第三十話 ご褒美デート


 その店は水餃子が評判で、いつも行列のできている人気店だった。

 場所は中華街のメインストリートから一つ北、広東かんとん通りに面した小さな三階建てのビルで、すぐ近くに本店のある二号店だ。店の評価を星の数で表すあの有名ガイドブックにコスパの良さで掲載されたこともあり、実際、千円札が二、三枚もあれば腹いっぱいになる。味ももちろんハイレベルで、だからいつも満席に近かった。

 自分が最初に訪れたのは一年半ほど前、山下署に配属されてすぐの頃で、もちもちした食感で評判だった水餃子を食べたとき、その旨さに一瞬で虜になった。以来、署から徒歩一分という距離も手伝って、十日から週一のペースで通っている。つまりはすっかり常連だ。だからということもないのだろうが、混んでいないときは少しくらい長居していても文句を言われたことがなかった。

 署から目と鼻の先のこの店に結局は決めてしまったことに抵抗がなかったわけではなかったが、ここの美味しい餃子を彼女にも食べてもらいたいという気持ちの方がまさったのだ。


 行列に並んで入店できたのは十二時半だった。店員さんに顔を覚えられていて、笑顔で「一人だね」と言われたが、「いや、あとからもう一人」と答えると二階の窓際の席に案内された。豆苗炒めとエビチリ、烏龍茶を注文し、スマホを見ながら意識してゆっくり食べていると、彼女からメッセージが入った。

《――さっき帰ってきました(絵文字)あと三十分ほどで出られそう(絵文字)どこへ行ったらいいですか?(絵文字)》

 おつかれ、焦らなくていいよとメッセージを送り、地図のURLを貼り付けた。すぐに『了解』を意味するスタンプが送られてきて、そのあとには耳の垂れた子犬がなぜか黄色いおもちゃのアヒルと一緒に『やったー! 会える!』と喜んでいるスタンプ。

「……やべぇな、もう」

 思わず小声に出して言い、汗も出ていないのに額を拭った。


 一時間ほどして、もう近くまで来ているとのメッセージが入った。二階の窓際の席だと知らせ、しばらくして窓に顔を近付けて下の通りを見ていると、すぐ脇の小路から彼女が現れた。オフホワイトのダッフルコートに同色のマフラーを丸めて結び、右腕にバッグをかけてスマホを持っていた。そして上を見上げながら店の入口に近づくと、こちらを見つけて満面の笑顔になり、ちぎれんばかりに手を振った。釣られてこちらも手を上げた。

 ほどなく彼女がフロアに現れた。一目散に席までやってくると、「お待たせしてごめんなさい!」と勢いよく頭を下げた。後ろで髪をまとめていた細長いヘアピンが飛んで行きそうだった。

「だ、大丈夫だよ」と笑った。「寒かったね。ほっぺが真っ赤だ」

「そう? 駅からずっと走ってきたからかな」彼女はコートを脱ぎながら言った。

「ずっと?」

「うん、もう、全速力。足は遅いんだけど」と彼女は笑った。「早く逢いたくて」

 首を捻り、頭を掻いて俯いた。「――あの、それもういいよ。恥ずかしくって」

「どうして? ホントのことだし」

「それでもね。照れるから」そう言うと彼女に向けてメニューを開いた。「注文して。お腹空いてるだろ?」

「水餃子がお薦めなのよね――」

 そしてタイミングを見計らったようにお冷を持って近付いてきた店員さんに、「水餃子一つ。あとかに玉ありますか?」と訊いた。

 店員さんが頷くと、彼女はこちらに振り返って「頼んでいい?」と訊いてきた。

「もちろん。他にも好きなもの頼みなよ。小籠包も美味しいよ」

「うん、あとでまたね。ここの水餃子、ボリューム満点だって口コミにあったし」

 そして両手でお冷を持って一口飲み、こっちが飲んでいる烏龍茶を見つめた。

「それ、お茶?」

「うん。烏龍茶」

 そう言うとわざと意味深に笑って彼女を見つめた。「お酒じゃないよ」

「もう、飲まないしぃー」

 と彼女は笑って両手を頬に当てた。うわ、めちゃくちゃ可愛い。

 同じく烏龍茶を一つ、と彼女が注文して、店員さんが去っていくと、彼女は改めてこっちの顔ををじっと見つめ、それから目線をゆっくりと落とした。どうやらファッションチェックされているらしい。

