第二十九話 未熟者の嘆息
車上狙いの被害状況と防犯カメラの映像を一箇所ずつ確認しながら機捜や地域課と連携して犯人の行方を追った。怪しい人物が逃げ込んだらしいとの情報を得てその場所に踏み込んだりもしてみたが、結局は見つけられず、このときはうまく逃げられてしまった。だがもちろん捜査は続く。そこそこ鮮明な映像が残っており、目撃者もいたのでおそらくそう手こずらないだろうと思われた。嶋田主任が三係なのでそのまま担当することになるみたいだ。
署に戻り、今夜起きた案件のとりあえずの報告書を作成してコーヒーを飲んだらもう五時を少し過ぎていた。今の時期だとあと一時間もすれば日が昇るだろう。昨日の朝起きたのは確か八時ごろだったので二十一時間か。頭痛が少し残ってはいたが、なぜだか眠気はあまり感じなかった。マロンちゃんと会うまでにどこかのタイミングで仮眠を取り、シャワーも浴びたかったが、それは夜が明けてからの状況次第だ。
やがて窓の外が少しずつ白んできて、車が通りを行き交う音も聞こえ始め、長かった夜がやっと明けた。
そろそろ引継書を書こうかと思いながらもう何杯目か分からないコーヒーを胃に流し込んでいると、通常勤務の捜査員たちがずいぶん早かったり少し早かったりと、思い思いの時間に出勤してきた。そして嶋田主任に続いて自分へ挨拶をしにやってくるのだが、そのほとんどから「疲れてる?」とか「体調悪いのか?」と訊かれた。ヤバい。疲労が相当顔に出てるんだな。
デスクの抽斗から歯磨き&洗顔セットとタオルを取り出し、部屋を出て洗面所に向かった。疲れすぎて暗示にかかりやすくなっているのか、足元もおぼつかなくなっているような気がしてくる。
洗面所のドアを開け、鏡に映った顔を見た。
なるほど、確かにひどい顔だった。著しく血色が悪い。肌もカサカサだ。ほぼ二十四時間、不眠不休であちこち駆けずり回っていたらこうなるのも無理はない。その間の移動距離はいったいどれくらいになるだろう。
冷たい水で顔を洗って、歯を磨いた。シェーバーを当て、とりあえずの汚れは落として部屋に戻った。
洗面所から刑事部屋へ続く廊下を曲がると、部屋の前で警部と
「あ――」
思わずはっきりと声に出して言ってしまった。こちらに気づいた警部も「あ」という表情をしている。
「……おはようございます」
「おはよう」
「早いですね」
「そうかしら」と警部は腕時計を見た。「少しだけど」
そう言ってドアノブを握った警部に、「あの、警部」と声を掛けて引き留めた。
警部はノブに手を掛けたまま、黙ってこちらに顔を向けた。視線は外している。
「……あの、昨日はすいませんでした」
「何が」感情のない声だった。
「警部に大変失礼なことを言いました」深く頭を下げた。「申し訳ありませんでした」
「わたしが言わせたのよね」
「いえ、違います」頭を下げたまま首を振った。「ボクが一方的に突っかかったんです。事件で駆けずり回って、勝手にイラついて」
「……それもまた、わたしのせいかもね」
「そんなことありません」
顔を上げた。予想外に警部は穏やかな表情だった。
「あの――」
「わたしもあなたに甘えていたのね。ごめんなさい」
そう言うと警部はノブを捻ってドアを開け、にこやかに笑った。「当直お疲れさま。今日はわたしに任せて。垣内主任に手伝ってもらうわ」
そして警部は部屋に入って行った。ドアは開いたままだったが、自分は後に続けず、その場に立ちすくんでしまった。
――自業自得だろ。俺が警部に壁を作らせたんだ。
「――おう二宮、お疲れ」
正面から垣内主任が出勤してきた。「昨夜は大忙しだったな」
「……おはようございます」
引きずるように歩きながら垣内主任のあとに続いた。
九時になってようやく解放された。肉体的にも精神的にも疲れ果てていたので、道場の仮眠室に向かった。寮に帰った方がぐっすり眠れるのは分かっていたが、気力がそこまで持たなかったのだ。
ワイシャツを脱ぎ捨て、冷たい布団に潜り込んだらすぐに眠りに落ちた。そして警部のことを悔いている短い夢を見た。いや、実際は夢なんかじゃなく、眠りながら頭の中で悔いていたのかも知れない。
やがて、枕元に置いたスマホが電話の着信音を鳴らした。休息を邪魔されたくなかったので放っておこうとしたが、耳元に届く音量が思った以上に大きく、結局は留守電に切り替わる直前で相手の確認もせずに出てしまった。
「……はい」
《――ああ、二宮。おまえ今どこにいる?》
同じ一係の刑事の声だった。ちくしょう、出なきゃよかった。
「……仮眠室です」
《そうか。あのな、遠藤さんって女性が来てるんだけど。どうする?》
――なんでだよ。勘弁してよ。なにがあったんだ?
