが落ちた階段の上から逃げるところ」

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