第三十五話 切なくて嬉しくて、マジ怖ぇ


 時計は午後七時になろうとしていた。またしても眠ってしまったようだ。


 から、しばらくのあいだは彼女を腕の中に抱いたまま微睡まどろんでいた。そのうち少し意識が遠くなってきて、彼女がそっと腕を離れ、ベッドから出たような感じがしたかと思うと、やがて部屋の向こうの方から水の流れる音が聞こえてきた。ああ彼女がシャワーを浴びてるんだなと思ったあたりで、またすっと意識がなくなった。再び眠りに落ちたらしい。何しろ四十六時間――ほぼ二日のあいだに一時間足らずしか睡眠をとっていないと、こんなふうになってしまうようだ。


 起き上がると、そばのテーブルに鍋の用意が出来ていた。キッチンでは彼女が洗い物をしている。

「あ、あの――」

 彼女が振り返った。「起きました?」

「ごめん、また眠っちゃった」

 ううん、と彼女は笑った。「ごはんできてるけど、その前にお風呂入れてあるから、入って」

「えっ――いいよ、そんな」激しく手を振った。

「でも、汗もかいてるでしょ」

 あ――確かに。すると脳みそのが瞬時に働き、さっきの彼女の挑発的な肉体を鮮やかに再生した。まさかあんな悩殺ボディだったとは。それに、あの声――やばい。またが反応してしまう。

 見ると、彼女も恥ずかしそうに俯いている。

「じゃあ――お言葉に甘えて」

「ごゆっくり」


 浴室に行くと、脱衣カゴにバスタオルと上下の下着、それに歯ブラシが置いてあった。ずいぶん用意がいいなとちょっと考えてしまったが、余計な推察はよそう。とりあえず汗臭い身体とついいだきがちな邪念を洗い流し、部屋に戻った。

「ありがとう。おかげでさっぱりした」

「バスタブが小さくて窮屈だったでしょ」

 こたつテーブルで材料を鍋に入れながら彼女は言った。

「じゅうぶんだよ。それに、着替えまで用意してくれて」

「さっきイオンに買い物行ったとき、とりあえず適当に選んで買ってきたの。サイズとか大丈夫だった?」

「うん。ありがとう」

「あと、他にどこも怪我してなかった?」

「えっ?」

「あの中川って男と対決して、腕以外も痛めてたのかなって」

「いや、別に。打ち身はあったけど、たいしたことないよ。どうして?」

「二宮さん、左肩が痛そうにしてたから」

「ああ……」

 さっき、体勢を変えるために彼女を抱きかかえたとき、左肩に痛みが走ったのだ。

「年末にね。ちょっと無茶をして――左の鎖骨を折ったんだ」

「えっ、大変」彼女は眉をひそめた。「それもお仕事中?」

「うん、まぁ、そんなものかな」厳密に言うと違うけど。

「まだ治ってないの?」

「手術して、今はリハビリに通ってるんだけど――その担当の理学療法士があの中川って男」

「げっ」と彼女は肩をすくめ、怒ったように頬を膨らませて言った。「あいつぅー。やってること逆じゃん」

「はは、ホントだ」

 土鍋にひと通りの材料を入れ終えると、蓋をして真剣な眼差しでカセットコンロの火を調節し、菜箸を置いて「しばしのお待ちを」と言ってにっこりと笑う。相変わらずくるくると変わるその表情は、まるで万華鏡だ。その様子を見ながら、癒されてるなとしみじみ思った。

 すると彼女は言った。

「警察官って、そんなにいつも無理してるものなの?」

「えっ?」

「二日近く眠らなかったり、骨を折るようなことをしたり」

「あ――そんなことないよ。たまたまボクがそうだったってだけ」

「二宮さんだけが?」

「いや、ボクだって普段はそんな無鉄砲なことはしないよ。骨折も不眠不休も、ちょっと理由があって」

「そう言えばさっき、自分なりの意地みたいなものがあって、って言ってたけど」

「うん、そうなんだけど……話せば長くなるかな」

「あ、ごめんなさい。あれこれ訊いちゃダメなんだった」

 そう言うと彼女は察したようにひとつ頷いた。

「そういうことじゃないよ」

 すると鍋が完成したようで、彼女はミトンを使って蓋を開けた。立ち上がる湯気とともに味噌の香りが広がり、かぼちゃをはじめたくさんの野菜と幅の広い麺が、グツグツと煮込まれる音と共に現れた。

