第三十三話 そして、ついに限界


 結局、このまま寮に帰すのは危なっかしいと判断され、とりあえず署に連れ帰って傷の手当てをして、頭を冷やさせようと言うことになったらしく、パトカーに乗せられて署に戻ることになった。彼女にはタクシーで帰るようにと制服警官たちの説得が試みられたが、案の定頑として聞く耳を持たず、ついに彼らも根負けして、一緒に連れてきた。


 署に着くとまずは救護室に連れて行かれた。救護室には朝の八時から深夜十二時まで、管内の病院の医師が二交代で詰めている。夜勤の医師は帰り支度をしていたらしく、時間ギリギリで現れた泥だらけのスーツの刑事にあからさまな嫌悪感を表したが、手早く診察し、左頬と右肘の傷の手当てをしてくれた。そして帰り際に「だいぶ疲れているようだね。早く帰って休みなさい」と言い残して部屋を後にした。


 救護室を出ると垣内主任が廊下で待っていた。

「二宮――」

 主任は呆れ顔で、呟くように言った。

「……すいません」だらりと頭を下げる。

「……まぁいい。とにかく部屋に来い」

「中川は――」

「一応、病院で検査を受けさせてる。おまえが気絶させたんだろ?」

「ええ、そうです」そう言うと廊下を見回した。「……あの、彼女は?」

刑事課うえに来てもらってる。おまえと一緒じゃねえと帰らねえって言うから、待っててもらわなきゃしょうがねえだろ」

 はぁ、とため息をついた。

「ため息なんかつくなよ。可愛いコじゃねえか」主任は苦笑した。「なかなか強引だけど」

「すいません。早めに帰らせます」

「一人じゃ帰らねえんだろ? だいいち時間も遅いし」

「タクシー呼びますから。何とか説得します」

 そうか、と主任は言って、こっちの背中をぽんと叩いた。


 刑事課では一係のメンバーが揃っていた。もちろん山中課長と警部もいる。自分が姿を見せると、みんなにお手柄だったなと労われた。適当に相槌を打ちながら部屋を見渡したが、彼女はいなかった。

 すると警部が近づいて来て言った。

「栗原さんには、小会議室で待っててもらってるわ。ここじゃ落ち着かないだろうから」

「あっ、そうですか」

「あなたも落ち着いたら、一緒に帰りなさい」

「でも中川がここに――」

「それはわたしたちに任せて。何もかもしっかり喋らせるわ」

「だったらボクも」

「ダメよ。あなたがあの男を前に冷静でいられるか、さっきの現場での話を聞いたら信用できない」

「取り調べに立ち会わせてくれとは言いません。でも、せめて隣室から様子を見させてください」

 警部はじっとこちらを見つめていたが、やがてその視線を逸らし、少し俯いて考える様子を見せた。

「怪我も軽かったし、体調も問題ありません」

「……彼女はどうするの?」

「ちゃんと帰らせます。タクシーを呼びます」

 そう言うと身体を折って頭を下げた。「お願いします。あいつがどんな話をするのか、聞きたいんです。でないと俺――」

 頭がクラクラする。足にも力が入らない。だけどここは踏ん張らないと。

「どうかお願いします。さっきのことは、始末書でも何でも書きます。明日以降のことは、すべて仰るように従います」

 しばらくの沈黙。頭を下げているので分からなかったが、どうやら部屋にいる全員が黙っている。こちらの様子を窺っているのだろう。

「……まずは彼女を説得しなさい」警部は言った。「話はそれからよ」

「分かりました」

 上体を上げてから、もう一度警部に頭を下げた。


 小会議室に入ると、正面のパイプ椅子に座っていた彼女が立ち上がった。

「二宮さん……!」

「奈那ちゃん」

 ゆっくり近づいて行き、彼女の両手を取って俯いた。「ごめん、やっぱり帰ってくれるかな」

「どうして? やだ」彼女は何度も頭を振った。「二宮さんほっとけない」

「あ、だから違うんだ。ボクの体調が悪そうだから、少し休めって――階上うえに柔道や剣道の練習をする道場があってね、仮眠室が併設されてるんだ。そこで休んで来いって言われたから、もう大丈夫なんだよ」

