第二十話 またもや悪魔に見つかる
刑事課に到着すると、いつもは早く出勤しているはずの警部の姿がめずらしく見当たらなかった。彼女とのバディが固定化してしまった現状では、出勤後の一通りのルーティンワークを終えてしまうと、情けないことにどうする術もなかった。
とりあえず、今日も昨日の続きに事件関係者を洗い直すことは決まっているから、それらの詳細なデータの準備でもしておこうとパソコンを立ち上げて自作の資料を開いていると、警部が
挨拶に行こうと席を立つ間もなく、警部がつかつかとこちらにやってきたので、中途半端に腰を上げて頭を下げた。「おはようございます」
「おはよう。出る準備は出来てる?」
「あ――ええ、はい」
USBメモリを抜いてパソコンを落とし、リュックを掴んで立ち上がった。見ると、すでに警部は部屋のドアの前まで進んでいて、こちらに振り返ることもなかった。ま、いつもの通りだ。彼女がデスクの端っこに置いて行った捜査車両のキーを掴み、こちらを見ていた課長に会釈して後を追った。
廊下を進むと、階段脇にある休憩エリアの自販機コーナーに警部の姿を見つけた。選択ボタンを押し、スマホを決済端末にかざしている。お気に入りのカフェオレを取り出すと、振り返ってこちらを見た。
近づいていき、自分も同じ動作でコーヒーを買った。
「何かあったんですか」
取り出し口に缶が落ちるのを眺めながら訊いた。
「何のこと?」
「課長と席、外してたじゃないですか」缶を掴んで警部に振り返った。「署長に呼ばれてたんでしょ」
警部は黙って肩をすくめた。そしてさっさと階段へと歩いていく。手にしたコーヒー缶の熱さに耐えながら、大股で追いついた。
「――文句言われてたんですか。なかなか犯人の目星が付かないから」
「違うわ。いつもの話」警部はため息をついた。「私の処遇について」
「え?」
「どうにもこうにも煩わしいんでしょうね。私の存在が」
「……異動の内示、ですか」
「まだそこまではね」警部は小さく頭を振った。「どうにか現場から遠ざけようと画策してるのよ」
「というと?」
階段を下り切り、警部は立ち止まった。そして振り返って不敵に笑うと言った。
「署内のテッキトーな部署のトップにでも就かせようとしてるみたいよ」
「なんですか、テッキトーって」こちらも思わず笑みがこぼれた。
「あ――それじゃ語弊があるわね。あくまでわたしにとっては、って意味。現場から遠ざけることができて、キャリアが就いても部下の仕事にさほど影響のない適当な
「例えば?」
「……分からない。警務課とか、会計課とか? とにかく内勤の部署よ」
ふうん、と頷いて、警部が再び歩き出したので歩調を揃える。
「――それで、警部はどう答えてるんですか」
「決まってるじゃない、即却下」警部はふんと鼻を鳴らした。「何度来られても撥ねつけてやるわ」
「それが通るんだから、やっぱ警部はタダモノじゃないですね」
「え、ケダモノ?」
「どんな耳してんすか。タダモノじゃないって言ったんです」
「それ嫌味? 賞賛? どっちも嬉しくないけど?」警部は顔をしかめた。
「……すいません」
「まいいけどね。彼らの煩わしさも理解できないわけじゃないし」
だったら少しはおとなしくしてりゃいいのに。この人はホントに自分の立場を分かっているのだろうか。
すると、署の玄関を出たところで警部がぽつりと言った。
「……まだね。この現場を離れるわけにはいかないの」
「えっ?」
「――あ、ううん――」
警部はハッとしたように目を見開き、今度は造り笑顔を見せた。「二宮くんのことも心配だし」
「……すいません。頼りなくて」
「そういう意味じゃないわ」
「じゃどういう意味ですか」
「……んーまぁ、えっと、バディに引きずり込んじゃったから、責任感じてるってこと」
