第三十二話 理性の崩壊


 通り魔――つまり中川――が倒れているところへ行って、顔を覗き込んだ。手加減をしたはずだったし、さほど大きなダメージを受けている状態ではなさそうだから、そのうち意識が戻ってまた襲って来られたり、あるいは逃げられても困るので身体を拘束する必要がある。あいにく手錠は持っていなかったから、とりあえず自分のネクタイを解いて手を縛り、ガードレールにでも縛り付けて見張っておこうと考えた。

 ネクタイを緩めていると、彼女が近づいてきた。

「向こうへ行ってて。危ないから」

「気絶、してるの?」構わず訊いてきた。言うこと聞いてくれないなぁ。

「うん。そのうち目を覚ますから、縛り付けておこうと思って」

 それからもう一度彼女に言った。「奈那ちゃん、こいつかなりヤバいやつだから、向こうへ行っておいで――」

「これはどう?」

「え?」

 彼女が右手を突き出したので、見ると、掌に数本の結束バンドが乗せられていた。

「なんでこんなの持ってるの?」

「去年の学祭で模擬店やったときに使ったのが、何故だかカバンに残ってたみたい」彼女はえへへと笑った。「このバッグ久しぶりに使ったから、忘れてた」

「ドラ◯もんかよ」と笑った。

「だね。『結束バンド〜』」

 バンドを握った手をお腹のあたりに当ててすっと斜めに揚げ、小声で声真似して言う。あんまり似てない。

「ありがとう。頼りになるー」

 一応、風に答えてバンドを受け取り、まずは中川の両足を静かに合わせて結び付けた。腕時計を見る。午後十時十二分、傷害の現行犯逮捕。それから両手だ。できれば後ろに回して結びたいので、そうなると身体の向きを変える必要がある。しかしそれで気付かれては厄介だ。

 ここはやはり、彼女の手を借りなければならないかと思った直後だった――

 数種のサイレンが聞こえてきて、そのあと車の走行音がした。良かった、何とか間に合った。

「来たね」彼女がこちらに振り返った。

「うん。きみがちゃんと伝えてくれたおかげだ」

 彼女は嬉しそうに頷いた。

 ほどなく一台の捜査車両と、パトカー二台が到着して、それらのヘッドライトに照らされた。立ち上がり、両手を振って位置を知らせようとすると、一瞬だったが身体がぐらっと揺れた。

「二宮さん?」彼女が不安げに見上げてきた。

「あ、ちょっと足がね、ほら、裸足だったから――痛くて」

「……そうなの……?」

「うん。大丈夫だよ」と笑って見せた。


 一番最初に到着した捜査車両のドアが開き、垣内主任と警部が降りてきた。二人とも、高揚した顔でこちらに駆け寄ってくる。きっと、ここへ来る道中もはやる気持ちで車を走らせていたのだろう。

「――二宮――」

 先に近付いてきた主任が途惑い気味に声を掛けてきた。

 お疲れさまですと会釈し、「傷害の現行犯を逮捕しました」と言って後ろに横たわっている中川に振り返った。

「ご苦労さま」

 ちょうど目の前に来た警部が言った。「連続傷害および殺人未遂の容疑者ね」

「はい」

 そう答えると、右後ろで隠れるように立っている彼女がこちらのジャケットの裾をぎゅっと掴んだ。凶悪犯だと知って怖くなったのだろう。目の前の二人に気付かれないように、その手にそっと右手を添えた。

 主任が中川の前にひざまずき、「え、なにこの結束バンド?」と言ってこちらを見上げた。

「あ、たまたまあったんで」後ろをちらりと見ながら答えた。

「……そうなの?」主任は苦笑いした。「どんなたまたまだよ」

 すると警部が彼女に振り返り、穏やかな笑顔で「ご協力ありがとうございます」と言った。結束バンドが彼女のものだと気づいたらしい。彼女は小さく頷いた。


 パトカーから降りてきた五人の制服警官が到着し、主任の指示で四人が中川の身柄拘束に取り掛かった。残る一人はこちらの指示で、十数メートル離れて駐車してある中川の車へと向かった。