 この際、嘘をつくしかない。

「本当に、休ませてもらえるの?」

「うん。さっき現場であの警部さんも言ってたろ。働き方改革だって」

「でも――」と彼女は考え込んだ。「でも、それで身体の方が良くなったとしても――あっそうだ、怪我は?」

「さっき手当てしてもらった」

 ほら、と右腕をぐるぐると回し、ほらこっちも、と頬の絆創膏を見せた。

「……分かった。でも仮に、身体の方は元気になったとしても、心の方はそうじゃないでしょ。さっき、あの犯人に酷いこと言われて、すごくショック受けて、取り乱すって言うか――いつもの二宮さんじゃなくなってた。だから私、今夜は一緒にいるって決めたのよ。一人にするの、すごく心配だから」

 真剣な眼差しに、心が揺れた。このまま彼女とここを出て、一緒に過ごせるのなら――そりゃ、そうしたいよ。だけど違う、今はそうじゃない。

「ありがとう。確かにさっきは、少し――いやずいぶん気が動転してしまってた。だけど今はもう、本当に大丈夫だから。心配かけてごめんね」

「お腹は空いてないの?」

 今度はそこか。母親みたいだな。

「全然。お蕎麦屋さんの料理が美味しかったから、たくさん食べたし」

 ぽんとお腹を叩いた。「ね。これ以上遅くなると、きみの方が心配だよ。明日、大学だろ?」

「明日は無いよ」

「そう。でもほら、とにかくもう遅いから。お互い今日は疲れたね。いろいろごめんね。ホントにありがとう。明日また連絡するよ」

 そこまで言うと、彼女もついに諦めたようだ。小さく頷くと、俯いて「分かった」と言った。

 タクシーは自分で呼ぶと言うので、任せて部屋を出た。本当はタクシーが到着するまで一緒にいて、帰っていくのを見送りたかったけれど、また彼女が心変わりするといけないし、自分の決心も揺らぎそうだったので、心残りだったがその場を離れた。


 会議室を出て刑事部屋に向かう角を曲がったところで、警部が待っていた。

「――説得できた?」警部は言った。

「ええ、なんとか」

「そう。だったら仕方ないわ、隣室から取り調べを見てもいいわよ」

「じゃあ――」

「中川が移送されてきたの。健康状態に異常はなかったようだし、すぐに始めるわよ。と言っても時間が時間だから、制限はあるけど」

「分かりました」

 腕時計を見ると、十一時四十分だった。もうすぐ日が変わる。

「第二取調室よ。急ぎなさい」

「警部は?」

「わたしは彼女を見送ってから行くわ。遅い時間だから、心配だし」

「……すいません、ありがとうございます」

 深く頭を下げた。今日もう何度目か分からない。だが素直にありがたかった。

「彼女、しっかりしてるわね」警部は微笑んだ。「あなたにはもったいないけど、あなたにお似合いよ」

「警部――」

「早く行きなさい」警部は追い払うように手を振った。

 もう一度ありがとうございますと言って、取調室へと向かった。


 

 十五分後、中川の取り調べが始まった。

 中川は饒舌だった。多くの犯罪者の例に漏れず、身勝手で独りよがりな理屈の上の犯行だったが、自身が関与した事件のほぼ全部を自白した。


 それぞれの事案について整理すると、こんな感じだ。


 一.動機に関わる出来ごと


 病院長の娘と結婚して一年を迎えようという昨年五月頃。そろそろ跡継ぎをとの声が妻やその両親を始め周囲から上がり始めた。しかしなかなか妊娠せず、夫婦で検査を受けた結果、中川に原因があることが判明した。治療を始めるが思うようにはいかず、妻からのプレッシャーが増大していく。もともとの婚家先との様々な考え方や感覚の違いがストレスとして存在していたところに、妊活のストレスが加わった。


