【結】の章
第三十四話 優しい人たち
目が覚めて十秒でことの
顎の少し上まで覆っている掛け布団から甘い香りが漂ってくる。間違いない、ここは彼女の部屋で、今自分が寝ているのは彼女のベッドだ。
首を回してサイドテーブルに置いてあった自分の腕時計を見た。午後三時二十五分。ずいぶん長いこと眠ってしまった。
ゆっくりと起き上がった。あたりに彼女はいなかった。
ベッドから足を下ろし、腰掛ける姿勢でしばらくぼんやりと部屋の様子を眺めた。エアコンの暖房が効いていて、ベッドから対角線上の壁の隅っこでは加湿器が運転中だ。その隣に設えたステンレスラックには、上段に彼女が好きなゲームキャラクターのフィギュアがずらっと、中段はアクセサリーや化粧品がきれいに並べられたアクリルケースとCDスタンド。下段には彼女の専攻する知能情報学を中心としてさまざまなジャンルの学術書がぎっしり並んでいる。部屋の中央には、暖色系のキルト布団が掛かった正方形のこたつテーブル。その上にMP3プレイヤーと英会話の教材が置いてあった。視点を戻して、ベッドの足元側にもオーディオラックがあり、そこには40型のモニター、数種類のゲーム機、ゲームソフト、DVD。その隣には扉に姿見のついたワードローブが置いてあって、そこに自分の着ていたスーツのかかったハンガーが引っ掛けてあった。二十三歳の女性の部屋にしては少し色気が足りないような気もしたが、自分にとっては極めて好ましい光景が広がっていた。
腕時計を取り、はめながら立ち上がって部屋を出て、玄関脇にあるユーティリティルームと思われるドアの前に立った。
ノックしてみたが、返事はなかった。やはり出かけているらしい。外出の予定があったのだろうか。
失礼します、と一応声に出して言ってドアを開け、洗面台で顔を洗い、うがいをした。爽やかなミントカラーの幾何学模様があしらわれたタオルを使うのは何となく申し訳なかったので、部屋に戻って自分のジャケットのポケットにあるハンカチを取り出して拭いた。ハンカチはびしょびしょになった。
ベッドに戻って再び腰を下ろす。頭はすっきりしたけど、体はまだ少し重い。それと、かなり腹が減っていた。
腕時計と一緒に置いてあったスマホを取って、彼女にメッセージを送ろうとしたところで、電話の着信があった。警部からだ。
「……はい、もしもし」
《――おつかれさま。今どこ?》
「あっあの――」大きく肩で息を吐いた。「……彼女の部屋です」
《あら、それはお邪魔しちゃった》警部の声が少し明るくなった。《切るわ。急ぎではないから》
「いえ、大丈夫です。今、彼女いないんで」
《そう? じゃなるべく手短に》
警部は一呼吸置いて、静かに言った。《村上ミキさんの意識が戻ったわ》
「えっ」
《さっき神崎から連絡があったの。秋葉原署の》
「と、ということは――」
《ええ。もう大丈夫よ。危険は脱した》警部の声がさらに明るくなった。《医師やご家族の問いかけにも、ちゃんと反応してるそうだし》
「……良かった……」
心底ほっとした。無論、それで自分の過ちが軽くなるとは到底思っていないが。
《――だからね、二宮くん。あなたがこれからやるべきことは、悔いて落ち込むことではもうないわ。それから、謝罪も今はまだ必要ない。謝りたいのなら、それはずっと後でいい》
「でも――」
《あなたは警察官なのよ》警部はきっぱりと言った。《警察官の仕事をしなさい》
「……はい」
《乗り越えていくしかないのよ。後悔はこれからもきっとあるわ。それでも乗り越えて、それでまたきっと別の辛い思いをして。そうやって繰り返しながら、本物になっていくんだと思う、わたしたち》
――『懺悔と再生』だ。芹沢巡査部長が言っていた。
「……ご心配をおかけしてすいません」
《わたしはあなたの味方よ》警部は優しく言った。《出来るわよね? 明日からまた》
「……ありがとうございます。大丈夫です」
良かった、安心したわと警部は笑った。高飛車な警部をこんなに心配させて――しかも一昨日はあんなに酷いことを言ったのに――何とも申し訳なかった。
《あと、それから》警部はコホンと咳払いした。《明日の夜、あなた予定ある?》
「……明日ですか?」意外な問いかけにちょっと驚いた。「え、明日は普通に出勤して――」
《分かってるわよ。訊いてるのはそのあとのこと》
何故だか急に口調が素っ気なくなった。ちょっと怒っているみたいだ。俺はこの上、何をやらかしてしまったのか。
「と、特に何も。残業さえなければ」
《もちろんそこは不確実ね。でもとりあえず、空けておいて》
「……分かりました」何とも不安だった。「あの、何があるんですか」
《……彼がね。来てるの》
「えっ?」咄嗟には理解できなかった。
《……来てるのよ、今日の午後から横浜に》
「あ――」やっとわかった。「芹沢さんですか」
《そう。昨夜からの当直明けでね、そのまま明日までこっちに。私も今から会うんだけど、さっき連絡があってね。あなたに会いたいって言うから、明日の夕食を三人でどうかと思って》
「えっ、でもせっかくお二人で会える貴重な時間なのに?」
《別にいいわよ。明日私は休日だし》
警部は不満げだった。そりゃそうだろ。バレンタインデートも出来なかったのだから。
「あの、何だったらボクの方から断りましょうか? 連絡先知ってるんで」
《いいの。毎回ってわけではないんだし。疲れてるとは思うけど、相手してあげて。あなたの気晴らしにもなるだろうし》
