最終話

 それからも千紗ちゃんは、僕の部屋で暮らし続けた。


「おかえり、こたちゃん!」

 大学から帰ると、いつものように千紗ちゃんが玄関まで出迎えに来る。ほっとしたような笑顔で。

「今日はね、わたしがご飯作ったよ」

 誇らしげに告げる千紗ちゃんは、黒いTシャツにグレーのジャージを着ている。

 僕の服ではない。千紗ちゃんの私服。

 先日、千紗ちゃんの荷物をこの部屋に運び込んだ。量が多かったのでぜんぶは収納しきれず、いくつかはまだ段ボールに詰め込まれたまま、部屋の隅に置かれている。

「千紗ちゃんが作ったの?」

 台所の鍋をのぞいてみると、大きめの野菜がごろごろしたカレーが入っていて

「いいのに、そんなことしなくて」

 思わず呟いたら、叩かれたように千紗ちゃんが顔を強張らせた。

「え、あ……迷惑だった?」

 不安げに僕の顔をのぞき込む彼女に、まさか、と僕は笑って首を振ると

「大変だっただろうと思って。……買い物行ったの?」

「ううん、あるもので作れたよ。冷凍庫にお肉もあったし」

 そういえば前に特売だった牛肉を冷凍していたのを思い出して、納得する。千紗ちゃんが、スーパーに買い物なんて行けるはずがないから。

「おいしそうだね。ありがとう、千紗ちゃん」

 笑顔で言うと、千紗ちゃんはようやく表情をゆるめた。間違えなかったことにほっとしたように。

 それから、「じゃあ食べよう!」と明るく笑って、戸棚から皿を二枚取り出した。


「おいしい?」

 テーブルを挟んで向かい合う千紗ちゃんが、心配そうに訊いてくる。

 僕は口に入っていたカレーを飲み込んでから、うん、と頷くと

「おいしいよ」

「よかったー」

 千紗ちゃんは安心したように大きく息を吐いたあとで、ようやく自分もカレーを食べはじめる。

「でもやっぱり、こたちゃんのカレーのほうがおいしいね」

「そう? これもおいしいけど」

「ううん、こたちゃんのカレーのほうがおいしい」

 妙にはっきりとした口調で言い切ってから、千紗ちゃんはふと顔を上げた。

「……あの、こたちゃん」

「うん?」

「これからは、わたしが、ご飯作ろっか?」

 前にも一度、向けられた気のする提案。

 顔を上げると、千紗ちゃんはどこか強張った笑顔で、うかがうようにこちらを見ていた。

「こたちゃん、大学もバイトもあるし、大変でしょ。でもわたしは」

 次の言葉を口にするのをためらうように、彼女はそこで少し間を置いてから

「わたしには、なにも、ないから」


 千紗ちゃんには、なにもない。

 千紗ちゃんは、大学をやめた。

 五十嵐くんの件が校内に知れ渡っていると思ったら、怖くて通えなくなったから。

 僕がSNSで拡散なんてことを言ったからか、外を出歩くことすら怯えるようになって、バイトもやめた。

 実際、栗崎さんは大学の友達にも誰にも、千紗ちゃんのことを吹聴なんてしなかった。もちろんSNSでも。だから五十嵐くんと千紗ちゃんのことは、けっきょく僕ら以外誰も知りはしないのだけれど、そんなこと、千紗ちゃんには教えてあげない。


