第30話
一瞬、千紗ちゃんはなにを言われたのかわからなかったみたいに僕を見た。
「……え」
無言で何度かまばたきをして、ようやく、そんな掠れた声をこぼす。
「なんで、そんなこと言うの、こたちゃん」
口元に引きつった笑みを戻して問いかける千紗ちゃんに、「なんでもなにも」と僕は苦笑しながら
「ここ僕の家だし。ずっといてもらうわけにはいかないでしょ。付き合ってるわけでもないのに」
「じゃあ、付き合おうよ」
間髪入れず返ってきた言葉は、びっくりするほど予想通りのものだった。
「ね、前みたいに」上擦った声で言いながら、ぎゅっと僕の腕をつかんだ千紗ちゃんは
「また付き合おう? 今度はちゃんと――」
「今更」
さえぎるように口を開くと、自分でもちょっと驚くほど冷たい声が出た。
「無理でしょ。あんな別れ方しといて」
僕の腕をつかむ千紗ちゃんの手の力が、ひるんだように一瞬ゆるむ。
僕は彼女の手を振りほどくと、肩に掛けていた鞄を置いた。そうして台所のほうへ向かおうとしたところで、「ごめん、なさい」と千紗ちゃんの震える声が追いかけてきた。
「もう、しないから。あんなこと、絶対しない。だから、おねがい」
振り向くと、千紗ちゃんが泣きそうな目で僕を見上げていた。
「わたし、こたちゃんが好き」途方に暮れたように、千紗ちゃんは言葉を継ぐ。
「いちばん好き」
伸ばされた手が、ふたたび僕の腕をつかんだ。
「こたちゃんがいいの。こたちゃんじゃないと駄目なの。だから、ね、おねが」
「さっきさ」
僕はその目を無表情に見下ろしながら、口を開く。
「栗崎さんに言われたんだ」
「え、なにを……」
「好きだって」
予想はしていたのか、千紗ちゃんは驚かなかった。ただ、僕がそれを千紗ちゃんに告げたことに、警戒するような表情で僕を見て
「……まさか、こたちゃん、あの子と付き合うの?」
「まだ答えてない。でも」
「え、やだ! やめてよ、こたちゃん」
僕の言葉をさえぎり、千紗ちゃんは引きつった声を上げた。駄々をこねる子どもみたいに、両手で強く僕の腕を握りしめる。
「ね、わたしもこたちゃんが好き。わたしのほうがずっと、こたちゃんのこと好きだよ。だからおねがい、わたしといっしょにいて。駄目なの、わたし、こたちゃんがいないと」
「でも栗崎さん、見てたらしいんだよ」
今度は僕がそう言って千紗ちゃんの言葉をさえぎれば、千紗ちゃんは一瞬だけ我に返ったように眉を寄せた。
「なにを?」
「学祭の日に、千紗ちゃんが五十嵐くんを突き落とすところ」
千紗ちゃんの顔がすっと青ざめた。見開かれた大きな目が、まばたきもせずに僕を見つめる。
「僕が栗崎さんを断ってまた千紗ちゃんのところに戻れば、栗崎さん、そのこと言うかもよ」
「……言うって」
「友達とか、もしかしたら警察とか? ああ、それより今ならSNSで拡散でもするのかな。そうなったら千紗ちゃん、困るでしょ」
つかの間、千紗ちゃんは言葉を失ったように押し黙った。
僕の腕をつかんでいた手から、すっと力が抜ける。薄く開いた唇が、なにか言いかけたように震えた。けれど言葉にならないみたいだった。
僕はそんな千紗ちゃんの顔を少しだけ眺めたあとで、ポケットからスマホを取り出す。充電が切れかかっていたので、ローテーブルの前へ歩いていき、膝をついた。そうしてテーブルの上の充電器にスマホをつないだとき
「……いい、よ」
ふいに後ろからそんな声がして、同時になにかが背中に覆いかぶさってきた。
首に彼女の細い腕が回される。
「なにか、言い触らされても、いい。いいから」
耳元で千紗ちゃんの必死な声がする。
「だから、こたちゃん、あの子とは付き合わないで」
