第7話

 別れてほしい、と千紗ちゃんが僕に言ったのはそれから二日後。

 理由はもちろん、五十嵐くんと付き合うことになったから。


「ごめんね、こたちゃん」

 夜、バイト終わりらしい時間に僕のアパートへやって来た千紗ちゃんは、いつものように、なにか食べさせて、とは言わなかった。ただ、話があるのだと真面目な声で告げた。

 ローテーブルを挟んで僕と向かい合って座る千紗ちゃんは、さすがに神妙な顔をして項垂れていて

「謝ることないよ」

 僕は笑って首を振ると

「おめでと、千紗ちゃん。よかったね」

「え」

「僕もうれしい。千紗ちゃんの恋が実って」

 できるだけ明るい声で告げると、千紗ちゃんは戸惑ったように顔を上げた。

「うれしい?」眉を寄せ、僕の顔を見つめる。

「なんで? 怒らないの?」

「怒らないよ。千紗ちゃんはなんにも悪くないし」

「悲しくないの?」

「そりゃちょっとは残念だけど。でも、これで千紗ちゃんと会えなくなるわけじゃないし。これからも友達には変わりないでしょ」

 友達、と千紗ちゃんはちょっと驚いたように僕の言葉を繰り返すと

「こたちゃん、これからもわたしと友達でいてくれるの?」

「もちろん。千紗ちゃんさえよければ」

「わ……あ、ありがとう」

 そこでようやく、千紗ちゃんの表情が少しほぐれた。指先で軽く頬を掻く。爪先は今日も隙がなく、くすんだピンク色のマニキュアが塗られている。


「あの、あのね、こたちゃん」

 短い沈黙のあと、千紗ちゃんはおもむろにその場で居住まいを正した。僕の顔をまっすぐに見つめ、真剣な顔で口を開く。

「ご飯、ありがとう。こたちゃんが作ってくれたご飯、いつも、全部おいしかったよ」

「そっか。よかった」

「あのご飯が食べられなくなるのは、すごく、すごく残念だけど……」

 そう呟く彼女の声には本当に切実な色がにじんでいて、僕は笑うと

「じゃあ、これからも食べにおいでよ」

「え?」

「一人分作るのってなんか面倒くさいし。どうせ作るなら食べてくれる人がいたほうがいいから」

「……ほんとに?」

「うん。それに、一人で食べるより千紗ちゃんといっしょに食べるほうが楽しいし」

 そう言って笑いかければ、千紗ちゃんは僕の顔を見つめたまま何度かまばたきをした。

 やがて、うれしそうに表情をほころばせる。

「ありがとう」と弾んだ声で言ってから、「じゃ、じゃあ」とおずおずと続ける。

「もしかしたら、これからもときどき、来ちゃうかも」

「いいよ。待ってる」

 笑顔で返すと、千紗ちゃんはほっとしたように息を吐いて、視線を落とした。

 正座していた足をようやく崩す。それから壁にかけられた時計をちらっと見上げた。僕も目をやってみると、そろそろ10時を回ろうとしていたので

「そろそろ帰る?」

「……うん。そうしよっかな」

「ご飯は食べて行かなくていい? 食べるなら、今からなんか作るけど」

「ううん、大丈夫。今日はさすがに遠慮しとく」

 そう言ってちょっと罰が悪そうに笑うと、千紗ちゃんは立ち上がった。


 床に置いていた白い革のバッグを肩に掛け、玄関のほうへ歩いていく。けれどその途中で、ふとなにか思い出したように足を止めた。僕のほうを振り向く。

「……あの」

「ん?」

 僕と目が合うと、千紗ちゃんは迷うように目を伏せた。以前より格段に丁寧に巻かれるようになった、髪の毛先に触れる。そうしてそれを意味もなく指に巻きつけながら、「えっと」としばし言いづらそうに口ごもったあとで

「やっぱり、今日、ここに泊まろっかなあ」

「え?」

「それで今日は、こたちゃんといっしょにベッドで寝たいな」

 僕は黙って千紗ちゃんの顔を見た。千紗ちゃんはじっと覗き込むようにこちらを見上げて、照れたように笑っている。

「だめ?」

 間近に見る黒目の大きさにちょっとたじろぎながらも、僕は苦笑いして頭を掻くと

「なに、お礼ってこと?」

 千紗ちゃんは一瞬口ごもったけれど、けっきょく、うん、と素直に頷いて

「だってわたし、こたちゃんにいろいろしてもらってばっかりだから。付き合ってた間だけじゃなくて、高校の頃からずっと。なのに、わたしはこたちゃんに何もしてあげられてないし」

「そんなことないよ」

 僕がはっきりとした口調で返すと、千紗ちゃんは少し眉を寄せた。だって、と僕は笑って続ける。

「千紗ちゃんといっしょにいられるだけで楽しかったし、うれしかったし。それで充分」

「でも」

「だから、そういうことなら気にしないで、今日は帰りなよ。もしかしたら五十嵐くんから電話かかってくるかもしれないし。急なデートの誘いとかあるかもしれないし」

 千紗ちゃんは小さく頷いてうつむくと、口の中でなにかもごもごと呟いた。

 聞き返そうとしたとき、ぱっと顔を上げた千紗ちゃんが僕のほうへ手を伸ばした。そのまま首の後ろへ回ったその手に、ぐいと引き寄せられる。同時に、千紗ちゃんがこちらへ顔を寄せた。甘ったるい砂糖菓子の匂いが鼻を掠める。

 右頬に、彼女の唇が軽く触れた。


「今までありがとう、こたちゃん」

 僕が驚いている間に、まだ鼻先が触れそうな距離にいる千紗ちゃんは、そう言ってやわらかく笑った。

 千紗ちゃんが身体を離し、踵を返す。そうして靴を履くと、最後にもう一度こちらを振り向いて手を振ってから、玄関を出て行った。

 ドアが閉まり、千紗ちゃんの姿が見えなくなる。

 それを見送ってから、僕はさっき千紗ちゃんが触れた右頬に触れてみる。そうしてそこを、手の甲で強く拭った。

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