「いいよ」

 僕は彼女の目をまっすぐに見つめ返しながら、前と同じ答えを返すと

「僕が作るから」

「わたしの料理、おいしくないかな?」

「そんなことないけど」

「じゃあ、わたしに作らせて? それぐらいしないと、わたし、なにもこたちゃんの役に」

「いいってば」

 言い募る千紗ちゃんの言葉を強めにさえぎれば、千紗ちゃんはびくりとして口をつぐんだ。

「千紗ちゃんは、なにもしなくていいよ」

 だから僕はいつものように、彼女に笑顔を向けて、告げる。

「ただ、ここにいてくれれば」

 千紗ちゃんは途方に暮れたように、そんな僕の顔を見つめた。

 なにか言いたげに唇が震えて、だけどけっきょく思い直したように呑み込む。そうしてただ、うん、とだけ頷いた。



 シャワーを浴びてから部屋に戻ると、千紗ちゃんはベッドに座ってぼうっとテレビを眺めていた。

 スマホは持っていない。先日、解約した。バイトもやめた千紗ちゃんには、スマホの利用料金が払えないから。

 大学をやめたことで、千紗ちゃんには親からの仕送りもなくなった。佐久間先生の件やら、以前からたびたび問題を起こしていた千紗ちゃんは、もともと家族との折り合いが悪かった。ついに今回の大学中退が決定打になって、今はほとんど勘当状態らしい。

 当然アパートの家賃も払えないので、大学をやめると同時に引き払った。行くところのない千紗ちゃんは、僕の部屋に転がり込んできた。

 千紗ちゃんには、もう、僕しかいない。


「こたちゃん」

 僕に気づくと、千紗ちゃんはぱっと笑顔になってこちらを見た。僕が戻ってきたことに、ほっとするような笑顔。ここ最近、千紗ちゃんは僕を見るたびそんな顔をする。

「ね、こっち来て、いっしょにテレビ観よ?」

 彼女はそう言って無邪気に手招きする。頷いて隣に座ると、すぐに千紗ちゃんはうれしそうに肩を寄せてきた。

 手が触れると、彼女はほとんど無意識みたいに、ぎゅっと僕の手を握りしめる。握っておかないと、どこかへ行ってしまうとでも思っているみたいに。


 テレビでは、とあるカップルの花火大会でのサプライズプロポーズの様子が流れている。仕掛け花火に突然自分の名前とメッセージが現れて、浴衣を着た彼女が目を丸くしている。

 千紗ちゃんのほうを見ると、そんな様子を真剣に眺める横顔があった。うっすらと唇を開いて、なにか眩しいものでも見つめるみたいに、じっと目を細めている。

「……千紗ちゃん」

「うん?」

 だけど僕が呼べば、千紗ちゃんはすぐにテレビから視線を外して、僕のほうを見る。身体ごとこちらを向き直り、僕の言葉を待つ。

 今の彼女は決して、片手間に僕の話を聴いたりしない。どこか不安そうに、だけどどこか期待するように、まっすぐに僕の目を見つめる。その視線はひどく頼りなくて、僕はまた、満たされた気分になる。

 手を伸ばし、指先で彼女の頬に触れる。顔を寄せると、すぐに千紗ちゃんはうれしそうに微笑んで、目を閉じた。


「こたちゃん、好き」

「僕も」

 千紗ちゃんはうつむいて、僕の額に自分の額を押しつけた。彼女の前髪が、まぶたにかかる。

「……ね、こたちゃん」

「うん」

「こたちゃんが、大学、卒業したらね」

「結婚しよっか」

 彼女が口にするより先に告げれば、千紗ちゃんはぱっと弾かれたように視線を上げた。

 大きな丸い目に、僕が映る。

「……ほんとに?」

「うん」

 ゆっくりと彼女の頬や目元が赤く染まっていくのを、触れそうなほど間近で眺めた。

 そこにあるのは、歓喜ではない。ただ、息が止まりそうなほどの安堵。それ以外はなにもない。だけど彼女は頷くだろう。彼女には、それしか選択肢がないから。

 まるで命でも救われたみたいに、千紗ちゃんは目を潤ませて僕を見つめる。

 こんな表情は、きっと佐久間先生も五十嵐くんも、これまでの千紗ちゃんの彼氏の誰も、向けられたことはない。だけどきっと、これまで佐久間先生や五十嵐くんに向けられてきた表情を、僕が見ることもできないのだろう。これからもずっと。

 だって、彼女は。


「好き、こたちゃん」

「うん」

「こたちゃんが、いちばん好き」

 僕の彼女は、僕のことが好きじゃない。

「これからも、ずっと、いっしょにいてね。おねがいだから」

 だけど彼女は、僕がいないと生きていけない。

「……わたしを、見捨てないで」


 だから明日も、彼女は時間が止まったようなこの部屋で、ただ僕の帰りを待つのだろう。






end.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る