第二十七話 長い夜(前)


 一時間ほどデスクワークをしていると、事件の通報が入った。元町もとまち商店街で暴走した車が歩道に乗り上げて歩行者一名を撥ね飛ばし、目の前の飲食店に突っ込んで止まると、運転手の男は車を乗り捨てて逃走した。途中、男は信号待ちをしていたバイクの男性を殴ってそのバイクを奪い、そのまま北西方面へ逃走。事故を起こした車は盗難車で、後部座席からは血痕が見つかった。先に機捜が出て逃走者を追っていたが、もちろんこちらにも出動要請がかかった。はっきり言って大事件だ。当直の夜についてない。


 逃走犯の追跡は機捜に任せて、こちらはその人物の特定に動いた。車は昨日、磯子いそこ区の住宅街で盗まれたもので、持ち主が関西出張から帰ってきたつい三時間ほど前に盗難届が出ていた。そこで、応援に出てきた同じく当直勤務の生活安全課の刑事と共に汐見台しおみだいの被害者宅に出向き、ガレージに設置された防犯カメラの映像を再生して犯人の特徴を割り出した。犯行は昨日の深夜二時ごろに行われており、単独犯だった。目だし帽を被っていて、しかしその顎の下あたりから首にかけてかなり個性的なタトゥーを入れているのが分かった。生安課の刑事が被害者からさらに詳しい事情聴取をしているあいだに、いつものネットワークを駆使して(さすがにこの場合は特に違法性なしと判断した)そのデザインを専門的に彫ってくれる店を割り出した。そして横須賀よこすかにあるその店まで足を運んで犯人の画像を見せると、あっさり身元が割れた。今度はその人物の住む川崎かわさき市のアパートへ向かう。するとその途中で連絡が入り、最初の事故現場の後処理をしていた地域課の捜査員が逃走犯の目撃情報を集約したところ、窃盗犯とは背格好が大きく違い、両者は別人だと判明した。両者の関連を調べるためそのまま窃盗犯のアパートを訪ねると、部屋には鍵がかかっておらず、中で争った形跡と、血痕を確認。鑑識を呼んで実況見分を行おうとしていたところに、逃走犯確保の一報が入った。そのまま鑑識の到着を待って実況見分を続け、すっかり疲弊して署に戻ったのは午後十一時だった。


 トイレで用を足し、自販機でコーヒーを買って刑事部屋に着くと、警部が一人で残っていて、出迎えを受けた。

「――お疲れさま」

「お疲れさまです。まだいらしてたんですか」腕時計を見た。「もう十一時まわってますよ」

「だって、ここ空っぽなんだもの。それに、あなたに報告しなきゃならないじゃない」

「でも、警部は通常勤務なんだし」

「だからなに?」と警部は肩をすくめた。「今さら働き方改革?」

 そんなものとはほど遠い警察の現状を皮肉って言っているのだろうが、なぜだか今は無性に腹が立ち、反論したくなった。きっと、この数時間あちこち駆けずり回って疲れ切って戻ったところに、気まぐれに居残っているキャリアが高いところから余裕ぶっこいて首を突っ込んできたように思ってしまったのだろう。――ヤバいな。相当病んできたぞ。

