第23話

 歩きながら、千紗ちゃんの携帯に電話をかける。電源を切っているのか、つながらない。

 彼女のアパートに行ってインターホンを鳴らしたが、返事はなかった。

 そうなると、他にあてはない。千紗ちゃんの友達の連絡先なんてひとつも知らない。そもそも、大学にまともに通っていない千紗ちゃんに、僕以外の友達がいるのだろうか。高校時代の友人とは、もうとっくに縁が切れているはずだ。

 そこまで考えて、僕はあきらめて家に帰ることにした。あの日のようにあてもなく街を歩き回っても、どうせ見つからないことはわかっていた。


 ふと気になって、ネットで今日の学祭についての話題を検索してみる。怪我人が出たことについて書かれた投稿もいくつかあったけれど、とくに大きな騒ぎにはなっていない。単なる事故として、さらっと書かれているだけだった。あれからしばらく大学にいたけれど、救急車が来たりすることはなかったし、ひどい怪我ではなかったのだろう。


 アパートの階段を上がったところで、ふと、僕の部屋のドアの前に座り込む影が見えた。

 足音が耳に届いたのか、影がぱっと顔を上げる。そうして僕をじっと見つめたのは、探していた彼女だった。

「千紗ちゃん?」

 驚いて名前を呼ぶと、千紗ちゃんは泣きそうな顔で立ち上がった。

「こたちゃん」震える声で呟いて、早足にこちらへ歩いてくる。

「こたちゃん、どうしよう、わたし」

 縋るように僕の腕をつかんだ千紗ちゃんに、僕はとりあえず中に入るよう促した。チノパンの後ろポケットから玄関の鍵を取り出し、開ける。


 ドアを閉めるなり、千紗ちゃんは僕の胸にしがみつくように抱きついてきて

「……何があったの?」

 震える彼女の背中を撫でながら、尋ねる。千紗ちゃんは僕の胸に顔を押しつけたまま、ぶんぶんと首を横に振った。「わかん、ない」嗚咽のような声がこぼれる。

「わかんないの。わたし、頭の中ぐちゃぐちゃで」

「学祭に、行ったんだよね?」

「行った。それで、五十嵐くんがいて――」

 そこで言葉に詰まったように、千紗ちゃんが喉を引きつらせる。僕はもう一度彼女の背中を撫でてから、ひとまず部屋にあがるよう勧めた。


 部屋に入ると、千紗ちゃんはベッドではなくローテーブルの前に座り込んで

「……五十嵐くんに、会ったの。学祭に行ったら、あの大学で」

 か細い声を押し出すようにして、口を開いた。

 僕は彼女の隣に座りながら、うん、と相槌を打つ。

「五十嵐くん、お店でクレープ売ってて、実行委員のジャンパー着てて、わたし、わけわかんなくて。だって五十嵐くん、国立大の法学部に通ってるはずだし、今日も、試験が近いから、五十嵐くん、大学で勉強してるんだって、そう言ってたし」

 だから、と千紗ちゃんは両腕でぎゅっと自分の膝を抱きしめると

「話しかけたの。なんでいるの、って。そうしたら五十嵐くんが、あっちで話そうって、二階の、渡り廊下のところに行って、それで」

 千紗ちゃんは抱えた膝に顔を埋め、嗚咽のような声を漏らす。


 僕は手を伸ばし、千紗ちゃんの背中に触れた。そうして子どもをあやすように、何度か上下に撫でていたら

「……もう、終わりに、しようって」

 息苦しい喉から必死に声を押し出すように、千紗ちゃんは言った。

「もう、会う気はないって、言われて。わたし、わけわかんなくなって」

「うん」

「大学のこともぜんぶ、嘘つかれてたんだって思ったら、頭の中、ぐちゃぐちゃになっちゃって。どうしよう、こたちゃん、わたし」

 途方に暮れた声をこぼした千紗ちゃんが、ふいに顔を上げる。そうして、涙に濡れた目で僕を見た。なにかを探すみたいに、じっと僕の目を覗き込む。

「わたし、どうなるの? どうしたらいいの、こたちゃん」


「……大丈夫だよ」

 だから僕はいつもと同じように優しく笑って、口を開く。

 縋るように自分の腕を握りしめる千紗ちゃんの手に、そっと手を重ねる。

「さっきちょっと調べてみたんだけど、誰も、千紗ちゃんのことなんて話題にしてない」

「調べたって?」

「SNSとかで、今日の学祭についての投稿を見てみたんだ。だけどたいした騒ぎにはなってない。誰も、千紗ちゃんが突き落としたところなんて見てないんだよ」

 言うと、千紗ちゃんはそこではじめてその存在を思い出したのか

「SNSなんて、わたし、怖くて見れない」

「見なくていいよ。僕が確認するから。千紗ちゃんは見ないで、これからも」

 はっきりとした口調で言い添えると、千紗ちゃんは少しだけ落ち着きを取り戻したように、うん、と頷いてから

「……でも、五十嵐くんはわかってるんじゃ」

「わかってても言わないんじゃないかな、五十嵐くんは」

 騙して付き合っていた女に嘘がばれて階段から突き落とされた、なんて。五十嵐くんだってきっと、おおっぴらにはしたくないはずだ。すでに新しい彼女もいるのなら、尚更。

「そうかな」

「そうだよ。だから大丈夫」

 不安げに呟く千紗ちゃんの肩を、そう言って軽く叩く。なんの根拠もないそんな薄っぺらな言葉にも、千紗ちゃんは少し安心したように、表情をほぐしていた。



 今日はここに泊まらせて、と千紗ちゃんは言った。

「一人になりたくないの。一人でいたら、いろんなこと考えて、頭がおかしくなりそうで」

 いいよ、と優しく頷いて、僕は久しぶりに床に布団を敷く。千紗ちゃんにはいつものようにベッドを譲って、僕は布団に入る。

 おやすみ、とベッドに寝る千紗ちゃんに声を掛けたけれど、返事は返ってこなかった。代わりに、ごそごそとなにか動く音がして、ふいに僕の着ていた布団が捲られる。振り向くと、千紗ちゃんがベッドから降りて、僕の布団に潜り込んでくるところだった。

「千紗ちゃん?」

「おねがい」

 僕の背中に抱きつきながら、千紗ちゃんがいやに切実な声で呟く。

「今日だけ、いっしょに寝させて。おねがい、こたちゃん」

 縋るような声に、僕は黙って頷くと、前を向き直った。

 後ろから、彼女の細い腕が伸ばされる。そうして小さな子どもみたいに強く、僕の腕をつかんだ。

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