第三十一話 まさかの直接対決


「――美味しかったでしょ、あのお蕎麦」

 タクシーの後部座席で、さっき食べた板蕎麦の写真を見ながら彼女は言った。

「そうだね」

「他のお料理も美味しかったぁ」

 そう言うと彼女はスマホの画面をこちらに向けた。「ほら、この牡蠣天は特にヤバかったね」

「……うん」

 欠伸が出そうになっていたのを拳で口を押えながら我慢して画面を覗き、短く頷いた。

「どうしたの、気分悪い?」彼女ははっと目を見開いた。「たくさん食べ過ぎた? 奈那がいろいろ勧めすぎちゃったから」

「そんなことないよ」と笑顔を造った。

「……やっぱり、疲れちゃったんだね。ごめんなさい」

 彼女は俯いてスマホをバッグにしまった。

「謝ることないよ。その――満腹になってさすがにちょっとね、眠くなったのかな。ずっと寝てないから」

「そうよね。だから先に二宮さんの寮に向かってよかった」

「ごめんね、気を遣ってもらって」


 馬車道ばしゃみちにある店を出たのが九時過ぎで、帰りはタクシーでということになり、関内かんない駅前のタクシー乗り場に向かった。ちょうど一台だけ待機していたタクシーに乗り込むと、彼女がドライバーに「保土ヶ谷ほどがや経由で和田町」と言った。いや、遅くなるから彼女の家に先に回ろうと言ったが、彼女は、

「――二宮さん、夜勤明けでお疲れなのに、奈那があちこち振り回して付き合わせちゃったから、少しでも早く帰って」

 と言って譲らなかったので、お言葉に甘えてそうさせてもらうことにしたのだ。


 十分ほど走って保土ヶ谷の駅前を過ぎ、タクシーは旧街道に入った。ほどなくして寮の近くまで来たので、ドライバーに停めてくれるように頼んだ。

「――えっ、でもここじゃないでしょ」

 彼女は戸建ての住宅が並ぶ窓の外を見て言った。「前まで行ってもらおうよ。道、暗いし」

「大丈夫だよ」と笑った。「夜道を怖がってちゃ仕事にならないよ」

「でも、オバケが出るかもよ?」

 そう言うと彼女は両手をだらりと下げてこちらに突き出した。俗に言う幽霊のポーズだ。

「出るかよ、こんなとこで」彼女の手をぺしっと叩く。

「わっかんないよぉ?」そう言うと彼女はふふっと笑った。「ま、二宮さん霊感とか全然なさそうだけど」

「だろ。ここでいいよ、もうすぐそこだから」

 タクシーが道路の端に寄って停車し、ドアが開いた。そしてさっき彼女がスマホの写真に夢中になっているときにそっと用意しておいた五千円札を彼女に差し出した。

「えーっ、ダメダメぇ。それはさすがに受け取れない」彼女は激しく手を振った。

「いいよ。遠回りしてくれたんだから」

「だって、ゴハン代全部出してくれたんだよ? 散財させちゃったもん」

「大袈裟だな。それはきみにバイトを休ませてるのはボクだから、せめてもの補償indemnityだよ」

「でも――」

「いいから。ほら」彼女の手を取って紙幣を乗せた。「気をつけて帰ってね」

「……ありがとう。二宮さんもね」すると上目遣いでこちらを見た。「また会ってくれる?」

 そういう顔はズルいなあと思いながら、「もちろん」と答えていた。


 タクシーがUターンして去っていくのを見送り、ゆっくりと歩き出した。スーツの上着の内ポケットからスマホを取り出して画面の時刻表示を見ると九時四十五分だった。最後に僅かな睡眠をとってから十二時間。ちゃんと眠って目覚めてからは三十六時間も経っている。帰ったらすぐに寝よう。明日は非番だから、風呂は起きてからでいい。

 冬の星が美しい、澄み切った夜空を眺めながら歩いた。少し後ろの方で車のドアが閉まる音がして、誰かが走っているような足音がしたが、気にも留めずに数十メートル先の寮を目指した。


「――死ねぇっ!!!!!」


 突然、真後ろで男の叫び声がしたかと思うと、ぶん、と何かが風を切るような音がした。咄嗟に右腕を上げて頭を下げると、右肘に強い衝撃が走り、その勢いで前のめりに倒れた。左肩を庇って手をつくのを避けたため、顔から地面に叩きつけられた。