「……そうですか」
――嘘だな。適当にごまかされた。どうやら何か事情がありそうだけど、ま、深入りしないのが得策だ。
「とにかく、何とか早く成果挙げなきゃ。いよいよ容赦なくデスクワークに張り付けられちゃう」
「そもそも、今の課長代理職だってデスクワークなんじゃないですか」
「今さらそれ言いっこなし」警部は悪戯っぽく片目を閉じた。「さ、行きましょ」
――当たり前のように警察官らしくないエリート。およそエリートらしくない打たれ強さ。そのくせ恋愛に関してはダメージを引きずる。なのに部下の恋愛ネタを面白がる。この人はホント、相当厄介な
だけど、そういうところがどうしようもなくこの
駐車場に向かって歩き出したところで、視界の右の端っこで人が近づいてくるのが分かった。特に気に留めずにそのまま行こうとすると、
「二宮さん」
と呼び止められた。
立ち止まって振り返った。今度は視界の左端で警部がこちらに振り返っている。
一人の女性が立っていた。白のロングニットのトップスにボトムはデニム、つばの大きめのベージュのバケットハットを目深に被って、髪はセミロング。帽子のせいで顔がよく分からない。
「あ、はい――」
誰だったっけ、と首を折って顔を覗き込もうとしたところで相手が帽子のつばを上げた。
「えっ――」
遠藤さんだった。
こんな朝早くに彼女が訪問してきたことに驚いたが、もっと驚いたのは彼女の形相だった。
額の左側からこめかみにかけて、大きな絆創膏が貼ってあった。大きめの黒縁眼鏡に薄化粧で、唇の端っこが暗い紫色に腫れている。そして、よく見ればニットの袖口から覗く左手にも包帯が巻かれていた。
「どっ、どうしたんですか?」
思わず歩み寄って手を差し延べていた。すると遠藤さんは「ごめんなさい、あ、あの、私――」と後ずさりをした。
あっすいません、と頭を下げた。明らかに警戒されたからだ。そして顔を上げるともう一度彼女の姿を見直して、強い確信とともに言った。
「中川なんですね」
遠藤さんはどうにも困った様子で、なぜだか苦笑いして頷いた。「……だと、思います」
「いったいどういう――」
「二宮」
後ろから声が飛んできた。はいーそうでしたー忘れるとこでしたー。そしてマズいとこ見られちゃいましたー。つか、え、なんで呼び捨て?
ゆるゆると振り返ると、警部は腕組みをして顎を上げ、いつも以上に不遜な眼差しでこちらを見ていた。そして、明らかに面倒臭そうな口調で訊いてきた。
「――どういうことなのか分からないけど、話を聞いてあげた方がいいんじゃない。部屋に戻る?」
「……あ、はい……」
じゃあ、と警部は頷いて、遠藤さんに顔を向けると「どうぞ」とだけ言って庁舎の玄関へと戻って行った。
戸惑った様子の遠藤さんに造り笑顔を見せ、「上司です」と言うと彼女を玄関へと促した。
――と、いうことで、全部白状させられました。はい。
刑事部屋の隣の小さな会議室で、実はバレンタインに遠藤さんからもチョコレートをもらったこと、だけどそれは告白ではなくて別の意味があったこと、遠藤さんが元カレに受けているつきまとい行為のこと、その元カレ・中川の素性、そして自分が遠藤さんの今カレを装って中川に警告して欲しいという彼女の頼みを受け入れたこと。この七日間でおきたことのほぼ全部を洗いざらい。あーあ。
ただし、いつものやり方で仲間に調査依頼したことは今は伏せた。またやってるのと非難されるのは嫌だったし、だいいち遠藤さんの前では話せない。
あ、あとこの件は芹沢巡査部長も知っているということも。絶対に怒られる。
