ひとつと幸せと永遠と

 千紗ちゃんは困惑した顔で、その小さな箱の中身を見つめた。

「……えーと」短い沈黙のあと、ためらいがちに、おずおずと口を開く。

「わたし、穴、開けてないよ?」

「知ってる」

 短く返せば、千紗ちゃんは怪訝そうに視線を上げて僕を見た。

「じゃあ、なんで」

「今日、僕の誕生日だから」

 ちぐはぐな返答に、うん、と首を捻りながら相槌を打つ彼女に

「僕へのプレゼントってことで」

「……え」

 そこでようやく、千紗ちゃんはなにか勘付いたようだった。しばし無言で僕の顔を見つめ、それからまた箱の中に視線を戻す。

「開けてよ、千紗ちゃん」

 そこに横たわる小さな赤いピアスを、千紗ちゃんは戸惑ったようにじっと見つめていた。



 ほとんど衝動買いだった。

 いつもは素通りするだけの駅ビル内のアクセサリー売り場で、ふとガラスケースの中にあるこれが目に入って。

 思わず足を止めてしまったら、すぐに店員さんが近寄ってきて、今なら30パーセントオフでたいへんお買い得なんです、なんて畳みかけるような営業トークにあっさり乗せられ、気づいたら財布を出していた。

 丸っこい、一粒の赤いピアス。何の飾り気もないシンプルなものなのに、なぜか目にした一瞬、千紗ちゃんの顔が浮かんでしまった。

 千紗ちゃんに似合いそうだな、なんて思ったら、どうしてもその状態のそれが見たくなって。彼女の耳にこれを身につけるための穴なんて開いていないことは知っていたけれど、それなら開けてもらえばいいや、と僕は当たり前みたいにそう考えていた。

 僕が頼めば、彼女が断らないことは知っていた。しかも都合良く、もうすぐ僕の誕生日だった。お金のない彼女は、僕の誕生日プレゼントを買えないことを気に病んでいた。だったらちょうどいい。彼女からお金のかからないプレゼントをもらおう。そう、思って。


「ね、ね、ほんとに?」

 ピアッサーや消毒液を黙々とテーブルの上に並べていく僕に、千紗ちゃんがまだ戸惑った様子で訊いてくる。

「ほんとに、開けるの?」

「うん。誕生日プレゼント」

「これが、こたちゃんへのプレゼントになるの?」

「なるよ。はい、準備できた。ここ来て、千紗ちゃん」

 だけど呼べば、千紗ちゃんは思いきり困惑した顔をしながらも、素直にこちらへ歩いてくる。言われるがままテーブルの前に腰を下ろした彼女の横に、僕も座った。彼女の耳にかかる茶色い髪を拭うと、まだ何の傷もない小さな耳が現れる。

「わ、わ、ちょっと待って!」

 途端、千紗ちゃんは焦ったような表情でこちらを見て

「まだしないで。もっとゆっくり」

「時間かけたほうが怖くない?」

「でも、まだ心の準備が……」

 強張った声で呟いて、千紗ちゃんは大きく深呼吸をする。何度繰り返しても、横顔はがちがちに緊張したままだったけれど。

「こ、こたちゃんて、こういうの上手いの?」

「さあ。したことないからわかんない」

「……だよね」

 そういえば、千紗ちゃんは痛いのが苦手だった。ちょっと指先を切っただけで大騒ぎしていたし、注射も泣くほど嫌いなのだと前に聞いたことがある。高校生の頃、千紗ちゃんにピアスは開けないのかと訊いたら、痛そうだから嫌だとも言っていた気がする。


「……嫌? やめる?」

 そっと問いかければ、千紗ちゃんは弾かれたように顔を上げてこちらを見た。

「ううん」さっきよりずっと焦った表情で、即座に首を横に振る。

「やめない」

「痛いかもよ」

「いいよ、大丈夫。こたちゃんがしたいなら、して」

 はっきりとした声で言い切って、千紗ちゃんはふたたび前を向き直る。そうして今度は自分で耳にかかる髪を掻き上げると、「さあどうぞ!」とぎゅっと目を瞑りながら告げた。


「いいの?」

 その薄い耳たぶに触れると、相変わらずがちがちに強張ったままの彼女の肩が、びくっと震えた。

「いいよ」

 だけど答えは、なんの迷いもなく返される。

 膝の上でぎゅっと握りしめられた拳も、噛みしめられた唇も、かすかに震えているのに。


「……ピアスの穴って」

「うん?」

「開けたら、ずっと残るの?」

「え、まさか。なにもしなかったらふさがっちゃうよ」

「そうなんだ」

「うん」

「……そっか」

「……どうしたの?」

 いつまでも訪れない痛みに焦れたように、千紗ちゃんが目を開ける。

「やっぱ、いいや。やめる」

「へ?」

 素っ頓狂な声を上げる千紗ちゃんにかまわず、僕は手にしていたピアッサーを置いた。そうしてテーブルに広げた道具を片付け始めた僕の手を、「え、え、なんで?」と千紗ちゃんが戸惑ったようにつかんだ。

