最終話 一ヶ月後


 春がすっかり街を包んでいた。窓に降り注ぐ陽光は暖かく輝き、アパレルショップに並ぶ洋服はどれも明るくて軽やかだ。


 待ち合わせ場所のカフェで中煎り焙煎豆のハンドドリップコーヒーを味わっていると、彼女からメッセージが入った。予定より時間がかかり、今からこっちに向かうとのことだった。とは言え、彼女が今いるのはこことは駅を挟んで反対側の家電量販店だから、おそらく十分もかからないだろう。


 先月いっぱいで秋葉原のメイドカフェを辞めた彼女は、新しいバイト先を探していた。ひとまず大学の近所でカフェ店員の仕事を見つけたのだが、店側から提示されたシフトでは期待通りの収入が得られそうになく、実家からの援助に極力頼らずに生活するには心許ないということで、もう一つバイトを増やすことにしたのだ。今日はその面接だった。家電量販店のパソコン売場の店員で、言わば得意分野だし、勉強にもなると彼女は前向きだった。採用されるといいのだけど。


 ほどなくして彼女が現れた。面接帰りとあって、落ち着いた感じの装いだった。白のシャツブラウスにミント色のセミフレアのパンツを合わせ、オリーブ色のジャケットを手に持っている。寒色系のスカーフをチョーカー風にタイトに結び、よく見ると前回会ったときより少し髪が短くなっている。春らしく軽やかな印象が、見ているこちらの気分まで軽くしてくれた。

 いつものように、こちらを見つけると彼女はパタパタと手を振った。小走りで席まで来ると、にこにこ笑って向かいに座り、

「お待たせ。また走ってきたよ。やっぱり遅いんだけど」

 と言ってふうっと息を吐いた。

「だから、走らなくていいよ」

「だって――」

「早く逢いたいからだろ?」

 と、いつも彼女が言ってこっちを照れさせる台詞を先に言う。

 彼女は頷いて、それからまっすぐにこっちを見て嬉しそうに目を細める。「今日もオシャレだね」

「それ言わないでよ。プレッシャーになるから」

 と言いつつ、褒められたら嬉しい。ともにグレー系で濃淡を分けたジャケットとパンツにベージュの長Tを合わせたシンプルなコーディネートだったが、今日はコンタクトではなく、あえて流行りのクラシックスタイルの眼鏡を選んだのが良かったみたいだ。

はさぁ、佇まいに品があるんだよね」

 『瞬くん』がどうも言いにくいらしいのと(そうでもないと思うけど)、他の人は呼ばない自分だけの呼び方がしたいらしく(これまた恥ずかしい)、こう呼ばれている。

「いいから。ほら、注文して来なよ」

 彼女はうん、と頷いてこちらのカップを覗く。「なに飲んでるの?」

「ハンドドリップコーヒー。中煎り焙煎豆」

「ふうん。豆のことは奈那にはよく分からないかな」

「カウンターで店員さんに訊けばいいよ。教えてくれるから」

「しーくんは教えてくれないの?」くるりと瞳を動かす。

「だって、店員さんの方が詳しいだろ。プロなんだから」

 そう言って腕を組んで椅子の背もたれに身体を預けた。「奈那ちゃんだって、カフェでバイト始めたんだからちょっとは知っといた方がいいよ」

「あっそっか。そうだね」

 彼女はうんうんと頷くと、バッグからスマホを取り出して立ち上がった。「買って来る。どれが美味しいか、店員さんに訊くね」

「うん。そうしなよ」

 彼女はカウンターに向かいかけて、すぐに振り返った。「スマホ決済できるよね?」

「できるよ」

「ゆっくり飲んでる時間ある?」

「大丈夫だよ。まだ一時間はあるから」

「映画の時間、何時だった?」

「十二時半」

 やたら訊いてくるな。なんでだ?

「チケット、もう買ってあるんだっけ?」

「買ったよ、昨日ネットで。電話で言ったよね――」

「あとね、髪切ったよ。似合う?」

「――え? あ、うん、似合う」ああ、そうか。

「可愛くなった?」

「もとから可愛いよ。でも、もっと可愛くなった」

 彼女はここでにっこり笑った。「だったらね、それ早く言わなきゃ」

「そうだね。ごめん」

 満足気に頷いて、彼女は注文カウンターへと歩いて行った。

 うっかりしていた。女の子は、髪を切ったらまずはそのことに気づいて触れて欲しいんだよな。向こうはこっちの格好を褒めてくれたのに、言わないのはダメだ、ミスったな。相変わらず、会うとまずはベタベタなカップルの会話が展開されるのがお約束となっていたが、付き合いたてというのはたいていこんな感じなんだろうと思っていた。ひと通りのデートスポットに出かけて、その都度イチャコラして、美味しいものを食べて、場合によってはまで。それが楽しいのだけれど、それだけではない。彼女といることが自分のこれからにとって絶対的に必要で、彼女を守る、というより彼女との時間を守るために、自分がどうあるべきかを導いてくれる――表現が大袈裟ではあるが生き方の軸になるような――そんな気がするのだ。ただしこんなこと、聞かされた方は重くてドン引きだろうから彼女には言えないけれど。


