後日談

なくした四季

「宮田くんって、カノジョといっしょに住んでるってほんとー?」

 隣に座っている女の子が話しかけてきて、僕はそちらを向いた。

 明るい茶髪をハーフアップにした彼女は、この飲み会に参加しているということは同じ学科なのだろうけれど、さっぱり記憶にない。名前も思い出せないその子の顔を眺めながら、僕が、うん、と頷けば

「すごいねえ。いつから?」

「二ヶ月ぐらい前」

 少し離れた場所では、学科内でもとくに騒がしい集団が盛り上がっている。そのせいで声が聞き取りにくくて、僕が少し彼女のほうに近づくと、彼女もこちらに近寄ってきた。

 香水の匂いが鼻をつく。ずっと包まれていると酔いそうな、甘い匂い。千紗ちゃんがいつもつけていた、あの砂糖菓子みたいな匂いは平気だったのに。

 最近、千紗ちゃんから砂糖菓子の匂いはしなくなった。僕と同じ、シャンプーの匂いしか。

「なんでいっしょに住むことになったのー?」

「その子が、住むところがなくなっちゃったから」

「えっ、なんで?」

「ちょっと、いろいろあって」

 言葉を濁せば、彼女はそれ以上追及はしなかった。たいして興味もないのだろう。グラスに口をつけながら、「そっかあ」とだけ相槌を打つ。


 タバコの煙が漂う狭い店内にいる客は、僕ら以外も全員大学生みたいだった。学科の懇親会という名の今日の飲み会に、栗崎さんは来ていない。以前なら、こういう行事には欠かさず参加していたはずなのに。

「カノジョさんも大学生?」

「いや、大学やめちゃって」

「そうなの? じゃあ今はなにしてるの?」

「……なにも」

「え」

「なにもしてない」

 彼女は僕の顔を見つめたまま軽くまばたきをして

「え、じゃあ、ニートってこと?」

「まあ、そんな感じ」

 へえー、と彼女はちょっと戸惑ったように呟いてから、グラスの中の透明なカクテルをひとくち飲んだ。


 何気なく視線を飛ばした先、斜め向かいの席に座る萩原と目が合った。僕らの会話が耳に入ったのか、ちょっと眉を寄せてこちらを見ている。だけど会話に混ざってくることはなく、すぐにまた目を逸らして隣の女の子のほうを向き直った。

「いいなあ。同棲、楽しい?」

「うん、まあ」

「ずっといっしょにいたら飽きたりしない?」

「ぜんぜん」

 遠くで盛り上がっていたグループがますます声量を上げて、彼女がさらにこちらへ身を寄せてきた。膝が当たる。だけど彼女になにも気にした様子がなかったので、僕もそのままにしておいた。バラみたいな、フローラル系の匂いがさらに濃く辺りに散らばる。

 この匂いが、僕の服にもつけばいいと思った。

 千紗ちゃんは気づくだろうか。気づいたら、どんな顔をするのだろう。


「あたしもね、彼氏と同棲したいんだー」

 内緒話をするようにちょっと声を落として、彼女が言う。

「でも彼氏は、あんまり乗り気じゃないみたいでね。いっしょに住んだほうが家賃とかまとめられるし経済的じゃん、て言ってるんだけど」

「へえ」

「彼、年上で社会人なんだ。だからなんか、変なところで律儀っていうか、卒業するまではそういうの駄目だって言うの」

 どうやら彼女は、本当はこの話がしたかったらしい。彼氏の愚痴なのか、のろけなのか。堰を切ったように喋り出した彼女に適当に相槌を打ちつつ、僕は壁にかけられた時計に目をやる。11時を少し過ぎたところだった。今頃、千紗ちゃんはなにをしているのだろう。

 少し、不安を覚え始めた頃だろうか。



 二次会ではカラオケに移動した。さっきの居酒屋より狭い部屋の中、歌声と笑い声と喋り声が混ざり合って響いている。お酒も回ったみんなはもうだいぶわけがわからなくなっていて、マイクはずっと同じ人たちのあいだを行ったり来たりしている。

