第12話

 日曜日の朝は、あいにく、お出かけ日和とは言い難い空模様だった。

 薄暗い空には重い雲が垂れ込めていて、傘を持っていこうかギリギリまで迷った。けれど、どうせほとんど外を歩くことはないだろうし、映画館で傘は邪魔になりそうで、けっきょく最低限の荷物を詰めた鞄だけ持って向かった待ち合わせ場所。いちおう時間には余裕をもってやって来たのだけれど、そこにはすでに待ち人の姿があった。

「あっ、宮田くん!」

 人混みを避けるように壁の側に立っていた栗崎さんは、近づいてくる僕に気づくと、ぱっと笑顔になって片手を挙げた。曇り空なんて吹き飛ばしそうな勢いの、心底明るい笑顔だった。

 僕が目の前に立つと、「おはよう」と栗崎さんはさらに弾けるような笑みを見せ

「天気はちょっと残念だったけど、でもよかったよね、雨は降ってなくて!」

 栗崎さんらしい前向きな言葉に僕も笑って、そうだね、と頷く。

 今日の栗崎さんは、めずらしく膝丈のフレアスカートを穿いていた。いつもはひとつにまとめられている茶色い髪も、今日はゆるくウェーブがかかった状態で肩に載っている。普段の栗崎さんはどちらかというとボーイッシュな格好が多いから、印象がまったく違って見えた。

 最初に見たときから感じていた違和感はそのせいかと思ったけれど、近くで栗崎さんの顔を見た僕は、あれ、と少し首を傾げると

「栗崎さん、今日は眼鏡してないんだ」

「あ、うん。今日はコンタクトなの」

 栗崎さんははにかむように笑うと、落ち着きのない仕草で自分の前髪をいじりながら

「おかしくない?」

「全然。そっちのほうがいい」

「え、ほんとに?」

「うん。なんか栗崎さんじゃないみたいで、ちょっと緊張するけど」

 言うと、栗崎さんはおかしそうに、「早く慣れてね」と笑った。

 会話が途切れたところで、栗崎さんは気を取り直したように僕の顔を見る。そうしてどこか緊張したような、少しぎこちない笑みを浮かべ

「じゃあ、えっと、行こっか!」

 と駅のほうを指さし、明るく促した。


 前日に決めた予定では、まず駅ビルで昼ご飯を食べて、それから映画館に向かうことになっている。短い話し合いのあとで、僕たちは栗崎さんのお気に入りだという地下にあるパスタ屋さんに入った。

「映画、楽しみだな」

 席に座り注文を済ませたところで、栗崎さんが楽しそうな声で呟いた。

 うん、と僕も笑顔で相槌を打って

「今日はありがとう、いっしょに来てくれて」

「え、そんな、こちらこそ」

 栗崎さんは照れたように笑って、また自分の前髪に手をやる。そうして忙しなくそこを撫でつけながら

「宮田くんて、パスタとかも作るの?」

「うん、たまに」

「えー、すごいなあ。食べてみたいな」

「食べてくれるなら、今度作ってくるよ」

「え、ほんと?」

 ぱっと目を輝かせる栗崎さんに、僕は笑顔で頷く。ありがとう、と栗崎さんはうれしそうに笑っていたけれど、ふとその笑いは途切れて、真面目な顔になった。テーブルの上に視線を落とす。


「……あの」しばし迷うような間を置いたあとで、おずおずと口を開いた栗崎さんは

「もう大丈夫?」

 唐突な質問の意味は、よくわからなかった。きょとんとして、「なにが?」と聞き返せば

「萩原くんに、宮田くんが最近カノジョと別れたって聞いて」

「ああ、うん」

「その、もう大丈夫なのかなって」

 遠慮がちに向けられた質問に、僕は笑って、うん、とできるだけ軽い調子で頷いておく。

「大丈夫。こうなるのはわかってたから」

「わかってた?」

「うん。最近は千紗ちゃん、五十嵐くんって人に夢中みたいだったし、そのうち振られるだろうなって」

 栗崎さんはぎゅっと眉を寄せて、僕の顔を見た。なにか言いかけたようだったけれど、ちょうどそのとき注文した料理が運ばれてきて、話は途切れた。

 湯気の立つカルボナーラがテーブルに置かれると、栗崎さんは途端にそちらへ意識をとられたようだった。おいしそう、と顔をほころばせてフォークを手に取る。

「宮田くん、カルボナーラも作れる?」

「作ったことはあるよ。こんなお店のやつみたいにはいかなかったけど」

「すごいねえ、本当に料理好きなんだ。始めたのは大学生になってから?」

「いや、高校生の頃からちょくちょくしてた。お弁当作ったり」

 本格的に始めたのは、千紗ちゃんと出会ってからだ。千紗ちゃんにおいしい料理を食べさせたくて、けっこう真面目に勉強もした。練習がてら、毎日自分のお弁当は自分で作るようにしていたし、我ながら、それなりの腕前になったとは思う。


 僕の答えに、はー、と栗崎さんは心底感心したような声を漏らして

「すごいなあ。私なんて面倒くさがりで、料理なんてなかなかする気が起きなくて。大学生なんだし、頑張りたいとは思ってるんだけど」

 真面目に落ち込んだトーンで言うので、僕は笑った。

「料理なんて、やろうと思えば誰でもできるよ。そんな気負わなくても」

「そうかなあ。じゃあ宮田くん、今度私に料理教えてよー」

「いいよ。僕でよければ」

 軽く頷いたのだけれど、栗崎さんはそこでふいに手を止めて僕を見た。

「え、ほんとに?」軽く口元を紙ナプキンで拭ってから、びっくりしたように聞き返してくる。

「ほんとに教えてくれるの?」

「うん。まあそんな、たいしたことは教えられないと思うけど」

 そう言って笑うと、ううん、と栗崎さんは妙に真剣な顔で首を振って

「私、宮田くんに教わりたい」

 はっきりとした声でそんなことを言うので、ちょっと照れてしまった。


 ビルを出て地下街を歩いていたら、階段からやけにたくさんの人たちが流れ込んできた。少し嫌な予感を覚えながら地上に戻ると、いつの間にか外は土砂降りの雨になっていた。

「あーあ、降ってきちゃったね」などと栗崎さんと他愛のない会話を交わしながら、人混みを抜けて駅の改札へ向かっていたとき

「――あれ?」

 ふいに、栗崎さんがなにかを発見したように足を止めた。「ねえ、あれ」困惑気味に声をこぼしながら、駅の外を指さす。その先を辿ってみれば、すぐに見つけた。

 なんで、なんて考える間もなかった。気づけば、僕は改札へ向かっていた足を外の広場のほうへ向けながら

「ごめん、栗崎さん」

「え」

「映画はまた今度にしよう」

 ほんとごめん、と謝る言葉が終わらないうちに、僕は駆けだしていた。

 10時に駅前で待ち合わせ。うれしそうに告げた千紗ちゃんの言葉を思い出しながら、駅から広場につながる道路を渡る。

 そこでひとり途方に暮れたように立ちつくしているその姿だけは、遠目にも見間違えることはなかった。

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