 二.遠藤清花さんへのストーカー事案


 妊活をはじめ婚家先からのさまざまなストレスから逃れたい一心で、昨夏の終わりごろから、妻が夜勤で不在の夜に元交際相手の遠藤清花に復縁(あくまで浮気心で)を目的に近づいたが、当然ながら相手にされなかった。遠藤さんが穏便に済ませようとしていたこともあり、やがてその行動は徐々にストーカー化していく。さらに職場ではパワハラ行為も行うようになる。だがそれが職員たちのあいだで問題視されるようになったため、妻に伝わるのを恐れて追い詰められ、ますますストレスを感じるようになる(中川は『悶々とし、むしゃくしゃもした』と表現した)。そこで中川は別の方法で憂さを晴らすことを思いつく。それが通り魔事件である。ただしそれによって遠藤さんへのストーカー行為がんだわけではなかった。


 三.連続通り魔事案

 

 最初はただの偶然だった。昨年秋、遠藤清花の担当する患者がリハビリに訪れた際、親戚の男性を同行させていた。その男性を関内駅でたまたま見かけ、顔を覚えていた中川は後日、前回と同じ時刻に男性を駅で待ち伏せ、尾行の末に用意していた凶器で襲った。しかしこの一件目は失敗に終わる。中川はそれ以降、自分で相手にも‟武器”を用意し、勝負を挑む。理由は『自分が強いことを証明したかった』と言うことだが、結果は今夜のも含めて二勝四敗の負け越しだ。

 二件目は遠藤さんのマンションの上階に住む女性の父親だ。そう、新横浜署の坂下巡査部長の報告にあった、あの女性である。つまりあの不審人物はやはり中川だった。女性は自分の部屋が監視されていると思っていたが、遠藤さんの監視が目的で、中川がその後もマンションを訪れた際、エレベーター前で娘の部屋に泊まり込んでいた女性の父親と遭遇している。そして後日、今度は襲う目的で父親を尾行し、その結果、全治二週間の怪我を負わせた。初勝利に嬉々として現場からウイニングランする様子を、工務店の社長に車の中から目撃されたのはこのときだ。

 以降、三件目は遠藤さんと仲の良かった製薬会社の担当の後輩、四件目は遠藤さんの大学の同期の弟、五件目は遠藤さんが行きつけにしている美容室の担当者の客と、遠藤さんの直接の関係者ではなく、関係の中にいる人物だった(昨夜の嶋田主任の指摘通りである)。それをどうやって調べ上げたのかは今夜の取り調べでは訊き出せなかったが、中川がかなり粘着質な人間性であることを考えると、十分な下調べの上での犯行であると推察出来た。おそらくはあのブログの取材先の変化とも何らかのリンクが予想できる。

 

 四.秋葉原の女性襲撃事案~今夜の襲撃


 犯行動機は、今夜逮捕した現場で中川が言ったとおりだった。犯行当夜に駐車場で担当患者である刑事――つまり俺だ――からの警告を受けた中川は、その足で秋葉原へと車を走らせた。以前リハビリの際に聞いたメイドカフェの入っているビルの名前を憶えていた中川はそこへ向かい、ちょうど出てきた村上ミキさんを尾行して、彼女が友だちと食事をしたあとに別れるのを狙って犯行に及んだ。これであの生意気な警官を絶望の底に落としてやれる、と喜んだらしい。

 ところが、今朝になって遠藤さんが休職の報告に職場を訪れた。少し前から所長と話がついていたらしく、それを知らなかった中川は遠藤さんがリハビリセンターを出て行くと大急ぎで後を追った。その際、追いかけながら遠藤さんに電話をしようと思ったが、慌てるあまり職場にスマホを置いたままだったことに気付いてさらに焦ったと話した。(今朝、道場で所在確認したときに例の地図が職場を示していたのはこのせいだった)

 すると遠藤さんは山下署を訪れた。しばらく張り込んでいると彼女が庁舎から刑事と一緒に出てきた。またあいつだ、と思ったという。そして施設に戻って早退を届けるとここへ戻ってきて、それから一日中、ずっとこちらの行動を監視していたそうだ。襲うタイミングを見計らっていたのだ。驚異的な執念だ。