 この調子だと朝までいきそうで、僕は1時を回った頃に席を立った。

 廊下に出ると、萩原が壁にもたれかかるように立っていて

「帰んの?」

「うん」

「じゃあ、俺も帰ろっと」

 どうやら僕が出てくるのを待っていたらしい彼と、受付で自分たちの分のお金だけ払って外に出た。

 夜風が涼しくて、火照った身体に心地良かった。


「めずらしいよな。こたろーが二次会までいるの」

 駅まで続くアーケードの下を歩きながら、萩原がぼそっと言った。

 そうだっけ、と僕が気のない相槌を打てば

「お前、基本一次会で帰る人じゃん。そもそも、一次会もあんま来ない人じゃん」

「そうだっけ」

「そうだよ。どういう心境の変化ですか」

 たしかに、以前の僕なら今日みたいな飲み会はまず参加しなかった。まして二次会まで行くなんてあり得なかった。今までは。

「べつに、ただ学科のみんなと親睦を深めようかと」

「嘘つけ」

 妙にきっぱりとした声で切り捨てられ、僕は萩原のほうを見た。散々飲んでいたはずなのに、まったく酔った気配のない無表情でこちらを見た彼は

「家に帰りたくないの?」

「……まさか」

「なに、千紗がいるから?」

 僕の返答は無視して、萩原はさらにそんな質問を重ねる。

 僕は黙って腕時計に目を落とした。1時20分。

 出かける前、千紗ちゃんには日付が変わる前には帰るとだけ伝えてきた。携帯を持たない彼女には、遅れるという連絡のしようもない。だから彼女は今も、あの部屋で一人、ただ僕を待っているのだろう。12時までには帰ってくるはずだった僕を。

 どんな顔を、しているのだろう。想像したら、身体の奥から震えるような愉悦が湧いた。


「お前、あきらかに帰る時間遅らせてんじゃん。最近」

「そんなことないけど」

「いや、そうだって。先週ももっちーたちと遅くまで遊んでたんだろ」

 僕が曖昧な相槌を打てば、萩原は真面目な顔でこちらを向いて

「……なあ、やっぱあいつ、家に帰せば?」

「家って?」

「千紗の、実家」

 僕は黙って前を向いた。頬を撫でる風がいつの間にかずいぶん冷たくなっていることに、今更気づいた。あの部屋にいると、季節が進んでいることすら忘れそうになる。

「でも千紗ちゃん、帰りたくないって言うから。親と仲悪いらしいし」

「だからって、お前がずっと面倒見るわけにはいかないじゃん」

「僕はべつにいいよ。今のままで」

「でも、こたろーさ」

 そこでふと目を細めて僕を見た萩原の表情に、奇妙な既視感が湧く。

「なんか、しんどそうだよ。最近」


 そうして思い出す。

 なにか弱った動物でも眺めるようなその目は、高校時代、佐久間先生を追いかける千紗ちゃんを止めようとしていたときの彼と、同じ目だった。



 駅で萩原と別れて、一人、アパートへ続く道を歩き出す。千紗ちゃんの待つ、アパート。

 帰りたくないわけがない。

 約束の時間になっても帰らない僕を、待ちわびる彼女を想像する。

 スマホを持たない、本も読まない彼女には、テレビを観るぐらいしか時間をつぶす方法がなくて、だけどもう何時間も観ているうちに飽きてしまって、ただいつものように、なにを観るでもなくぼうっと画面を眺めているのだろう、彼女。

 もしかして、もう僕は帰ってこないのではないか。ふいにそんな不安に駆られるときの彼女の頭は、きっと僕でいっぱいになる。いっしょにいて、目を合わせて、触れ合っているときなんかより、ずっと。

 だから、いっそ。

 帰らなければ。

 このまま彼女の前から消えてしまえば。

 永遠に、彼女の頭の中を僕で埋めてしまうことができるのではないか、なんて。


 そんなバカげた考えが、一瞬だけよぎった。

 振り払うように、服の袖口を鼻に近づける。あの子のつけていた香水の匂いが、しっかり染みついている。これに気づいたときの、千紗ちゃんの表情を想像する。それだけで喉の奥が疼いて、笑いがこぼれそうになる。

 ああ、やっぱり、その顔が見たい。そんな思いが湧いたことにどこかほっとしながら、僕は街路樹の揺れる真っ暗な道を歩いた。

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