首筋に、彼女の冷たい肌が触れた。
「……いや、よくないでしょ」前を向いたまま、僕は苦笑すると
「犯罪なんだよ。千紗ちゃん、捕まるかも」
「いいの。だって、だってそれより、こたちゃんがあの子と付き合うほうが嫌なの。ね、おねがい、こたちゃん。あの子と付き合わないで。……わたし以外の子となんて」
そこでふいに千紗ちゃんがこちらへ思いきり体重をかけてきて、一瞬バランスを崩した。床に手をつくより先に、彼女がぐっと僕の肩をつかむ。そのまま後ろへ押された身体は、あっけなく床に倒れ込んでいた。見上げると、目の前に千紗ちゃんの泣きそうな顔があった。
「付き合わないで。あの子のものになんて、ならないで。おねがい」
何度も同じ台詞を繰り返しながら、千紗ちゃんは僕の肩に額を押しつける。
「なんでも、するから。こたちゃんのしてほしいこと、わたし、ぜんぶしてあげる。ねえ、どうしたらいい? どうしたらこたちゃん、あの子と付き合うのやめてくれる? わたしといっしょにいてくれる?」
顔を上げた千紗ちゃんは、追い詰められた目で僕を見た。
僕が黙っていると、千紗ちゃんは手を伸ばして僕の頬に触れた。そうしてこちらに顔を寄せると、唇の端に短いキスをした。あの日と同じようなキスだった。五十嵐くんと付き合うことになったから、と千紗ちゃんが僕に別れを告げた日。あの日も千紗ちゃんは、取り繕うようにキスをした。これまで受け取ってきたものを、返すみたいに。
そんなもの、いらないのに。
そんなキスに、いったいどれだけの価値があると思っているのだろう。
「……じゃあ、信用させて」
「信用?」
顔を離した千紗ちゃんが、不安げに僕の目をのぞき込む。
僕はその目を静かに見つめ返すと
「今のままじゃ、千紗ちゃんのこと信じられないから」
千紗ちゃんは僕の顔を見つめたまま、何度かまばたきをした。
やがて彼女は身体を起こすと、僕の上からどいて、テーブルのほうへ歩いていく。そうしてそこに無造作に置かれていたスマホを手に取った。少し操作したあとで、千紗ちゃんはふたたび僕の前に座り込む。
「これ、消すね」
こちらに向けられた画面にあったのは、五十嵐くんの連絡先だった。
僕が見ている前で千紗ちゃんの指先が画面をスクロールし、いちばん下方にある削除の赤い文字に触れる。表示された確認のメッセージに、ためらいなくタップする。
「こたちゃん、これでわたし」
「消すなら」
「え」
「ぜんぶ消してよ」
千紗ちゃんはただ、僕の言葉を待つように僕を見ていた。
僕は目を細めて、その目を見つめ返す。
「僕以外、ぜんぶ、消して」
みじんも、彼女がためらうことはなかった。
僕の言葉に、なんの迷いもない速さで、彼女の指先が画面の上をすべる。
そのまま黙々とスマホを操作していた千紗ちゃんは、しばらくしてから顔を上げた。手にしていたスマホを、当たり前のように僕のほうへ差し出す。そのすっかり殺風景になった連絡先のページを、僕は眺めた。
顔を上げると、千紗ちゃんがじっとうかがうようにこちらを見ていた。
僕は少し考えてから、彼女に笑みを向けてみる。いつものように、優しく。
途端、千紗ちゃんは心底ほっとしたように表情を崩す。彼女のスマホを返そうと差し出したら、千紗ちゃんの手はスマホを通り過ぎて僕の背中に回った。
うれしそうに抱きついてきた彼女が、僕の耳元で、好きだとささやく。少しの思慕も憧憬も混じらない、ただ追い詰められたようなその声に、僕も笑って、同じ言葉を返した。
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