「そのスーツ、素敵ね。似合ってる」――良かった。合格点なんだ。

「くたびれてるだろ。一晩中走り回ってたから」

「そんなことない。そういう、ちょっと着こなすのに難しそうな柄が似合うって、二宮さんがお洒落だからよ」彼女は言うと嬉しそうに頷いた。「もしかして好きでしょ、洋服」

「うん。実は割とね。大金はかけられないんだけど」

「スタイルもいいし」

「そんなことないよ。もうちょっと背が欲しい」と頭に手をやって笑った。

「え、ちょうどいいと思うけど。何センチ?」

「一七四」

「ほら。ちょうどいい」

「……それはきみがさ、俺のこと好きだから。美化してるんだよ」

「あー、得意になった」と彼女は笑って指差してきた。「俺って言ったし」

「だってそうなんでしょ?」

「うん、そう。大好きだもん」

 彼女は言ってふんと顎を上げ、いくぶん挑戦的な眼差しを向けてきた。「言わせたでしょ」

「……そんなことないよ」こっちも得意げに返す。

 彼女は肩をすくめ、うふふ、と笑った。「でもね、こればっかりは本心だから」

 ああ、眠らないで頑張った甲斐があった、と無関係な意味づけをして、今度はこちらが彼女の装いを眺めた。今日は髪をふんわりと崩した編み込みにし、サイドとうなじのあたりにおくれ毛を遊ばせていた。ヘアアクセサリーはパールで、ピアスとお揃いだ。オフホワイトのロングチュニックは目の細かなニットで、その裾から覗いているロング丈のプリーツスカートは光沢のあるしっかりとした生地だった。ブーツはチョコレート色のやや高めのヒール。実家から一度マンションに帰ったのは、このコーディネートのためだったのかと思うと嬉しくなってくる。

 注文した品が届いて、彼女が撮影するのを待ち、まずは水餃子を味わった。裏切らない確かな旨さに、彼女も感激した。

 あっという間に水餃子を平らげて、烏龍茶をごくごくと飲むと彼女は言った。

「――ね、実は今日、ちょっと寄ってほしいところがあるんですけど」

「いいよ。どこ?」

「赤レンガ倉庫にある雑貨のお店。可愛いトートバッグが入荷しててね、数量限定なの」

「なくなりそうなの? だったら早く行かなくちゃ」

「ううん、大丈夫だと思う。二日ほど前に入荷したばかりだから」

「取り置きとかは?」

「してない。しようかと思ったけど、一応は実際に見てみないとね」

 ほら、材質とか、と彼女は両手で拳を作って何かを引っ張る仕草をした。

「えっ、そんなにしっかり確かめるの。強く引っ張ったりして」

「強くは引っ張らないよー」ぷっと頬を膨らませた。「でもしっかり見る。バッグだもん。荷物入れるんだから」

「まあ、そうだね」

 彼女はうん、と頷いて、それからちょっと怒ったような眼差しを向けてきた。

「二宮さんってさぁ、ちょっとS?」

「えっどうして?」そんなこと、初めて言われた。

「だって、ちょいちょい奈那のことイジってくるじゃん」

 そうかな、と首を傾げると、そうだよ、と彼女は言った。

「それはさ、きみがいちいち可愛いからだよ」

「ええーっ。何だか言い訳っぽい」

 そう言いながらも、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「ほら、笑うともっと可愛いよ」

 彼女はひゃあっと言って頬を赤らめ、両手を添えた。そして今度は意味深に頷くと、少し前のめりになって言った。

「……完全にバカップルじゃない?」

「だね」

 二人で顔を見合わせて笑って、彼女は「小籠包食べようっと」と言って店員さんを呼んだ。

 しんどい夜勤も、寝不足も、警部との壁のことも、全部吹き飛ばしてくれる彼女の明るさに、ご褒美ってこういうことなんだろうなとしみじみ思った。


 店を出て、中華街はほとんど知らないと言う彼女に付き合ってブラブラと散策した。ブームのピークは過ぎたとは言えまだまだ人気のタピオカミルクティーを飲んだものの、彼女自身はそんなにハマらないと言った。

 それから赤レンガ倉庫まで歩いて向かった。あたりはすっかり暗くなり、気温も下がってきたが、そんなことはまるで気にならないほど心はずっと暖かかった。

 ただ、指先はちょっと冷たくなってきたかなと思ったら、見計らったかのように彼女がすっと手を繋いできた。

「冷たいね。大丈夫?」彼女が言った。

「えっ?」

「……実は、会ったときからちょっと気になってたんだけど……顔色があんまり良くない。疲れてる感じ」

「えっそうかな。平気だけど」強がりを言った。「夜勤明けだからね。いつもこんな感じなんだと思うよ」

「そうなの? だったらいいけど」彼女は小さく首を傾げた。「奈那が逢いたいなんて言ったから、二宮さんが無理してるんだったら嫌だから」

「そんなことない。大丈夫だよ」

 そう言って繋いだ手に力を入れた。そのままコートのポケットに入れ、彼女をちょっと自分に引き寄せる。彼女も笑ってもたれかかってきた。それをちょいと肘で突いて、彼女があーっ、と言う顔をするのを見てまた引き寄せる。