 それでもここは言わずいられなかった。

「……いけませんか。警部のような人に率先して実践していただきたいと思うのは」

「わたしのような?」警部の瞳にも苛立ちが浮かぶ。

「いずれ上層部うえに行く人です」視線を外さずに言った。

「…………」

 警部は敵意を含んだ眼差しのまま黙ってこちらを見つめていたが、やがてすっとその怒りを引っ込めて穏やかな表情になると、

「あとこれ、差し入れよ」

 と手提げの紙袋を差し出した。さっきから旨そうな匂いがすると思ったら、これか。そして、上手いことはぐらかされた。まあ仕方ない。

「カレーですか」

「そう。出動要請がかかって、晩ごはんまだなんでしょ」

 警部は紙袋をそばの椅子に置き、中から丸い容器に入ったカレーとサラダを取り出してデスクに置いた。スパイシーな香りが広がり、食欲をそそる。

「メイドカフェの従業員の一人が、神田に住んでてね。昼に話してたカレー屋さんの近所だったから、帰りに行ってきたの」

「えっ、肉三種全部乗せ? ボクそんなの食べられませんよ」

「違うわよ。これは普通のチキンカレー。たっぷりの野菜入りよ。嶋田主任の分もあるわ」

 ありがとうございます、と頭を下げ、そして言った。「で、食べたんですか。全部乗せ」

「うん、『肉三種全部乗せ大辛スープカレー』ね。久しぶりに食べたけど、ちょっと量が少なくなってたわ」警部は口を歪めて腕を組んだ。「消費税も上がって、いろいろと状況は厳しくなってるのかもね。値段を据え置く代わりに、分量を減らしたのよ。ま、完食無料チャレンジを継続してくれてるだけでも良しとしないと」

「そうなんですか」

 ――この、食に対する飽くなき探求心と言うか底なしの食欲と言うか、どっちもだろうけど、改めて脱帽だ。

「ところで、垣内主任は? もう帰られましたか」

「確保した逃走犯だっけ? その取り調べに、嶋田主任と入ってる」警部は取調室のある方向を指差した。「車の窃盗犯の所在が分からなくなってるんでしょ。部屋に血痕が残ってて」

「車にも残ってました。だからおそらく――」

「そう。生きて見つかるか、死体が出るか」警部は神妙な顔で頷いた。「結果如何によっては、長い夜になるわよ」

 まだ言ってる。「だから、警部は――」

「帰るわよ。着替えを取りにね」

「いえ、そのまま戻ってこなくて大丈夫です。勤務時間はとっくに終わってます」

 こっちももう一度言った。病んだ俺はしつこいんだ。

「あなたはわたしの上司?」警部の声に棘が生まれる。

「違います」一度だけ首を振った。

「わたしが女だから?」

「それも違います」

 そう言うとわざと大きくため息をついた。「悪しき慣習を絶って欲しいんですよ、警部には」

「それは分かったわ。だけど今夜じゃない」

 痛いほど分かってはいたが、やっぱり意地っ張りだな。だがこうなったらこっちも譲れない。つまらない意地だろうと何だろうと、通してやる。今は無性にそんな気分だった。

「――正直言いましょうか。こんな事件が起きて、あちこち走り回った夜に、これ以上余計な気疲れしたくないんです」

「気遣いは無用だって、いつも言ってるわ」

「ええ、聞いています。だけどどうしても遣うんです。これはもうどうしようもない」

「それはあなたの問題よ」警部は腕を組んだ。「わたしの問題じゃ――」

「原因はあなたでしょう? キャリアのあなたの」思わず声を上げた。

「二宮くん……」

「……あなたは、どうせ俺たちとは違うんだ」

 吐き捨てるように言って俯いた。これを言われるのを警部が一番嫌うことを、知っていたのに。

 すると警部が大きくため息をついた。顔を上げると、警部は手にしていた紙袋を畳んでカレーのそばに置き、黙って自分のデスクに戻って椅子の背に掛けたコートと鞄を持ち、真っ直ぐにこっちを見た。何の感情も読み取れない、空虚な瞳だった。

「ではお先に。お疲れさま」

「警部――」

「また明日」

 そう言って警部は部屋を出て行った。固く口を結び、横顔の頬のあたりが紅潮していた。


 ――ああ、やってしまった。苛立って、つい口にしていた。他の人間ならともかく、コンビを組んで、彼女に『わたしを理解しようとしてくれる、信頼のおける部下』と言わしめた俺が――俺だけは、言っちゃいけない言葉だったのに。