「ぐっ……!」

 右肘の痛みはさほどではなかったが、顔をぶつけたことで口の中が切れた。たちまち血の味が広がる。

 顔を上げて振り返ると、そばに男が立っていた。背中を街灯に照らされて顔は真っ暗で見えなかったが、ひっひっと息が漏れたような音がした。――笑ってやがる。

「……調子に乗ってんじゃねえぞ」

 男は言った。マスク越しの声だった。


 ――何だって。まさか。


「……ったく」

 ゆっくりと立ち上がった。追撃がくるかと思ったが、その気配はなかった。下を向いたまま相手に向き直り、左手でコートの汚れを払いながら言った。

「……なんでこんなとこにいるんだよ」

「へえ、俺が分かるのかい」

 男は言った。どうやら顔を隠しているらしい。

「知らねえと思うけど、実は俺、絶対音感の持ち主でね。耳がいいんだ。マスク越しでも分かるんだよ」


 そう言うとゆっくりと顔を上げて相手を見た。――やっぱり。


「あんたの声、三日に一度は聞いてるからさ。中川さん」

「そうだったんだ。だったらこんなの必要ないな」

 中川はマスクとサングラスを外し、脇に放り投げた。「見えにくかったからちょうどいいや」

 なるほど。やはり一昨日こいつを刺激し過ぎたようだ。今朝、遠藤さんが静岡に帰ったあとは、もう必要ないだろうと所在確認をやめてしまったのが大誤算だったな。

「どこからけて――」

「二宮さあぁん!!!!!」


 ――えっ、嘘だろ。やめて。空耳だよな?


 恐る恐る振り返ると、遠くから彼女が走って来るのが見えた。何で、どうして。

 目線を中川に移すと、やつも彼女を見ている。

「来るなぁっっっ!!!!!」

 大声で叫んだ。頼む、引き返してくれ。

 一瞬、彼女は立ち止まったが、すぐにまた一目散でこっちに向かってくる。そうだよな。この状況を見て引き返すような性格じゃないことは、この一週間あまりでじゅうぶん分かっている。

「あんたの女かい」中川は言った。

「答える義理はないだろ」ふんと笑ってやった。「相変わらず、人のプライバシーにずかずか踏み込んでくるよな。そういうのやめた方がいいぜ」

「性分でな」

 中川も鼻で笑うと、背中に手を回した。どうやらさっき殴りかかってきたときの凶器を後ろの腰に差しているらしい。まずい、彼女が近づいて来たら襲うつもりだ。

 中川が向きを変える前に、ダッシュして彼女の前方に回り込んだ。彼女はまた一瞬立ち止まり、すぐに「二宮さん!」と駆け寄ってくる。

「……帰ったんじゃなかったの?」小声で言った。

「タクシーの中から二宮さんが歩いてくの眺めてたら、直前ですれ違った車が二宮さんの手前で停まって、中からあの人が降りてきて」

 彼女は息を切らして言うと、中川を見た。

「一緒にタクシーに乗ってたのか」中川はにやにやして言った。

 彼女は憮然と頷いた。「気になってタクシー停めてもらって、ずっと見てたら、あの人、上着の下からを取り出して――」

「えっ――」


 まさか、そんな。


 ゆっくりと振り返ると、中川は背中に回した腕を前に出してきた。

 その手には、赤い布で巻かれた五、六十センチほどの鉄パイプのようなものが握られていた。

「おまえ……」

「遅ぇよ、気付くのが」中川は笑いながら言った。「それでも刑事かよ」

 正直、この二カ月間自分たちがずっと追っていた通り魔と、今や卑劣極まりないストーカーではあるものの優秀な担当理学療法士の中川が、どこでどんな風に結びつくのか、まるで気付けていなかった。そして、一昨日の犯行もまた――