「これって――」

「ほうとう。食べたことあります?」彼女は笑顔で訊いた。「栗原の家は、もとは山梨やまなしの出身なんです。だから、ほうとうは家庭の味なの」

「美味しそうだね」

「お口に合うといいけど」

 いただきますと言って適量を取り皿に入れ、一口食べた。旨い。みる。

「美味しい?」

 彼女の問い掛けに、食べながら何度も頷いた。

「よかった。たくさん食べてね」

 暖かくて美味しい食事と、可愛い女子。ああ、これぞ至福のとき。ふと彼女を見ると、ふうふうと野菜に息を吹きかけながらゆっくりと口に運び、

「……うん。おばあちゃんの味にかなり近づいてる」

 と言って満足そうに口角を上げた。思わずこちらも笑みがこぼれる。

「あーっそうだ!」

「うわーびっくりした……」

 箸を落としそうになった。ちょっとこの万華鏡、変化が忙しすぎるんだけど。

「ビール出すの忘れてた! お鍋のそばだとすぐに生温くなっちゃうから冷蔵庫に入れといたの!」

 そう言いながら彼女は立ち上がった。

「あーいやいやいや、いいよビールは」

「どうして? 勤務時間じゃないのに?」

「違うけどね。まだ本調子じゃないし、今日はやめとくよ」

 キミにアルコールを飲ませたくないんです。この前みたいなことになるのは勘弁だから。

「ふうん……じゃ、お茶でいい?」

「お茶がいいお茶がいい。お茶最高」

 了解ーと言って彼女が冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶をグラスに入れているのを眺めながら、やがて箸を箸置きに休ませ、そして口を開いた。

「――警察官になろうと思ったのはね。修士を一年終えたとき」

「そうなんだ」彼女は振り返らずに言った。

「ボクの人生で、絶対に忘れることのできない――忘れちゃいけないことが起きて、それがきっかけ」

 彼女は両手にグラスを持って戻ってきた。「はい」

 ありがとう、と受け取ると、一口あおった。


 ――それから、全部話した。彼女は鍋をつつきながら、黙って聞いていた。


「――研究者になりたかったなって、今でもたまに思うことはあるよ。だけど、それはもう俺の進むべき道じゃない。あの世界に絶望したのもあるけど、自分だけ何食わぬ顔で好きなことやっていいのかって、どうしても葛藤してしまう自分を否定できなくて。こんなんじゃいずれ駄目になるだろうし、もう俺はここにいる必要ないなって、あのときはそう思ったんだ」

 彼女は困ったように首を傾げた。「……もったいない」

「言われたよ。両親にも教授にも。だけど、俺が選んだのは、言わば贖罪の道なんだ」

「贖罪……」

「そう。何を今さらって、亡くなったあいつに言われそうだけど、あるいはただの自己満だって一蹴されるだろうけど、それでも、目の前の大切な人を救えなかった自分を戒めながら、同じようなことはもう二度としない、苦しんでる人間を一人でも救おうとすることで、あいつに謝ってる。後ろ向きな考えに思われるかも知れないけど、それで誰かが助かるなら――」

 そこまで言ったところで、彼女は両手をぎゅっと握って拳を作り、胸に当てて背中を丸めた。

「えっ? どうかした?」

「……痛い」

「え? え? 大丈夫?」慌てて身を乗り出した。「胸が痛いの? 苦しい?」

 彼女は目をきつく閉じて頭を振った。「違う……ううん、やっぱそう」

「え? どっち?」

「二宮さんの辛さが……痛い」

「あ――」そっちか。

「……二宮さんと私、大切な人を失ったのは同じなのに……私はだからこそ好きな道を選べて、逆に二宮さんは選べなかった」

 今度はこっちの胸がぎゅっと縮んだ。

「……選ばなかったんだ」

「そうだと思う。でも、やっぱり選べなかったのよ。あなたは――優しい人だから」

「そんな――ことは、ないよ」

「だからなのね。初めて来店してくれたとき――確か、半年ちょっと前だった――あなたが少し空虚な眼差しで雑誌を眺めているのを見て……そこにまとわりついていた憂いみたいなものが、気になって仕方なかったのは」