 いいなぁ、バカップル最高。バカップル万歳。


 赤レンガ倉庫に着いて、二階のインテリア雑貨の店に行き、彼女がお目当てのトートバッグを熱心に品定めするのを眺めた。しかし彼女は結局は購入はせず、代わりにトナカイだか何だか分からない動物をかたどったコースターのセットを買って、「ありがとう。付き合わせてごめんなさい」と申し訳なさそうに笑った。

 店の前の階段を降り、少し歩いたところで、通りすがりに彼女がアクセサリーショップのショウウインドウをちらっと覗いた。数歩歩きかけていたが、「入る?」と訊くと、「ちょっとだけいい?」と言うので、もちろんだよと言って戻った。

 彼女の興味を惹いたのは、小さなルビーとダイヤがあしらわれたハート形と、プラチナのリング形のセットのネックレスだった。ガラスに顔を近づけ、目を輝かせて眺めている彼女が付けたら似合いそうだなと思った。

「綺麗だね」

「うん。可愛い」

 そう言うと彼女は首を傾げて何かを凝視している。そしてため息混じりで、「……そうかぁ」と呟いた。

 ――なるほど。値段を見てたんだ。自分が買うには高いと思ったんだな。

 彼女の後ろから値札を覗き込む。税抜き二万四千円だった。確かに、学生には少し高いかな。

「プレゼントしようか?」

 気付いたら言っていた。

「えっ、なんで?」

 わざとらしい遠慮などでは決してなく、本当に分からないと言った口調で彼女は言った。

「きみに似合うと思うから」

「えっでも、そういうのは理由にならないでしょ」

「そうかな? 立派な根拠だと思うけど」

 彼女はなおも首を傾げている。まさか、本当に伝わってないのか?

 しばらくして彼女は言った。

「やっぱり違うと思う」神妙な顔だった。

「ボクからもらうのは迷惑?」

「ううん、そんなんじゃない。二宮さんがプレゼントしてくれるなら、奈那、何だって嬉しい。だけどね、それにはちゃんと理由がなきゃ。例えば誕生日とか、クリスマスとか、何かの記念日とか、難しい資格試験に合格したとか、卒業とか就職とか」

 最後の三つの理由でネックレスはちょっと違うだろと思いながら、彼女がさらに話すのを聞いた。

「可愛気ないこと言うなぁって、二宮さん思ってるでしょ。だけど、これって結構大事なことだと思う。前からずっと思ってたの。女子が男子に何かプレゼントされるのは割と当たり前で、似合うから、とか、こういうの着けて欲しいから、とか、買ってあげたいから、とかいう理由でも全然成立しますよって感じ、それ、おかしくない? いいのかなぁって。優しく見えて、その女子のこと本当に大切には思ってないって言うか、俺ってこんな太っ腹な感じなんだぜってアピりたいって言うか、自分の好みを押し付けてるだけの自己満って言うか。それって女子は本当に嬉しいのかな? って」

 ――え? 俺いま怒られてる? っつーか考え過ぎじゃないの?

「――だからね、二宮さん。奈那は今、このネックレスを二宮さんに買って欲しいとは思わないの。いつか、何かちゃんとした理由で、二宮さんからプレゼントをもらうことがあったら、そのときはすっごく喜ぶよ。どんなに高いものだって、絶対に遠慮しない」

「分かった」

 多少、いやまあまあの思い込みが感じられたが、ここまで完結した理論を展開されては反論の余地はなかった。

「ごめんなさい。勝手なことまくしたてちゃって。でも、ありがとう。嬉しかった」

 そう言ってにっこりと笑う彼女を見ながら、どんな些細なことに関しても、こんなにも自分の思いをはっきりと伝える女性をあまり見たことがないなと思った。警部ですら話題によっては意見を曖昧に流す場面がたまにだがある。学生と社会人の違いと言うより、やはり個々の性格の違いだろう。

「――あ、もう七時だ。ちょっとお腹空いてきた?」腕時計を見て彼女が言った。

「そうだね。軽くでいいから何か食べようか」

「えーっと、じゃあね、お蕎麦!」

「めずらしいね。女の子がディナーにお蕎麦って」

「あー、そういうのも偏見」人差し指を立てて彼女は言った。「美味しいお店知ってるんだから。ここからわりと近いの。行こ」

 しっかりと繋いだ手を少し強引に引っ張りながら、彼女はこちらに振り返って満足そうに目を細めた。ピンク色に染まった頬が、天井の証明に照らされてつるんと光っている。

 この子が好きだな、と改めて強く思った。可愛いからという上っ面な理由だけではない。一緒にいると、しんどいことや辛いことを忘れるのではなく、すべてひっくるめた上で前を向かせてくれるような、そんな力を感じられるからだ。

 同時に、自分のことを好きだとストレートに言ってくれる彼女に、それに応えられる自信がどうしても湧いてこない不安に襲われてしまっているのもまた事実だった。


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