「……はい。分かりました」
詳細は明日に、と言って警部は電話を切っていった。すぐに芹沢巡査部長に電話をかけた。
《うぃーおつかれっ》
またもう、
「どういうことですか」
《あ、聞いてくれた?》
「今聞きました。どうしてわざわざ?」
《いやぁ、この前から電話で話してたから、顔見たくなってよ》
「ボクの顔なんて見たってしょうがないでしょ」ため息が出た。「怒ってましたよ警部」
《何か言ってた?》
「直接的なことは言ってませんでしたけどね。声が怒ってました」
《まあそうだろうな》
笑っている。彼氏とはいえ、あの警部の怒りを笑い過ごすなんて、やっぱすげー余裕だな。
「……時間の確約はできませんよ。案件の事後処理がたっぷりあるので」
《分かってるよん。同業者だぜ?》
「ええ、そうでした。大先輩だよまったく」
巡査部長はあははと笑うと、すっと静かな口調で言った。《――遠藤さんのことも解決したのか》
「それが、大変な結末で――あとで警部に聞いてください」
《言わねえと思うよ。こっちから訊くわけにもいかねえし》
「あ、そうか」
《ま、とにかく明日》
「はい、では明日」
つくづく不思議な人だ。だけどやっぱりどうにもこうにも魅力に溢れている。
そのとき、玄関ドアが開いて彼女が帰ってきた。買い物に行っていたらしく、色とりどりのフルーツが描かれたエコバッグをいっぱいにして肩から下げている。こちらを認めると、エコバッグを廊下の床にどさっと置き、いつものようにポニーテールを揺らして部屋に入って来た。
「起きてて大丈夫?」そう言って隣に座った。
「うん、もう大丈夫」
「良かった……心配した。二宮さん、タクシーの中で眠っちゃって、着いてからいくら呼んでも起きないんだもの。運転手さんを拝み倒して、一緒にこの部屋まで連れてきてもらったのよ」彼女は言うと表情を緩めた。「はぁ。安心したぁ」
「運転手さんを部屋に入れたの?」
「え、なんでそこ引っかかるかなぁ」彼女は眉を歪めた。「だって、二宮さん起きないんだもん。そりゃ運転手さんだって困ってたよ。でも仕方ないじゃん。奈那が一人で担げるわけないし」
「そうだね、ごめんね。それに――きみのベッドを占領しちゃって」
「平気。私はこっちで寝たから」と彼女はこたつを指差した。「大学の友達とここで女子会することがあるの。そのときはみんなこたつで雑魚寝だよ」
そうなんだ、と頷いた。「実は、きみに会う前の三十時間くらい、ほとんど寝てなくて――」
「えっそうだったの?」彼女は両手で口元を覆った。
目を丸くしてこちらを見上げている彼女の様子に、思わず笑みがこぼれた。「そう。勤務が明けたあと――九時過ぎくらいに署の仮眠室で四十分ほどウトウトしただけ」
「だったら、そこからまた十六時間以上だものね。タクシーの中で意識失っちゃうまで」
「さすがにちょっと疲れが出たかな」
「ちょっとどころじゃないわ。そんなことしてたら身体が持たないよ」
彼女は言うと、とても不安そうな表情を浮かべた。「……大変だったね」
「……心配かけてごめん」
「ううん。私は何もしてない。出来なかった」彼女は俯いた。「二宮さん、すごく辛くて、しんどい思いをしてるのが分かってたのに」
「そんなことないよ。きみが一緒にいてくれて助かった。救われたよ」
そう言うと彼女に振り返り、頭を下げた。「ずいぶんと勝手なこと言ったね。ごめん」
彼女は頭を振った。「……ホントに大変なお仕事なんだね。奈那、もしかしたら軽く考えてたかも知れない。それで、いろいろ振り回してたかも。ごめんなさい」
「そんなことないよ。それに、今回はボクが勝手に無理をしたんだ」
「そうなの」
「うん――自分なりの意地って言うか――馬鹿げた意地だけど――」
そこでまさかの、と言うか恐れていた通りと言うか、腹がぐうーっ、と鳴った。
彼女はまた目を見開いて、こっちの腰元をみつめた。口角が上がって、目も笑っている。
「ごはん作るね。作るって言っても、お鍋だけど」
「……ごめんね。何もかも」
「ううん、平気。もう謝らないで」
そう言うと彼女は背筋を伸ばし、今度はきちんと笑顔になった。「それに、お鍋って一人じゃ滅多に食べないし、ちょうどいいかなって。すぐに支度するから待ってて。あれだったら、もう一度眠ってもいいからね」
「ありがとう」
そして、どういたしまして、と言って立ち上がろうとする彼女の腕を取った。彼女は驚いて振り返り、そのままゆっくりとまた腰を下ろした。それから俯いた。
少し頭を傾けて彼女の顔を覗き込んだ。目が合って、お互いしっかりと見つめ合った。
「――キス、しても……?」
そう問いかけると彼女は小さく頷いた。
ゆっくりと顔を寄せていくと彼女は少し顎を上げた。唇を合わせ、目を閉じた。
繋いでいた手を離し、彼女の腰に回して引き寄せた。すると彼女は両腕をこちらの首に回してきた。おそらくはOKのサイン。
そのままベッドに倒れ込んで、それでも一応確認する。「……いいの?」
「……うん」
彼女は言って、ポニーテールを解いた。
腹ペコだったし、まだ疲れもあったけど、とにかく彼女に触れていたかった。ひどい状況の中、ずっと離れずにそばにいてくれた彼女に、今もまた癒されたかった。
俺は勝手だな、と思いながら、それでも確かに彼女への愛しさを募らせて、肌を合わせる悦びに浸っていた。
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