「用件はおっしゃってますか」
《いや、特に聞いてない。何だか大きなキャリーバッグ持ってるぞ。どこか行くんじゃないか》
ご勝手にどうぞ、いややっぱり勝手にいなくなられては困る、とぼんやり頭に浮かべながら、それでも布団から出たくはなかった。しかしどうせ抵抗はできないのだろうなとすぐに諦め、電話に言った。
「……分かりました。今からそっちに戻ります。すいませんけど、少し待っててもらっていただけますか」
《了解》
電話を切って、画面の時刻表示を見た。九時五十五分だった。結局四十分ほどしか眠れていない。重い身体を起こして布団の上で胡坐をかき、膝の上にスマホを持った手を落とした。
――俺はいったい、何をしているんだろう――
そう言えば、中川は今日、どうしているのか。
スマホをだらだらと操作して例の地図を開き、中川の所在を確認する。リハビリ施設に居た。今日は出勤しているようだ。良かった、助かった。
布団の横で皺になっていたワイシャツを手繰り寄せ、羽織ってボタンを留めた。だらりと立ち上がって布団を片付け、仮眠室を出ると刑事部屋に戻った。
刑事部屋に着くと、遠藤さんが来客用ソファに所在なさげに腰掛けていた。近付いて行くとこちらに気付き、立ち上がって深くお辞儀をしてきた。
「すいません、朝早くから――」
いいえ、お待たせしましたと首を振って腰を下ろすように促し、自分も向かい側に座った。コーヒーはいかがですかと訊いたが、大丈夫ですと遠慮されたので用件を聞くことにした。
「――しばらく、実家へ帰ることにしました」
遠藤さんは静かに言った。大きなキャリーバッグはそのせいか。
「えっと――静岡でしたっけ」
「ええ。静岡市の東部。
「休暇を取られたんですか」
「いいえ。実は昨日付で――休職ということにしてもらいました」
「……そうなんですか」
自然にため息をついていた。何も悪くない彼女が、結局は逃げるような形になってしまうのが理不尽だなと思ったが、怪我までさせられているのだから意地を張ってもいられないだろう。
「職場はすんなり受け入れてくれましたか。中川の邪魔が入ったりとかは?」
「ありませんでした。施設長には他の職員さんたちから私が中川からパワハラのようなことを受けていると報告が上がったこともありましたから、深くは訊かれませんでした。むしろ有難かったんじゃないですか、厄介払いができて。ここへくる前に挨拶に行ったんですが、そんな感じでしたから」
遠藤さんはサバサバとした口調で言った。しかしそこには確かに悔しさが滲んでいた。
「親御さんには事情を?」
「いいえ、心配させたくないので」
そうですよね、と言って頷いた。するともう話すことがなくなった。
遠藤さんがちらりと腕時計に視線を送った。そろそろ帰りたいんだな。
「――二宮さんには、お世話になりました。お忙しいのに、無理難題を押し付けてしまってごめんなさい」遠藤さんは言った。締めの挨拶だ。
「いいえ。ボクの方こそお役に立てず申し訳ありません」と頭を下げた。「投石の件は、被害届を出していただければ捜査を続けますので」
ありがとうございます、と遠藤さんは笑顔で言うと立ち上がり、遠慮がちに周囲を見渡してデスクの警部を見つけると会釈した。警部も微笑を浮かべ、小さく頷いた。
刑事部屋を出て、署の玄関まで見送りに出た。遠藤さんはもう一度礼を言い、それではお元気でとにこやかに笑って帰って行った。その後姿を眺めながら、思いがけずこういう結果を迎えたけれど、自分は本当はどこまでやるべきだったのだろうと考えた。
――いろんな意味で、果てしなく未熟だな――
すべての面でもっと上手くやらなければ、と漠然とした反省をしながら、玄関ロビーを抜けてロッカールームに向かった。着替え用に保管してある下着とワイシャツをロッカーから取り出し、道場に戻ってシャワーを浴びた。熱い湯を浴びたおかげで目が覚めた。着替えと身支度を済ませ、自販機コーナーでコーヒーを買おうかと思ったが、この一晩でいったい何杯飲んだことかと考えてやめにした。それに、とにかく早くこの建物から出て行きたかった。