 ちなみに、中川が凶器に使用していた鉄パイプに赤い布が巻かれていた件だが、有名なSF映画に登場する武器の中で、悪役に分類される人物が使用していた剣が放つ光線の色が赤で、それを模したのだそうだ。そんなの知るか。



 こうして、二時間あまりの取り調べが終わった。取り調べを担った警部と垣内主任は、中川の歪んだ精神と遠藤さんへの執拗なこだわり、そして犯行への執念をこれでもかとぶつけられて疲弊し切っていた。その一方、中川は楽しんでいるように見えた。隣室のマジックミラー越しにその様子をずっと見せつけられた自分は、目の前の凶悪犯と、リハビリでの爽やかで優秀な理学療法士の姿とが違いすぎて、彼がどこでどう間違えたのかがまるで理解できずにいた。そして腹立たしさとも驚きとも違う、中川の望み通りの絶望と落胆の底なし沼へ堕ち、そこへ秋葉原の被害者の村上さんに対する申し訳なさが襲ってきて、すっかり打ちひしがれてしまった。


 ――村上さんに、なんて言って謝れば――


 取り調べが終わって中川がいなくなったあとも隣室を出ることができず、マジックミラーの前の椅子で項垂れていると、警部が入って来た。

「もう二時よ」警部はドアの前に立ったまま言った。「とにかく、今日は帰りなさい。タクシーを呼んだから」

「……分かりました」

「明日のことは、あなたの判断を尊重するわ」

「ありがとうございます」

 そう言いながらも立ち上がれないでいると、警部はドアを開け、「お疲れさま」と言い残して出て行った。



 まるでゾンビのように引きずる足で部屋を出て、誰にも挨拶せずにそのまま庁舎の玄関に向かった。アーチ形のエントランスをくぐり、階段を下りたところで、すぐ右側の駐車スペースに一台のタクシーがハザードランプを点滅させて停まっているのが目に入った。

 近づいて行くとドアが開いたので、身体を屈めて乗り込もうとした。すると――


 後部座席の奥に、彼女が座っていた。


「奈那ちゃん――」さすがに予想外だった。「どうして――」

「……警部さんがね、待ってていいって」

「ど、どういうこと……?」

「とにかく乗って。早く帰ろう」

 彼女に手を引かれ、言われるがままに隣に座った。ドアが閉まり、タクシーは発車した。


 ――待ってていいって、警部が言った? 結局、あのあと帰らなかったってことか。あのとき警部は、自分が彼女を見送ると言ったが、それはつまり、最初から彼女の意向を受け入れるつもりでいたということか――。


「待ってたんだ。こんな時間まで」

「うん。だって私、言ったよね。二宮さんを一人に出来ないって」

「警部はそれでいいって言ったんだね」

「そう。警部さん、奈那の気持ちはよく解るって言ってくれたよ。だから、待てるのなら待ってなさいって」

「でも、もう二時だよ。ひどい時間だ」思わず笑った。なんてこった。

「そうだよ。お化粧ボロボロだよ」と彼女も笑う。


 彼女と繋いだ手をじっと見つめた。ここまでずっとピンと張りつめて、ガチガチに固くなっていた神経と心と肉体を、その手の温もりが溶かしていくようだった。車の振動で少し眠くなり、瞼を閉じた。車内の音が遠くなって、同時に意識も遠のく。それでもすぐに眠りに落ちることはなかったが、とにかく身体が休みたがっているのが分かった。


「……だったら、まずはきみのマンションに向かわなきゃ」

 目を閉じたまま言った。

「……うん。そうだね」

「それから、ボクの寮に回ってもらって――」


 急激に意識が薄れてきた。とてもじゃないが目を開けられない。彼女が降りたあとは自分一人だから、そのときは起きていなくちゃ。だから、今はちょっと、そう、ちょっとだけ眠らせて――


 そのまま、あとのことは意識にない。



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