第13話
足音が耳に届いたのか、千紗ちゃんが顔を上げる。拍子に、濡れた髪から雫が落ちた。
「……こたちゃん」
驚いたように僕を見た彼女の目に、一拍置いて、落胆の色がにじむ。
千紗ちゃんは、先日僕の部屋に来たときと同じ、白いワンピースを着ていた。皺ひとつなかったはずのそのワンピースは、今はすっかり雨に濡れ、白というより灰色に近くなっている。
「千紗ちゃん」
目の前まで歩いていって名前を呼ぶと、千紗ちゃんは僕の視線を避けるように、また顔を伏せた。
「なにしてるの」と僕はできるだけ優しく声を掛ける。
「こんなとこいたら、風邪ひくよ」
「五十嵐くん待ってる」
うつむいたまま、千紗ちゃんは素っ気なく返す。その手には、ピンク色のスマホが縋るように握りしめられていて
「……五十嵐くんから、連絡ないの?」
「連絡とれないんだ。電話もつながらなくて……なにかあったのかも」
抑揚のない声で言いながら、千紗ちゃんはスマホを操作し、五十嵐くんの連絡先を開いた。発信ボタンを押し、耳に当てることもなく画面を眺める。雨音に混じって、電話がつなげないことを告げる無機質な声がかすかに聞こえた。
いったい何回電話をかけたのだろう、なんて僕は頭の隅でぼんやり思う。
「……待ち合わせ、10時だって言ってたよね」
僕が栗崎さんとお店を出たのは、13時過ぎだった。雨はいつから降っていたのだろう。もとはきれいにカールがかかっていたはずの千紗ちゃんの髪は、ゆるく波打った状態でぺたりと下へ流れている。
しばらく不通のメッセージを聞いていた千紗ちゃんは、やがてあきらめたように通話を切った。
その指先がかすかに震えるのを見て
「ね、とりあえずどこか建物の中に行こう。ここじゃ寒いでしょ」
「いい」
短く返して、千紗ちゃんはぎゅっとスマホを握りしめる。小さな手はすっかり血の気が引いていて、青白い。
「待ち合わせ場所、ここだもん。ここで待たなきゃ」
「この場所が見えるところにいればいいよ。五十嵐くんが来たら行けばいいし」
「いいの。ここで待ちたいの」
「でも」
「いいから気にしないで、こたちゃんは行っていいよ」
「千紗ちゃん放っていけないよ。心配だし」
「なんで?」
そこでふいに顔を上げた千紗ちゃんは、ぎゅっと目を細めて僕を見た。色をなくした唇が震える。
「わたし、五十嵐くんと付き合ってるんだよ。彼氏とデートの待ち合わせしてるんだよ。それだけなんだから。こたちゃんが心配するようなことなんて何にもないよ。五十嵐くん、きっともうすぐ来るから」
一息に捲し立てた千紗ちゃんは、見限るように足下へ視線を落とした。
これ以上僕の言葉を聞く気はない、というような仕草に、僕がどうしたものかと考えあぐねていたら
「――あの」
ふいに後ろから声がした。
振り向くと、なぜか別れたはずの栗崎さんが立っていた。走ってきたのか、軽く息を弾ませている。
「じゃあ、よかったらこれ」
言いながら、栗崎さんは僕ではなく千紗ちゃんのほうへ歩み寄る。そうして、手に持っていたビニール傘を千紗ちゃんへ差し出した。別れ際まで栗崎さんは傘なんて持っていなかったから、今し方コンビニかどこかで買ってきたらしい。
「あげるから、使って。この傘」
千紗ちゃんはなにも言わず栗崎さんの顔を見つめたあとで、僕のほうを見た。
「……こたちゃん」戸惑ったように僕をじっと見つめた千紗ちゃんは
「もしかして、デートだったの?」
そう訊かれて、僕は少しだけ答えに迷った。
「……いっしょに、映画観に行こうとしてて」
「じゃあ行ってきなよ。だめだよ、デートの途中で他の女のところに来たら」
「でも千紗ちゃんは」
「わたし、行くね」
話を切り上げるようにきっぱりとした声で告げた千紗ちゃんに、僕が困惑して「どこに?」と尋ねれば
「五十嵐くんのところ。やっぱり迎えに行く」
「迎えって、でもどこにいるかわからないんじゃ」
「大丈夫、わかるよ。付き合ってるんだもん、わたしたち」
張りのある強い声ではっきりと告げて、千紗ちゃんはさっさと踵を返した。高いパンプスの踵を突き放すように鳴らしながら、早足に駅のほうへと歩き出す。
追いかけようとして、ふと隣の栗崎さんのほうを振り返った。栗崎さんも僕のほうを見ていて、目が合った。栗崎さんは困ったような顔で、千紗ちゃんが受け取らなかったビニール傘を手に立ちつくしていて
「ごめん、栗崎さん」
「いいよ。……追いかける?」
「うん、ごめん。心配だから」
栗崎さんは黙って首を振った。それから、「じゃあこれ」と持っていたビニール傘をこちらへ差し出しながら
「持って行っていいよ。千紗ちゃんにあげようと思って、さっき買ってきたやつだから」
そう言う栗崎さんの髪もすっかり濡れているのを見て、僕は首を横に振ると
「いいよ。栗崎さんが使って。ありがとう」
「でも」
「本当にごめんね。また明日、大学で」
早口にそれだけ告げて、千紗ちゃんを追うように踵を返す。そうして駅のほうへ駆け出そうとしたところで
「……重症だね」
ぼそりと呟く栗崎さんの声が、後ろで小さく聞こえた。
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