署を出て、駅に向かう通りに出たところでスマホを取り出し、ロックを解こうとすると電話の着信があったことの通知が来ていた。開いてみると、マロンちゃんからだった。まだずいぶん早い時間なのに何だろう。まさか、今日は都合が悪くなったとか言うのだけはやめてほしい。彼女に逢うことだけを心の支えに、この十八時間を頑張ったのだから。
留守番メッセージを聞いたが、「奈那です。また電話します」とだけしか残されていなかったので、ドキドキしながら折り返し掛けた。通りを渡り、有名な中華料理店の隣のタピオカドリンク屋の脇で立ち止まって呼び出し音を聞いた。
《――もしもし、二宮さん?》
明るい声だった。ちょっとほっとした。
「あ、ごめんね。出られなくって」
《ううん、大丈夫。お仕事中って分かってたから》
そう言うと彼女はさらに元気のいい声で、《そうだ、おはようございます!》と言った。
「あ、おはよう」つい口元が緩む。
《お仕事、終わりました?》
「うん、やっと終わった」
《お疲れさまでした。大丈夫だった? どこも怪我しなかった?》
「ええ? 大丈夫だよ」
《良かった。昨日からすごく気になって――私って心配性なのかな。こんなこと初めてよ》
わずか一分ほどのあいだで、冷え固まった心がみるみる解けてゆくのが分かった。もうちょっとで泣きそうだ。
「……あの、今日はどう? 逢えるかな?」
《もちろん! だから電話したの。昨日言ってた時間より早くても良くなって》
「えっそうなの?」
《あ……ダメ?》心細い声になる。
「まさか。嬉しいよ」
素直な彼女の反応に、こちらもついストレートに答えた。「あっでも……実家の方は大丈夫なの? せっかくお父さんに会いに帰ったのに」
《それがね。お父さん、今朝は早くから仕事に出ちゃったの。大きなお茶会のお菓子の注文が入ったとかで。だから私も、もう帰ろうかなって思って》
「そうなんだ」
《二宮さん、何時なら逢えますか?》
「何時でも。きみが決めた時間でいいよ」
《うーんと……今、十一時半だから……だったら、三時ではどうですか? 私、一度マンションに帰って着替えとかしたいんで》
「分かった。どこにする?」
《二宮さんは今、どこにいるの?》
「職場を出たところ。中華街のど真ん中だよ」
《あっ、じゃあ、どこかおすすめのお店で待ってて! 奈那、中華街は数回しか行ったことないから、誰か詳しい人に案内して欲しいなぁって思ってて――》
そこまで言ったところで、彼女がハァッ、と息を呑む音がした。――え、どうした?
《あっそうか! お仕事のあとで管轄区域……って言うの? そこに行くの嫌だったんだっけ》
そういえばそんなこと言ったっけ。ちゃんと覚えてくれてるんだ。けどそんなこと今はもうどうでもいい。
「構わないよ。ボクもお腹が空いてるから、中華は大歓迎だよ」
《ひゃー嬉しい! じゃ、大急ぎで帰って支度するから、お店が決まったらまた連絡くれますか?》
「大急ぎで帰らなくていいよ。ちゃんと待ってるから」笑いながら言った。「ゆっくり帰っておいで」
すると、五秒ほどの沈黙があってから、彼女は言った。
《……キュンとした》
「え、ええ?」――なんで?
《二宮さんズルい。そんなこと言いそうになさそうでありそうでなさそうなんだもの》
「えっどっち? って何が?」本当に分からなかった。
《んもうイジワルっ! じゃ、とにかくまたあとで!》
そう彼女が言って電話は切れた。
――何だか分からないけど、とにかくついさっきまでの憂鬱な気分とはいっぺんにオサラバだ。
さて、じゃあどの店にしようかと、スマホをポケットにしまいながら歩き出した。
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