第5話
五十嵐英次くん。
このあたりではおそらくいちばん偏差値が高いであろう、国立大学に通う二年生。学部は法学部。勉強は忙しいけれど、実家があまり裕福ではないため、生活費はできるだけ自分で稼ごうとバイトも頑張っているらしい。ここ半年ほど、彼女はいない。
千紗ちゃんが目を輝かせながら語った、パスケースの彼についての基本情報はそんな感じだった。
前日に宣言していたとおり、例の喫茶店に行ってきたらしい彼女は、そこでようやくパスケースの彼と顔を合わせ、言葉を交わしたという。そうしてしっかりこれだけの情報を、初日から聞き出してきたらしい。さすがだ。恋する千紗ちゃんの積極性には、ほとほと感心する。
「もうね、すごくない? 頭良くて、しかも家族思いで頑張りやさんって。こんな完璧な人いるんだなあってびっくりしちゃう。しかも名前、五十嵐だよ五十嵐。やばくない? 名前までイケメンって」
興奮気味に捲し立てる千紗ちゃんは、さっきからちっとも箸が進んでいない。千紗ちゃんの来る時間に合わせて作った鶏の竜田揚げも野菜炒めも、すっかり冷めてしまったみたいだ。湯気が消えている。
だけど指摘することはなく、笑顔で「すごいね」と相槌を打てば
「しかもね、超かっこよかったんだよ。今まで出会った男の人の中でいちばんイケメンだった!」
迷いも遠慮もなく、千紗ちゃんはこれ以上なくはっきりと言い切ってみせた。
僕は思わず苦笑しながら
「佐久間先生より?」
「うん! 断然イケメン!」
きっと今、千紗ちゃんは引き合いに出された佐久間先生の顔を、思い浮かべることすらなかっただろう。高校時代、千紗ちゃんが世界一かっこいいと言っていた彼。もう顔も忘れてしまったのかもしれない。
昨日まで構われていなかった千紗ちゃんの爪には、今日はきれいなピンク色が塗られている。化粧もいつもより少し濃い。普段は塗らない口紅を塗っているし、まぶたの上にも薄く色が載って、なんだかキラキラしている。髪のカールもいつもより入念だ。僕に会うときとはぜんぜん違う、気合いの入った千紗ちゃんだ。
「連絡先は交換したの?」
「もちろん、ばっちり!」
「さっすが」
思わず感嘆の声を漏らすと、千紗ちゃんは、うふふー、と誇らしげに笑った。
「見て見て」ポケットからスマホを取り出し、戦利品を掲げるように五十嵐くんの連絡先を開いた画面を見せつけてくる。
「とりあえず、明日もまた喫茶店に行ってみようかな」
「付き合えそう?」
「うん、いけると思う。今彼女いないって言ってたもん」
さらっと答える千紗ちゃんの声には、しっかりとした自信が感じられた。そしてそれは願望などではなく、たしかなものなのだろう。
僕の友人たちからの評価はどうあれ、千紗ちゃんの容姿は間違いなく可愛い。だからいつでも、第一印象はすこぶる良い。高校でも、最初は人気者だった。評価が一転したのは、千紗ちゃんが佐久間先生というひとりの教師に恋をしてからだ。
千紗ちゃんは、恋をしたらとにかく一直線だった。周りなんてなにも見えなくなるぐらいに。
昼休みには毎日その先生をつかまえて、いっしょにお弁当を食べていた。帰りも待ち伏せしていっしょに帰ったり、想いを綴った手紙もしょっちゅう渡していた。なにかの拍子に彼の連絡先を知ってしまったあとは、毎日のように電話やメールもしていたらしい。
やがてその行為はエスカレートし、ついには彼の家にまで押しかけるようになった。そこでさすがに困り果てた先生が学校に相談して、千紗ちゃんの行為は問題になった。それが原因なのかはわからないけれど、翌年の春に佐久間先生は別の高校に異動し、強制的に千紗ちゃんの恋は幕引きとなった。
「……ねえ、こたちゃん」
浮き立った調子で五十嵐くんの話を続けていた千紗ちゃんが、ふと思い出したように真顔になる。
うん、と聞き返せば、千紗ちゃんはちょっと迷うように口ごもったあとで
「もし、もしね、本当にわたしが、五十嵐くんと付き合えることになったら」
「うん」
「その、こたちゃんは本当に、そのときはわたしと」
「いいよ。僕とは別れて」
千紗ちゃんの言わんとすることを察して、彼女が口にするより先にそう告げれば、千紗ちゃんは戸惑ったように僕を見た。「でも」罰が悪そうに口を開きかけた千紗ちゃんをさえぎり、僕は笑顔で続ける。
「最初からそういう約束だったじゃん。今更なんにも気にしなくていいよ」
「でもこたちゃん、わたしのこと好きなんでしょ?」
「うん。だから僕は、千紗ちゃんが幸せになってくれればそれでいいんです」
千紗ちゃんは僕の顔を見つめたまま、何度かまばたきをした。
だから安心させたくて笑いかけてみたのだけれど、それでよけいに困ったような顔になった彼女は、テーブルの上に視線を落とす。竜田揚げに野菜炒めにしじみの味噌汁。料理はけっきょくほどんど手をつけられることなく、千紗ちゃんの前に並んだままだ。
「こたちゃん、なんでそんなに優しいの」
ぼそっと呟かれた言葉は、独り言なのか僕への問いかけなのかよくわからなかったけれど、とりあえず僕は聞こえない振りをしておいた。
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