警部に事情を話しているあいだじゅう、遠藤さんは相変わらず戸惑った様子で警部とこちらを代わる代わる見比べていた。たまに目が合うと、何か言いたげに僅かに首を傾げる。えっ、なに。『なんでこの人が割り込んできてるの?』とでも? だから言ったじゃん、この人俺の上司なんだよ。で、あんたがここへ来たってことは、こういう事態が起きてもやむを得ないってことなんだよ。あんたは意外そうな顔してるけど、俺に言わせりゃそりゃこうなるよなってハナシ。ただ、上司と言ってもこんなに意外性の高い、インパクト強めの人物なのはご容赦を、ってところだけど。
「――それで、あなたのその怪我ですが」
ひと通りの事情を聞き終えて、警部は遠藤さんに掌を示して言った。「何があったんですか」
「あっ、あの――昨夜、家の窓に石が投げ込まれて」
そう言うと遠藤さんは我々の顔を見た。が、二人とも特に表情が変わらなかったことにちょっと面食らったようで、続きの言葉を飲み込んだ様子で俯いた。
「投げ込まれて、どうしたんですか」警部は続きを促す。
「ガラスが、割れて――石が私の額に。破片で腕を切って」
「あなたの部屋は何階?」
「二階です」
「中川は野球選手だったの?」警部はこちらに振り返って訊いた。「コントロール良すぎない?」
「いや、たぶん違うと思います」一応真面目に答えておいた。
「あっ、あの――私が寝ていたベッドのすぐ上に窓があるんです。そこに石が」
「ああ、そういうこと」警部は頷いた。「確かに、元カレなら部屋の間取りは分かっているでしょうし、大きな家具の配置も覚えてるわけね」
「ええ……」
「それで、犯人が元カレだと断定できる根拠は?」
「……窓から見ました。逃げていく彼を」
「間違いない? 夜だったら、暗かったと思うけど」
遠藤さんはしっかりと頷いた。「ちゃんと見えました。角を曲がるとき、彼、振り返ったんです。そこに街灯が立ってて――」
「付近の防犯カメラね」
警部はまたこちらを見て言った。この人はたびたびこうやって人の話を遮断する。しかも、自分が質問をしたり話を振っている相手に対してだ。ホント良くないな、こういうとこ。だけどそれを咎められるはずもなく――
「調べてみます」
と答えたが、すぐにあそこはうちの管轄ではないなと気づいた。
「あの、遠藤さんのマンションは新横浜署の管内ですが」
「だからなに?」
「……いえ、はい」
警部はふんと頷くと、遠藤さんに向き直った。
「それで、あなたはこの二宮に、自分の恋人のフリをしてその元カレに警告して欲しいと頼んだ」
「え、ええ」
「で、二宮はその依頼を承諾した」警部は肩越しにこちらを見た。「そんな素人の馬鹿げた思い付きなど却下して、プロの警察官としての職務を遂行しようとは思わなかった?」
「……すいません」
「大いに反省しなさい」
そう言うと警部は遠藤さんに完璧な笑顔を見せた。「ご安心を。いずれにしろその未練がましいストーカーは、我々がきちんと片づけます」
「……あ、ありがとうございます……」
遠藤さんはゆるゆると頭を下げながら、何とも言えない表情でこちらを見た。
――ごめんなさい遠藤さん。この人に知られるとこうなるんです。情けないけど、もはやボクにはどうすることもできないんです。ただ、あなたが今日ここへ来なければこうはならなかった。そりゃ、まさかこんなブルドーザー女が立ちはだかってくるとは思わなかったでしょうけど、ここは警察で、ボクはその組織の一員に過ぎない。自分の裁量で依頼人の意志に沿って自由に動ける私立探偵じゃないんです。言い訳がましいけど、そういうことなんです――。
困惑する遠藤さんの視線を絶妙に避けながら、自信満々な警部の横顔を恨めしい思いで眺めた。自然にため息が出ていた。
そして、ついさきほどまでどうしようもなくこの
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