第二十四話 大食い女王かくありき
『ラブドリーム2号店』はビルの地下一階にあり、表通りに大きな看板を出していた。
エレベーターを使って店を訪れると、すぐに二十代後半の女性が出てきて深々と頭を下げた。店長だという。そしてA4サイズの封筒を差し出して言った。
「こちらが、うちに来てくれている子たちの履歴書です」
やはりすでに秋葉原署から連絡が入っているらしい。
「拝見します」
警部が受け取ると、店長は首を振った。「いえ、そちらはコピーですので、どうぞお持ち帰りください」
「いいのですか?」
「はい。警察の方に協力するのは当たり前のことですから」
ありがとうございます、と警部は頭を下げた。「適切に扱いますので」
「どうぞよろしくお願いします」店長はまた丁寧に一礼した。
「今日は休業されるのですか?」
「当初は開けるつもりだったのですが。やはり従業員たちの動揺が激しくて。お客様も、おそらくは少ないだろうと思いましたので」
「そうでしょうね」と警部は頷いた。「では、店長さんにもお話を伺いたいのですが」
「あ――はい。ではこちらに」
そばのテーブル席に移動し、警部が店長の正面の席に着いた。自分は警部の隣に座ると、手帳を開いた。
「被害者の――
警部が話すのを聞きながら、店長の表情をじっと観察し、同時にその返答を手帳にメモした。些細な変化や違和感があれば見逃すまいと集中していたせいか、気づけば息を詰めていて、ときどきふっと意識が遠くなるような錯覚が襲ってきたが、今は弱音を吐いていられない。マロンちゃんがバイトに通う店と同じビルで働いていた女性が凶悪な事件の被害者になったという事実が、自分にとって明らかなストレスとなっているのを分かりながら、それでもこうして気負ってしまうのを止められなかった。
三十分後、メイドカフェを後にした。そこからすぐ近くの事件現場に足を運び、とりあえずの実況見分をしたあと、遅めの昼食を摂ることにした。なんだかんだでもう二時だった。
秋葉原駅から徒歩数分、JR線西側に建つ大きな複合型オフィスビルの一階にあるイタリアンレストランに入り、カウンター席に着いた。スタッフにランチタイムのラストオーダーまで三十分を切っていると知らされ、月替わりのランチプレートに決めるとスマホを開いた。
少し喉がイガイガしていたので、お冷を一口飲んだ。そして画面を見たまま、隣の席で穴のあくほどメニューを見つめている警部に言った。
「――いい加減に決めないと、スタッフさん困りますよ」
「え? うん、分かってるけど――どれも美味しそうで、迷っちゃうのよね」
この光景はすっかり慣れっこだったが、さすがに今は時間がない。
「何と何で迷ってるんです?」
「たくさん。スパゲティも食べたいし、ピザも惹かれる。ラザニアも――」
「馬鹿ですかあんた。友達とランチ会に来てるわけじゃないんだから」
顔を上げ、思わずきつく言った。「いろいろ試したきゃ、休日にでも出直してください」
「……分かったわよ」
警部は不満げに言ってメニューを閉じた。「前菜盛り合わせと燻製ポテサラ、ビスマルクピッツァ、食後にパンナコッタとエスプレッソ」
「……なるほど。馬鹿を継続するんですね」
「あら、これでも絞り込んだんだけど?」
「知らねーよっ」
カウンターの端に立つ女性スタッフに手を上げると、近づいてきた彼女に注文を伝えた。彼女がオーダーを復唱し、去っていくと警部に振り返って言った。
「――芹沢さんと食事に行ったときも、同じように食べるんですか」
「え? 特に変える必要ある?」
「……あぁはい、分かりました」巡査部長も大変だな。
「ところであなた、今日合流してから、ときどきそうやってスマホを開いて何を見てるの?」
「……中川の現在地です」隠しても無駄だと思ったので、素直に答えた。
「ふーん」警部は腕組みした。「いくら言っても無駄なようね」
「すいません、はい」この謝罪ももはや形骸化している。
「まあいいわ。それで? 中川は仕事を休んでどうしてるの」
「今朝は自宅近くの産婦人科に行ってました。奥さんが妊娠しているんじゃないですかね――」
声が掠れそうになったので、またお冷を飲んだ。「戻ってきて、今は自宅にいるようです」
「奥さんも仕事を休んでいるとしたら、簡単には身動き取れないでしょうね」
「……そうですね」ふうっと息を吐いた。
「どうしたの?」
「いや、実は昨夜ちょっと――やつに荒っぽく釘を刺したから、何かやらかさないかって気になってたんです」
「どういうこと?」
そこでまず警部の注文した前菜の盛り合わせとポテトサラダが運ばれてきた。警部は目を輝かせてそれらを眺めると、立ち去りかけたスタッフに取り皿を要求した。
「あなたも食べなさい」
「えっ、ボクはいいですよ。注文した料理にサラダも付いてるし」
「ダメよ。さっきから見てるとちょっと調子悪そうじゃない。今夜は当直なんだから、しっかりスタミナつけておきなさい」
「……ありがとうございます」ここは素直に従おう。
そして、届いた取り皿に前菜とポテサラを少しずつ取り分けながら、昨夜中川に警告した件について警部に報告した。