「車ン中に身元が分かるものがあるだろ」主任がぼそっと言った。

「中川修二、三十歳。山手やまて中央総合病院リハビリセンターの副所長です」と答えた。

「なんですって?」警部が驚きの声を上げた。「あのストーカーの?」

「そうです」

「どういうことなの?」

 警部は信じ難いと言った表情でこちらを見る。「……通り魔と同一人物?」

 ええ、と頷いてため息をついた。「……まったく気づきませんでした」

「ん? え? 何ですか?」

 主任は腑に落ちない様子で眉をひそめた。当然だ。

「……とにかく、意識が戻ったら全部喋らせるわ」

 警部は強い口調で言った。「また長い夜になるわよ。今度はわたしも」

「……はい」

「警部、二宮は夜勤明けの非番です」主任が言った。

「あっそうだった」警部は掌を口元に当てた。「ごめんなさい、ついうっかり」

「いえ、大丈夫です。彼女を送り届けたら、署に向かいます」

「無理しないでいいのよ。あなたも疲れているだろうし」

 そう言うと警部は改めて彼女をじっくりと眺め、頬を緩めた。「可愛い方ね」

「ほんとだ。二宮も隅に置けねえな」主任が同調する。

「あ、いやぁ……」

 俯いて額を掻く。彼女は何も言わなかったが、相変わらずスーツの裾を持って気恥ずかしそうにじっとしていた。

「彼ね、あなたにチョコレート貰ってから――」

「よっけぇーなこと言わなくていいですから警部」

 思わず大きな声を出した。なに言ってんだこの人。

「あら、言っちゃダメだった? ごめんなさい」

 わざとらしい。悪魔め。

 恐る恐る彼女に振り返ったら、彼女は目を細めてうふふ、と笑った。それがまたとびきり可愛くて、こっちは小悪魔かよと思わず視線を逸らす。

「まぁ……とにかく、二宮はそのお嬢さんを送り届けて、それから一旦寮に戻れ。それで、どうするかは自分で判断しろ。どうしてもと言うなら署に出てくるのを止めないし、おまえの意志に任せる」主任が話を戻した。

「大丈夫です。彼女を送ったら、その足で署に向かいます」

「いいのね」と警部。

「はい、平気です」

「あ、あの、あの――!」

 彼女が声を上げた。みんな驚いて振り返る。

「……あの、私、一人で帰れます。表通りでタクシー拾ったらいいし、全然大丈夫です」そう言うと彼女は警部を見た。「だから、二宮さんを寮に帰らせてあげてください。もうすぐそこなんだし」

「奈那ちゃん――」

「みなさん、とっても大事なお話なさってるのは分かってるんですけど、二宮さんも、ずっと大丈夫って言ってるけど、絶対そんなことないと思うんです。今日はお昼から一緒にいて、顔色があんまり良くないし、ときどきふらっとするし、だいいち夜勤明けで眠いはずだし」

「それは良くないわね」と警部は頷いた。

「いや、大丈夫です」と首を振った。

「また。そんなことないでしょ?」と彼女は食い下がった。見ると、少し怒っている。「さっきだって、あの犯人に殴られて怪我したんだよ――!」

「そうなの?」警部が目を見開いた。

「あ、いや、かすり傷です」

「かすり傷じゃないよ! あの男に鉄の棒で殴られて、倒れたんだから!」涙声になっていた。

「二宮くん、どうなの? 彼女が言ってることは本当なの?」と警部。

「……本当です」

「だったら、今日は帰りなさい。それで明日、病院に行くのよ。具合が良くないんだったら夜中に救急車を呼んでもいいから」

「でも――」

「二宮、無理することないぞ。とりあえず今日は帰ったらどうだ。明日は休みなんだし、警部のおっしゃるように医者に行け。それからどうするかはおまえの自由だ」と主任も言い出した。

「嫌です」と、こっちもつい意地になる。

「二宮くん、これは命令よ」

 警部がぴしゃりと言った。「帰りなさい。彼女はPC(パトカーの略)で送らせるから」

「警部……」

「警察も働き方改革を実践すべきだって、昨日あなたは言ったわよね。わたしのような、いずれ上へ行く人間が率先してやるべきだと。だからもう一度言う、これはあなたの上司であるわたしの命令よ。二宮巡査、今日は帰りなさい」