「……なんで秋葉原まで行った」思わず訊いていた。

「そんなことより、この状況を打破することが先決じゃねえのか?」

 中川はまだにやにやしながら言った。いや、今は中川ではなくて通り魔か。

「……そうか、勝負するんだっけ」

「そういうこと」

 通り魔は満足げに頷いた。なんでわざわざこんなことをするのか訊きたかったが、こいつの言う通り、今はそういう状況じゃない。

「分かった。ちょっと待ってな」

 コートのポケットに入れたスマホを取り出してロックを外し、アドレス帳を開いて刑事課直通の番号を呼び出すと、後ろの彼女に呼びかけた。「――奈那ちゃん」

「え? あ、はい」彼女は大きく頷いた。

「ここに電話して、この状況を説明して。し終わったら、きみはここから離れて。タクシー拾い直して、まっすぐうちに帰るんだ」

 差し出したスマホを受け取って彼女は今度は短く頷き、じっと見上げてきた。「連絡はする。でもやだ、二宮さん残して帰れない」

「大丈夫だよ。ボクも一応刑事だし」

 そう言うと通り魔に一瞥をくれてふんと鼻を鳴らした。「あんなの一撃だ」

「えっ、ホント?」

「ホントだよ。なんでそこ疑うのさ」

 彼女のバカ正直な反応に、つい笑ってしまった。すると彼女も「あ、ゴメン」と笑う。

「おーい時間ねえぞおーっ!」通り魔が声を上げた。「連絡でも何でも、すりゃいいさ。どうせこいつの死体処理が必要だからな」

「えっ……」

 彼女は口元に手を当てた。少し瞳が潤んでいる。駄目だ、不安にさせてしまっている。

「大丈夫、絶対に負けないから。約束する」

「……うん。分かった」

 そう言うと彼女はこちらから少し離れ、スマホを操作して耳に当てた。

「さあ、やろうか」

 コートを脱いで背後のガードレールに掛けた。

「……何だその自信は」

 通り魔は言うとまた背中に腕を回し、同じような鉄パイプを取り出した。それには布は巻かれていなかった。

「二本も隠してちゃ、背中痛いだろ」と苦笑した。

「慣れだな」

 通り魔は得意げに言って、その鉄パイプをこちらに投げてきた。足元に転がって止まる。拾って、感触というか使い勝手のようなことを確かめた。長さも重さも、素振り用の短竹刀くらいか。ところがただの鉄の棒なので、しっかり握っていないとすっぽ抜けそうだ。あと、当たり前だが強く当てると大怪我をさせてしまう。

「これじゃなきゃダメか?」ダメ元で訊いてみた。

「あん?」通り魔は顔をしかめ、自分の鉄パイプを両手で握った。「こっちは渡さねえぞ」

「違うよ。これじゃやりにくいってこと。競技じゃないんだから、同じものでないとってことはないよな」

「……どうしようって言うんだ」

 不審そうに見てくる通り魔を目で牽制しながら、二軒先の空き地に立っている『分譲地・好評販売中』と書かれたのぼりの前まで行くと、それを土台から引き抜いた。布を外し、継ぎ足して一本にしてあった硬めのプラスチック製の棒を二本に分けると、普通の竹刀より少し短いくらいの長さになった。

「これにするよ」

「何でもいいわ。どっちにしたってボコボコにしてやっから」

「そう上手く行くかな」

 靴と靴下を脱いで、裸足になった。アスファルトの小石が痛かったが、靴よりも遥かに動きやすい。首と右肩をぐるっと回し、顔を背けて口の中に溜まった血を吐き出した。そしてプラスチック棒を両手で握り、通り魔にを向けて中段の構えを取った。

「……来いよ。やってやる」

「うぉりゃあぁ!」

 通り魔が叫び、鉄パイプを頭上に振りかざして向かってきた。一足一刀の間合いまで詰めたところで素早く踏み込んで返し胴を打ち込むと、相手はあっさり鉄パイプを落とし、一回転してふらついた。そこへ軽快に面を打つ。通り魔はぐるっと目を回し、大の字に倒れて気を失った。

「……なんだよ、手応えないな」

 プラスチック棒を捨て、二本の鉄パイプを拾って肩に担ぎ、通り魔の頭の先まで行って見下ろした。「冷やかしにもならねえ」

 そして靴のところに戻って穿き直そうとすると、

「――二宮さん!」

 と後ろから彼女が抱きついてきて、前につんのめりそうになった。

「うわ、ちょっと危ないよ」

「なに今の! めちゃくちゃかっこいいんだけど!」

「いや、そういうつもりじゃないから――」

「ハラハラした。あいつ、目が普通じゃなかったから――」

「……そうだったね」彼女に向き直り、両肩を掴んで顔を覗き込んだ。「不安にさせちゃったね。ごめん」

 ううん、と彼女は俯いて頭を振った。

「連絡してくれた?」

「うん、したよ。垣内って人が出て、すぐ向かうって」彼女は顔を上げた。「あ――」

 え、どうしたのと首を傾げると、彼女の手が伸びてきて、左の頬骨のあたりを触られた。

「擦りむいてる。血が出てるよ」

「大丈夫。かすり傷だよ」

 すると彼女はコートのポケットからハンカチを取り出し、傷に当ててくれた。また潤み始めた彼女の瞳をじっと見つめながら、その手に自分の手を添えた。

 ああ、キスしたいなぁと思ったけれど、この場は我慢するしかない。

 せめてこれくらいは、と彼女を少しのあいだ抱きしめて、それから倒れている通り魔のところへと向かった。


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