 彼女が戻って来た。手にしたトレーにはシンプルなドーナツとホットラテが乗っていた。豆の質問は諦めたのかな。

 ハートのラテアートを嬉しそうに眺めてから一口飲むと、彼女はにこにこしながら言った。

「ね、バイトの面接。上手く行ったよ」

「え、じゃあもう採用?」

「うん。とりあえずはね、週二か三で入ってって」

「大丈夫なの? カフェの方と、大学と。結構タイトなんじゃないかな」

「大丈夫。カフェは週二回で、大学に行く日に合わせてあるでしょ。それでこっちに週三で入っても、残り二日の余裕があるし。しーくんのお休みに合わせられるよ」

 そう言うと彼女は両手でドーナツを持って、香りを嗅いでから一口食べた。

「でも、そのうち研究がもっと忙しくなるかも知れないよ――って言うか必ずそうなるよ」

「うん、きっとね。でも、バイトはどっちも一日四時間くらいだし、そこは頑張るよ。アキバに行くより全然近いし」

「身体壊さないようにしないとね」

「しーくんだって」

「え、俺?」自分を指差した。

「また寝ないで無理してるとかやだよ? 危ないこともやだからね」

「大丈夫だよ」と笑った。

「しーくんの『大丈夫』は信用できないよー。痩せ我慢だもん」ぷっと頬を膨らませる。「ギリギリ越えてもまだ我慢するんだからぁ」

「そんなことないよ。無茶したのはあのときだけだよ」

「だったらいいけど。お父さんもお母さんも、そこを心配してた」

「えっどういうこと?」――なんで急に両親が出てくる?

「奈那が付き合ってる人はどんな人って、訊かれたから、警察官なんだよって答えたら――」

「心配された。危険な仕事だって」

「……うん。お父さんもお母さんも、よく知らないから。一般的なイメージだけで」

「で、そんな男と付き合うのはやめろって?」

「そうは言われてない。立派な仕事だけど、奈那みたいな子は心配ばっかりしてなきゃならないんじゃないかって」

「心配ばかりしてるの?」

「してるよぉ。毎日、すごく心配」

 彼女は眉根を寄せて、ラテのカップに目線を落とした。「お父さんなんか、刑事やめて内勤になってもらえとか言ってさ。勝手なこと言ってるなって思ったけど、確かにそれだと少しは安心かなって」

「あるあるだよ。警察官の身内や関係者が、一度は考える」

「そうなの?」

「うん。だけど、内勤の仕事がしたくて警察官になった者はいないと思うよ。大切な仕事だけど」

「だよね。叶わぬ希望なんだ。ゴメン」

「謝る必要ないよ」

 コーヒーを飲み干すと、気になっていたことを訊いてみた。

「お父さんと話すようになったんだね」

「……うん。一応はね。二ヶ月近く経ったから、もういいかなって」

 彼女はバツが悪そうに笑った。「しーくんのことも、認めてるみたいだし」

「良かった。安心したよ」

 彼女のマンションで鉢合わせになってボコられたあと、彼女は父親に猛抗議したが、父親も相当怒っていて、あの男とはもう会うなと言ったらしい。だから彼女は父親に「お父さんとは、もう一生口を利かない」と宣言したそうだ。それ以降、意地の張り合いが続いていると聞かされて、こちらとしても何とも心苦しい日々を送っていたのだ。

「――奈那はね、しーくんがあの通り魔をやっつけたこと、お父さんやお母さんに話したくて仕方ないんだ」

 ラテのカップを両手で持って、彼女は楽しそうに言った。

「え、ダメだよ」

「分かってる。捜査情報ってやつでしょ。漏えいになるのよね」

「それもだけど、きみがそこに居合わせてたって聞いたら、ご両親は心配されるだろ」

「あっそうか。やっぱり会うなって言われちゃう」

「うん。それは困る」

「困る困る。――ま、困っても会うけどね」

 そう言うと彼女は得意げに笑ってこちらを見た。「そうじゃないと、しーくんが寂しがっちゃう」

「奈那ちゃんもだろ」

 うん、そうだよと彼女は頷いた。「ホントはずーっと一緒にいたいんだもん。ずっとしーくんにくっついてたい」

 いやぁ、また照れること言うんだ。もうダメだ、顔の筋肉が持たない、にやけ顔が抑えられない。

 左手で顔を覆って、指の間から彼女を見て言った。「……バカップル?」

「だね」

 彼女はあははと笑って、残りのドーナツをポイと口に入れた。


 いいなぁ、バカップル最高。バカップル万歳。


              

          

                             <了>

  



 ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係はありません。


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それ、ボクにはもったいないお言葉です みはる @ninninhttr

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