「わたし、大丈夫だよ。開けていいよ。プレゼントなんでしょ?」

「うん、そのつもりだったんだけど、やっぱりいい」

「なんで?」

 なんでだろう。自分でもよくわからなかった。ただ急に、“それ”に惹かれなくなってしまった。


 顔を上げると、千紗ちゃんは困ったような顔で僕を見ていた。 

「……じゃあ、誕生日プレゼントは」

「べつにいいよ。なにもなくて」

 とくに欲しいものなんてない。千紗ちゃんがお金を持っていないことは重々承知している。


 千紗ちゃんは少しのあいだ無言で僕の顔を見つめてから、僕の手を離した。

 かと思うと急に立ち上がり、クローゼットのほうへ歩いていく。三分の二は千紗ちゃんの荷物が占めるその中から、いちばん手前に置かれていた焦げ茶色のハンドバッグを手に取る。

 千紗ちゃんはそのバッグからなにか一枚の紙を取り出すと、またこちらに戻ってきた。

「あのね、こたちゃん」

 そうしておもむろに、僕の前に正座する。

「これなんだけど」

 そう言って目の前に掲げられた紙切れに、僕は思わず目を見開いた。


「……なに、それ」

「昨日、もらってきたの」

「区役所行ったの?」

「うん」

 千紗ちゃんの顔を見ると、彼女はちょっと恥ずかしそうに目を伏せた。「えっと」指先で軽く頬を掻きながら、ぼそぼそと告げる。

「これぐらいしか、思いつかなくて」

「なにが?」

「あげられるもの。わたし、今、お金もないし……」

 僕は黙ってその紙切れを眺めた。

 婚姻届の現物を見るのははじめてだった。中身の重たさが伴わないその薄っぺらな紙は、吹けばあっけなく飛んでいきそうに軽い。「夫になる人」の隣に並んだ「妻になる人」の欄にだけ、千紗ちゃんの名前と捺印がある。見慣れた、丸っこい千紗ちゃんの字で。


「これが、プレゼントになるのか、わかんないけど……むしろこたちゃんより、わたしがうれしいだけかもしれないけど。でも、今のわたしには」

「ううん」

 首を振ってから、僕はテーブルの上のピアッサーをつかんで立ち上がった。部屋の隅に置かれたゴミ箱のほうへ歩いていく。そうしてそこに無造作に放れば、えっ、と千紗ちゃんがびっくりしたように声を上げた。

「こたちゃん? なんで」

「ありがとう、千紗ちゃん」

「え」

「うれしい。死ぬほど」

 昨日。思えば、千紗ちゃんは少し様子がおかしかった。表情がどこか強張っていたし、口数も少なかった。心配になって、具合が悪いのかと訊いたほどだ。

 今になって合点がいく。千紗ちゃんがまともに外に出るのは、きっと三ヶ月ぶりぐらいだったはずだ。しかも区役所は、けっこう遠い。


 これが欲しかったのかと訊かれれば、たぶん違う。

 だけど目にした一瞬、息が詰まった。

 こんな紙切れにも、きっと意味はない。何の意味もない。わかっているはずなのに、うまく呼吸すらできずにいる自分に困惑する。

「ほんとに?」

「うん」

「……よかった」

 心底ほっとしたように顔をほころばせる千紗ちゃんに、気づけば手を伸ばしていた。

 抱きしめると、すぐに背中に彼女の手が回る。強く抱きしめ返されるその力に、なぜだか一瞬泣きたくなって、また困惑した。

 いつまでだろう。

 彼女はいつまで、こんなふうに抱きしめ返してくれるのだろう。

 ふいにそんな考えがよぎって、振り払うように目の前の肩に顔を埋める。開けようとしたピアスの穴にも、彼女がくれた紙切れにも、何の意味もない。ないから。


 何の傷もないその小さな耳に触れ、ああよかった、と思う。

 無駄な傷をつけなくてよかった。



 いずれふさがるような穴なんて、いらない。

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