「――何なのその男」警部は吐き捨てた。「クズじゃん。クズの上にヤバいじゃん」
「ええ。それが分かった上で、ボクが不必要に刺激してしまったんじゃないかと心配になって――それで、今朝からやつの動向を探ろうとしてるんです」
「わたしの忠告を聞かなかったってわけね」
「すいません、つい――」
「いいわ。過ぎたことを悔やむのは今は時間の無駄」
警部はポテサラをひと口食べ、フォークを宙に浮かべたまま少し考えて言った。「……確かに、もしその男が心配してるようなヤバい人物だったとしたら、今までにも何かやらかしてるかも知れないわね。遠藤さんか、もしくは彼女の周囲に対して」
「ええ。だから今朝、彼女のマンションの周辺を――」
「あっそうか。あなた菊名まで行ってたわね」
「はい。一昨日の窓ガラスに投石した件も併せて、目撃証言が出てくればやつを挙げられるんじゃないかと思って。やつには今回は大目に見ると言いましたが、あの反応を見たら、そうも言ってられないような気がしてきたし」
「その方がいいかもしれないわ」
「……奥さんには気の毒ですけど。もし身籠っているとしたら、なおさら」
「それも自己責任ね」警部はにべもなく言った。「ただし生まれてくる子供には罪はない」
「もちろんですよ」ため息が出た。「……だから余計に気が滅入ってるんです」
「……そういう時間も無駄よ、今は」警部は言って微笑んだ。「あなたの優しいところね」
「誰だって思うでしょ、普通」
そう言って警部をじっと見た。
「わたし? そりゃ思うわよ」と肩をすくめた。「ただ、それで気が滅入ったりはしない」
そうだよな。黙って頷いた。するとそこへ残りの料理が来て、カウンターの上がいっぱいになった。
「――そうだわ、それで思い出した」
ピザを切り分けながら警部は言った。
「何をですか」
「今朝言ったでしょ。遠藤さんのマンション周辺のパトロール強化を、所轄の知り合いに頼んであるって」
「ああ、そういえば」
「このあと会いに行きましょう。それで、中川が過去に何かもめごとを起こしてないかも調べてもらえばいいわ」
「えっでも、このあとはメイドカフェの従業員をあたるって」
「もちろんそれもやる。だったら新横浜署には事前に連絡して、あらかじめ調べておいてもらえば時間短縮になるわ」警部はピザを頬張った。「うん、美味しい」
「……ボクの場合、五時には会社に出て、引継ぎしないといけないんですけど」
「いろんなことをいっぺんにできなきゃ、現場でなんかやっていけないわよ」
警部はぴしゃりと言った。「それが無理なら、最初から引き受けないことね」
「…………」
「チョコの中にSOSのメッセージが入ってたのを、知らずに受け取ったんだから仕方がないとでも?」
「そうは言ってません」こっちもきっぱりと言った。「それに、行かないとも言ってません」
「だったら黙り込まない。二の足を踏んでるのが透けて見えるのよ」
「分かりました。すいません」頭を下げ、すぐに上げた。「行きます。
「そうと決まったら、大急ぎで食べなきゃ」警部は料理に向き直った。「ゆっくり味わいたかったのに、残念。時間がない」
「……だから、頼みすぎなんですよいつも」
「いいから。あなたも手伝って」
警部はピザの一切れをこちらのパスタ皿に乗せてきた。
「え、無理ですよ」
「これくらいいけるでしょ」さらにもう一切れ。
「えっやめろよ、無理だって――」
思わず笑って、馴れ馴れしい口調になってしまった。「あっすいません」
「いいのよ、食事のときくらい」警部は穏やかな表情で微笑んだ。「やっと笑ったわね」
「……え、あ、はい」
「ちょっとしんどいみたいだけど、それで塞ぎこんでちゃ良くないわよ。思考もネガティブになる」
「……はい」
「……まさか本当に体調が悪いの? だったら病院に――」
「いえ、平気です。熱はありませんし、薬も飲んでますから」
「大丈夫なのね?」
「はい。大丈夫です」
「そうと来たら食べるのっ。男の子でしょ」警部は今度は愉しそうに笑った。「ほら、何ならあなたのパスタ、ちょっと手伝ってあげてもいいわよ」
「……結局それが狙いだったんだ」プレートを警部の前にずらした。「いいですよ、どうぞ」
「じゃ、遠慮なくぅ」
警部はうんと頷くと、ボンゴレスパゲティをフォークでくるくると巻き取って取り皿に移した。え、ちょっと取りすぎじゃね? と思ったが、ここはもう一切気にするのはよそう。大食い
年末からかれこれ二か月間手こずっている通り魔事件に、自分から首を突っ込んだ遠藤さんの件。ここへきてその両方がどうやら山場を迎えている。思ってもいないタイトな状況だが、警部の言う通り同時にこなせるようでなければ、現場では使い物にならないのかも知れない。
とにかく、警部の言う通りきっちり食べてエネルギーをチャージして、これから明日の朝までの長時間を乗り切らないと。
実に愉しそうに食事を満喫している警部を眺めながら、ピザの一切れを半分にたたんで口に突っ込んだ。
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