 額に手を当てた。気のせいか何だかズキズキする。


 するとそこへ、垣内、嶋田の両主任が入って来た。

「おう二宮、ご苦労やったな」嶋田主任が言った。

「お疲れさまです。すいません垣内主任、また手伝ってもらって」

「いや、いいってことよ」垣内主任は片手を挙げた。「それより、お嬢さんが出て行くのを見たけど――」

「もう遅いから帰ってくださいって言ったんです。ボクの独断ですけど」

「へえ。おまえさんにしちゃめずらしいな」垣内主任はにやりと笑った。

「……ええ。だって今からまだいろいろと――」

「ああ待った、二宮、ゆっくりしてられへんぞ」嶋田主任が遮った。

「え、はい?」

犯人ホシが吐いたんや。川崎のアパートで仲間を刺して、大黒だいこく埠頭の倉庫まで運んで閉じ込めたってな」

「ホントですか」

「ああ。その帰りに車を暴走させて商店街で事故ったんや。パニックになってもーたんやってよ。知るかっちゅうねん」

「じゃあ――」

「今から向かう。巡回中のパトロール組にも連絡したから、先にそっちが着いてるとは思うが」と垣内主任が言った。

「え、主任と?」

「そうだ。嶋田はまだ取調べがあるからな。そんで行く道の車ン中でメイドカフェの従業員から聴取した内容を説明する。だ」

「分かりました」

「――おい、これなんや?」

 嶋田主任が言った。振り返ると、自分のデスクに置かれたカレーを見ている。 

「あ、それ警部の差し入れです。ボクと嶋田主任の晩メシだって」

「へえ、旨そやな」嶋田主任は言うと垣内主任を見た。「ええの?」

「俺はもう見たくねえ」垣内主任は首を振った。「で一生分か、ってほど食わされた。夢に出てきそうだ」

 ――ああ、結局そうなったんだ。そりゃに抵抗は無理だよな。ご愁傷さま。

「じゃ遠慮なく。二宮、お先に」

「お構いなく。彼女の選ぶものはどれも美味しいです」

 そう言うと先に駐車場に向かった垣内主任のあとを追って刑事部屋を出た。


 廊下を進む垣内主任に追いつくなり、主任はメイドカフェの従業員リスト一式を渡してきた。受け取って履歴書のコピーを見ると、それぞれの裏面にぎっしりと聞き取った内容が記録されていた。

「これ――」

「お嬢さんが書いたんだ」主任はぐるぐると首を回しながら言った。「俺が主に女の子たちから話を聞いて、彼女は記録係」

 話を聞きながら書いたとは思えない、あとで清書をしたかのように完成度の高い、見事に整理された記録だった。さすがは東大文一現役合格、そして国家総合を楽々とクリアする秀才の情報処理能力は並じゃない。しかも美しい字だ。確か書道初段と言ってたっけ。

「おまえと組んでるときとは逆なんだろ?」主任は言った。「記録係はおまえで、彼女は話の聞き役」

「ええ」

「それであとからおまえの書いたメモを見ると、たいてい何だかよく分からなくって、って彼女、笑ってたぜ」と主任も笑った。「ま、それは俺も知ってる」

「手書きは苦手で――」

「そりゃ言い訳だ。彼女の記憶力に感謝しな」

「そうですね」苦笑いした。

「彼女、おまえが読んで分かりやすいようにしないとって、熱心に書いてたぞ」

「……そうなんですか」

「結構いいコンビじゃねえか。最初はどうかなと思ったけど」

 主任は伸びをするように両手を上げ、頭の後ろで組んだ。「――だから、喧嘩なんかすんじゃねえって」

「えっ――」思わず主任を凝視した。「主任、何か聞いて――」

「別に。けどさっき帰るときのお嬢さんの様子がさ。かなりだったし」

「……そうなんですか」

 ―― 一気に後悔が襲ってきた。なんであんな意地の悪いことを言ってしまったのか。主任には『いちいち引っかかってたらメンタルが持たない』と忠告しておきながら、自分が一番それを自覚していなかった。

「何があったのか知らねえけど」主任は穏やかな笑顔で言った。「おまえのこと、頼りにしてるんだぜお嬢さんは」

 ――頼むからそんなこと言わないで。良心の呵責に押しつぶされそうだ。

「……そんな、ボクなんて」

「まっいいからよ。とりあえず今は目の前の仕事だ」

 主任は言うと左肩をパンと叩いてきた。

「い、いてっ」

「あっ悪りぃ、鎖骨いっちゃってるんだっけ。さっさと治せよぉ」主任はガハハと笑った。「こっからだからな。ガス欠になんなよ」


 そう、くよくよしてる暇なんて与えてもらえそうにない。けど今はそれが救いだった。



 

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