第16話

 その日の夕方、僕は千紗ちゃんの部屋を訪ねてみた。

 無視されるかとも思ったけれど、インターホンを押すと、少し間があってからドアは開いた。

「……こたちゃん」

 顔を見せた千紗ちゃんは、目の下に薄く隈を作っていた。泣いたのか、少しまぶたも腫れている。

 黒のスウェットにグレーのパーカを羽織った彼女は、髪に寝癖をつけたままだった。もちろん化粧もなにもしていなくて、飾り気のないその格好は普段の数倍幼く見えた。

 僕の顔を見ると、千紗ちゃんはちょっと気まずそうに視線を落としたので

「千紗ちゃん、晩ご飯食べた?」

 僕はできるだけ優しく尋ねてみる。「オムライス作ってきたんだけど」そう言ってタッパーの入った紙袋を掲げてみせれば、ようやく千紗ちゃんの表情が少しほぐれた。

「……食べてない」

「よかった。じゃあ温めるね」


 何度か訪れたことのある千紗ちゃんの部屋は、今日も散らかっていた。千紗ちゃんは整理整頓が下手だ。足の踏み場がないというほどではないけれど、床に雑誌が積み上げられていたり、化粧品がローテーブルの上に出しっぱなしになっていたりする。

 シンクには汚れたコップや皿がそのままになっていて、オムライスをレンジで温めているあいだに僕が洗った。途中のコンビニで買ってきたウーロン茶をコップに注いで、皿に盛りつけたオムライスといっしょにテーブルに置く。

「どうぞ、千紗ちゃん」

 呼ぶと、千紗ちゃんは座っていたベッドから降りてきて、テーブルの前に座った。

 ちょうどそのとき、絶妙なタイミングで千紗ちゃんのお腹が鳴った。二人のあいだで響いた間抜けな音に、僕が思わず噴き出してしまったら、千紗ちゃんもつられるように噴き出した。そうしてしばらく、二人で顔を見合わせて笑った。


「ごめんね」

 笑いが途切れたところで、少し穏やかさを取り戻したような千紗ちゃんが、ぽつんと呟いた。

 なにが、と聞き返せば

「わたし、昨日、こたちゃんにひどいこと言ったよね」

「そうだっけ。あんまり覚えてないけど」

 とぼけてそんな返答をすれば、千紗ちゃんはちょっとだけ笑って、それ以上はなにも言わなかった。いただきます、と言ってスプーンを手に取った。


「五十嵐くんとは会えた?」

 千紗ちゃんがオムライスを食べ終えるのを待ってから、僕はそっと尋ねてみる。千紗ちゃんはスプーンを置いて、ううん、と首をゆっくり横に振ると

「まだ会えてない。連絡もとれないの」

「家に行ってみたら?」

「家、知らないんだ」

 返ってきた答えに、え、と思わず困惑した声をこぼすと

「五十嵐くんの家に行ったことないの。会うときは、わたしの部屋ばっかりだったから」

 僕が黙っていると、千紗ちゃんは取り繕うように

「五十嵐くんの住んでるアパート、すごく狭くて古いところなんだって。お風呂もないみたいで、そんな家で会うの申し訳ないからって。それに、会うの夜ばっかりだったから。わたしが行きたいって言っても、夜道を歩かせるなんて危ないから、自分が行くって。五十嵐くん、いつもそう言ってくれて」

 優しいの、と独り言のような調子で千紗ちゃんは続ける。

「優しいんだよ、五十嵐くん」

 僕はなにも言わなかった。そっか、とだけ呟いて、空になった皿とコップを流しに運んだ。


 スポンジで洗剤を泡立てながら、僕は「千紗ちゃん」と後ろへ声を投げる。

「また明日、晩ご飯作ってくるよ」

 今の様子では、千紗ちゃんが僕の家までわざわざご飯を食べに来るとは思えなかった。だから「おいで」とは言わず、そう言った。

 うん、と後ろからは覇気のない小さな声が返ってくる。

「ありがとう、こたちゃん」

「なんか食べたいものある?」

「……なんでもいい」

 わかった、と返してスポンジを汚れた皿にすべらせる。

「ノートのコピーとってるから、気が向いたら大学にもおいでね」

 どうせ来ることはないだろうと思いつつも、いちおうそんな言葉もかけておく。案の定、返ってきたのは、うん、というみじんもその気のなさそうな生返事だけだった。

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