「えっ――」

 そうか。そういうことだったんだ。

「ごめんなさい。今まで私、研究のこと遠慮もなしに訊いちゃって。辛い思いをさせてたんだわ」彼女は言うと項垂れた。「……私だってこんな辛いのに」

 思わず目を閉じた。口元が震え、目頭が熱くなる。

「俺の方こそごめん。きみには無関係なことなのに」

 彼女は頭を振った。「人の痛みに触れたら、それを自分のものとしなさいって――お父さんがいつも言ってる」

「つくづく立派な人だ」

 そうよ、と彼女は頷いた。「だからね。今、奈那の胸が苦しいのは、それができてるってことなの」

「ただただ申し訳ないけど」

 そう言うと居住まいを正して彼女に向き直った。「だったら、俺はそれを和らげないとね」 

「うん?」

 首を傾げる彼女に向かって、両腕を広げて差し延べた。彼女は目を細めてにっこり笑い、腕の中に身体を預けてきた。

 ぎゅっと強く抱きしめて、それから彼女に気づかれないよう、少し泣いた。

 


 十時になって、彼女の部屋を辞した。しんと静まったエレベーターホールまで彼女が見送りに来てくれた。

「じゃあ、長いことありがとう。ご迷惑をおかけしました」

「こちらこそ、お引き留めしました」

 お互いに深く一礼し、顔を見合わせて笑った。

「また連絡するよ。ひょっとしたらその――参考人として話を聞くことになるかもかもしれないけど」

「うん、大丈夫」彼女はしっかり頷いた。

 あたりを見渡して、誰もいないのを確認すると、彼女の手を取って引き寄せた。彼女も強くしがみついてきた。

 エレベーターランプの数字が近づいて来た。彼女が顔を上げたタイミングで、今夜最後のキスをした。こんな場所でするなんて、わずかな時間で俺も進歩したものだと思った。

 エレベーターが到着した音がした。離れないとと思ったものの離れがたく、ドアが開くのが一瞬だけ早かった。

「な――」

 中から声がした。慌てて振り向くと、中年の男性が一人、大きく口を開いてこちらを見ていた。やべ、見られたか。

 するとその男性は、後で思い返しても身の毛がよだつ恐ろしい声で言った。


「奈那に何してる……?」


 ――え、なんだって? 嘘だろ嘘だろ。


「お父さん……」彼女がぼそっと言った。「なんで?」


 ――ああ、マジか。嘘じゃなかった。


「ゴルラァァァァ!!!! 貴様っ誰だァァァ!!!」

 スピードが早すぎて見えてなかったけど、左のこめかみのあたりを殴られたのが分かった。目の前で火花が炸裂し、猛烈に熱くなった。彼女が「やめてお父さん!!」と叫ぶ声を頭の後ろあたりで聞きながら、膝から崩れ落ちた。

 それから馬乗りになられて、襟首を鷲掴みにされた。

「このケダモノめ! 殺されたくなかったら、さっさと失せろ!!」

「お父さん、違うんだってば!」

「何が違うんだ! いいか小僧、今度このに近づいたらキン〇マ握り潰して、二度と役に立たねえようにしてやるからな! 嘘じゃねえぞ!」

「お父さんったら、ヒドい! 何てこと言うの……!」


 ――お父さん。あんたはやっぱり立派だよ。想像してたよりかなり口が悪いけど、娘を心から愛し、大切に思う父親としては百点満点、いや百億点満点だ。同じように両親の大切な息子であるはずの俺はそんなあんたにめちゃくちゃにされてるけど。


「――ごめんなさい。だ、だけど、決していい加減な気持ちじゃ――」

「あぁ? まだぬかしやがるか? てめえ歯ァくいしばれ――」


 その先は何て罵られたのか、もう分からなかったし、分かろうとも思わなかった。



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