 ここでそれを言われると、返す言葉がない。

「……分かりました」

 観念し、じゃあ彼女を送ってもらうようパトカーのそばにいる制服警官に頼みに行こうかと思ったところで、彼女がぽつりと言った。

「……偉い人なんだ」

「えっ?」

 振り返ると、彼女は警部を見て瞳を輝かせていた。

「偉い人なんですね。そうか、警部って呼ばれてらしたから」

「あ、まぁ……ね」警部は曖昧に答えた。「肩書き上はね」

「凄いなぁ、憧れちゃう。しかも美人だし」彼女はこちらを見てにこっと笑った。「二宮さん、素敵な上司の方で良かったね。傲慢なパワハラ上司とかじゃなくて」

 あはは、と造り笑いをして警部を見ると、そっちは明らかに苦笑いしている。主任もだ。

「……すいません。思ったことの九割は口に出して言う人なんで」

「いいじゃない。それで褒められてるんだから、わたしも嬉しいわ」

 そして警部は主任に「じゃ、行きましょうか」と声を掛け、こちらに振り返って、

「ご協力感謝します。気をつけてお帰りくださいね。二宮くん、お疲れさま」

 と言うと、お手本のようなビジネススマイルを残して車へと歩いて行った。


「――さ、じゃあきみも行こうか」

 彼女に振り返ってパトカーへと促した。彼女はうん、と頷くも、こっちの腕にぎゅっとしがみついてついてきた。

 二台のパトカーのうち制服警官だけが乗っている方に近づき、彼女を後部座席に乗せた。主任に聞いて事情を把握していた一人が「和田町ですね」と言ったので、そうです、よろしくお願いしますと頭を下げてから彼女に言った。

「じゃあね。今日は迷惑かけてゴメンね。いろいろ怖い思いをして気が動転してるだろうから、帰ったら戸締り忘れないでね」

「うん、二宮さんもちゃんと休んでね」

 分かった、と頷き、じゃあお願いしますと制服警官に言ったときだった。


「――おい、二宮ぁ――!」


 もう一台のパトカーから中川の声が言った。同乗していた制服警官が静かにしろ、と牽制する。どうやら意識を戻しているらしい。

 ゆっくりとそちらに近づき、後部座席を覗いた。「……何だよ」

「さっき訊いてきたよな。何でアキバに行ったのかって」

 中川はにやにや笑いながら言った。制服警官が黙れと言うのを、大丈夫ですと制して中川に訊いた。

「理由は何だ」

「あんたが俺を怒らせたからだよ」

 ――何だって? 

「……どういうことだ」ひどく悪い胸騒ぎがした。

「あんた、リハビリんときに話してくれたじゃねえか。アキバのメイドカフェに行ったことがあるって」


 ――え、言ったっけ? そう言えば、そんな話になったことがあったかも。でも、それがどうして――


「あんたが好きな場所なら、そこを壊してやろうと思ってさ」中川はひひっと笑った。「あんたに邪魔されたから、お互い様だ」


 ――アキバの彼女は、俺のせいで――? 冗談じゃない。


「この野郎――!」

 中川の胸倉に向かって飛びかかろうと、反射的に窓の中へ乗り出していた。窓側の制服警官が腕を掴んで強く言う。

「二宮さん、駄目です――!」

「おまえっ、なに言ってんだ――!」中川に言った。「ふざけんじゃねえ!」

 中川はまだへらへらと笑う。「誰でもいいから、殺ってやろうと思ってよぉ! おまえの好きな、メイドちゃんをよ!」

「ふざけんじゃねえ! ふざけんじゃねえ!」

 頭が完全に混乱していた。こいつを黙らせないと、自分がどうにかなりそうだった。

「二宮巡査! やめなさい!」

 後ろから羽交い絞めにされ、ドアから引きはがされた。もう一台のパトカーに乗っていた制服警官だ。

「離せっ! 離してくれ! あいつ、あいつぶっ殺してやる――!」

 もがいているとさらにもう一人加わって、ついに地面に押し倒された。中川の笑い声と、車の発車する音がして、スピードを上げて遠ざかっていった。


 ――あいつ、狂ってやがる。俺も狂いそうだ――


 抵抗するのをやめて腕を解放されると、倒れたまま天を仰いだ。相変わらず星が綺麗だ。ハアハアと息が荒くなる。動悸が止まらない。

「……落ち着け。あんなものは挑発だ。乗るんじゃない」制服警官の一人が言った。

「……すいません、大丈夫です。行ってください」涙声になっていた。「彼女を――送って――」


 嫌だ、と小さな声が聞こえた。


 微かに首を動かすと、彼女が立っていた。涙で顔をぐしゃぐしゃにして、強い眼差しでこっちを見ている。

 そしてそばに来ると跪き、手をぎゅっと掴んで言った。

「――嫌だ。今夜は何があったって、あなたを一人にしない」




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