第九話 警部、情緒ガタガタ


 朝から警部の機嫌が悪い。昨日のうちに何かあったのは明らかで、それがプライベートでのことなのか、仕事でのことなのか、面と向かって問い質す余裕は自分にもまだなかった――警部とは逆の気分で。


 昨日はあれから結局、マロンちゃんに押し切られる形で彼女に付き合った。アキバが好きと言っていただけあって彼女もアニメやゲームが好きらしく、また大学で情報系の学部に籍を置き、院進が決まっているなど、自分と共通点も多かったので、つい興味を持ったのだ。もちろん、どうやら好意を持たれているという事実が気持ちの上で余裕を生み、振舞いの上で有利に働いていたのは言うまでもなかった。

 アキバではメイドカフェのスタッフに見つかるとマズいと彼女が言うので、横浜に戻って南幸みなみさいわいのゲームショップやパソコン専門店をうろうろと見て歩き、ラウンドワンでボウリングを2ゲームした。それからみなとみらいエリアに移動して、今度は女子らしい雑貨やアクセサリーの店でキャッキャッとはしゃぐ彼女をいくぶん引きながら眺め、最後はそこそこお洒落なイタリアン。まさに王道デートだ。帰りは港の夜景を背景にのんびり歩いて桜木町さくらぎちょうから電車に乗った。横浜駅で降り、相鉄そうてつ線に乗り換えると言う彼女を改札の手前で見送り、横須賀よこすか線のホームに着いたのは十時を回った頃だった。

 一応、SNSのアカウントは交換した。最初にアキバのカフェで確認されたきり、マロンちゃんはこちらの気持ちを訊いてくることは無かった。だからなのか、友だち追加のためのQRコードを表示して差し出すと、「いいんですか?」と表情を輝かせ、こちらの気が変わらないうちに、と思ったのか素早くコードを読み取ってすぐにハートのちりばめられたクマのスタンプとともにメッセージを送ってきた――『仲良くしてくださいネ。大スキ♡』と。


 もう、馬っ鹿みてえに可愛いじゃねえか!!! たまらん!!


「――いい加減、そのにやけ顔やめてくれる?」

「あ、え、はい?」

 我に返って振り返ると、一条警部が眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。

「仕事中に何の妄想?」

 素早く前に向き直り、黙ってかぶりを振った。

「気持ち悪いのよ」警部は吐き捨てた。「ま、だいたい想像はつくけど」

「いえ。何もないです」

「ウソ。昨日の休みにいいことあったんでしょ。マロンちゃん?」

 再び黙秘。たぶん瞬殺されるだろうけど。

「いいわ。またコンプラがどうのこうのって言われるのも面倒だし」

 あれ、食いついて来ないのか。らしくないな。

 すると警部は助手席のシートに背を預け、腕組みしてため息をついた。

「……いいわね二宮くんは。プライベートが充実してて」

 なるほど。やっぱり彼氏とまだもめてるんだな。

「……すいません」

「あら、認めるんだ」

「あーいや、違います違います」慌てて手を振った。

「いいわよ別に否定しなくても。その方が仕事にも身が入るだろうし――って、ぜんぜん入っとらんやないかーい!」バシンと肩を叩かれた。

「な、何ですか?!」驚いて急ブレーキを踏みそうになった。「どうしたんです?」

「いいの。スルーして」警部はまた腕を組んで目を閉じた。

「できませんって」

 赤信号に引っかかったので、サイドブレーキを引いて警部に向き直った。「芹沢さんと何か――」

「わー聞きたくないその名前」警部は腕を解いて両耳を塞いだ。「あんなチャラ男。今さら言ってもしょうがないけど」

 訊いた方がいいのか、訊かない方がいいのか。相変わらず面倒と言うかややこしいと言うか、要するに気を遣わせる人だ。それは自分だけかもしれないけれど。

「どっちがいいんですか」

「え?」

「いや、分かってますよ。本当はどっちとかじゃなくて、誰かに聞いてほしいんでしょ。ただそれがボクでいいのかって、そこはちょっと考えるって言うか、むしろ激しく躊躇するって言うか」

「……どうして?」

「だって、ボクは部下なわけだし」

 信号が青に変わったのでサイドブレーキを下ろした。「上司の――しかも女性の――なんて言うか、センシティブな話に首を突っ込むっていうのはね」

「あなたがそれ言う?」警部は笑った。

「もう、それは言いっこなしですって」

 釣られてちょっと笑った。そして警部に振り返って言った。「いつも恋バナする女友達にも話せてないんでしょ」

「それは……」警部は言葉を切り、そして小さく頷いた。

「ボクは男だから、どうしても芹沢さん寄りの意見を持ってしまうかも知れません。でもあの人みたいな立場になったことないしこの先も一生なれっこないから、その点では闇雲に肩を持つようなことはしませんよ」

「そんなことないわ。二宮くん今モテてるじゃない」

「いいですってそれは」

 まんざらでもなかったが、一応謙遜しておいた。「それに、前も言いましたけど、女きょうだいに挟まれて育ってますからね。少しは警部の気持ちに寄り添えるかも知れません」

「二宮くん……」

「あ、でも仕事中に話せないようなことなんだったら、また場を改めて聞きますけど。警部さえ良ければ」

 そう言って振り返って、えっと声を上げた。

 警部はその瞳を潤ませ、まっすぐにこっちを見つめて、今にもその堰が切られんばかりだった。唇も小刻みに震えている。

「えっちょちょちょっと警部警部警部。ダメ、ダメですよ」

 慌てて手を翳して、いや運転が優先だ、この交差点曲がるんだっけ、とプチパニックに陥りそうになる。

「だって――二宮くん優しいんだもの」

「やーそんなことない、俺、いえボクなんてぜんぜん、めちゃくちゃ冷たくって薄情ものです」

 駄目だ。ちょっと車停めよう。どこか適当な場所ないかな。

「あ、この先に確か教会がありましたよね。そこ行きましょう」

「……聞き込みは? アポ取ってるんでしょ?」警部は頼りなさげに言った。

「どーでもいいですよ、言うことコロコロ変えるおっさんのあやふやな目撃情報なんて。これで何回目ですか。後回しだそんなもん」

 やけくそ気味で言って、ハンドルを切った。


 警部の話はこうだった。半年くらい前から、そろそろ一人暮らしをしようと考えていて、両親も異存はないようだし、年末に彼氏に会ったときに決心した。それで年明けぐらいから物件を探しているのだが、なかなかこれという部屋に巡り合えないでいる。いろいろと迷って彼氏に相談するのだが、今ひとつ乗ってくれない。相変わらず仕事は忙しいようで、そこは理解しているからメールを送るのだけれど、既読にはなるもののリアクションはゼロ。たまに電話が繋がったと思ったら、物件にいちいち細かい難癖をつけてくる。だったらどんな物件ならいいのと訊くと、そんなこと俺の言えた義理でもねえ、と一蹴。それどころか最近は、そんなに決められないのなら、部屋探しは一旦中止して、春先の転居シーズンに改めて探した方が物件も多く出回るんじゃないかと言い出した。明らかに面倒臭がっているのが分かって、腹が立ったのでもういいと言って電話を切ったのだが、それっきり五日間、何の連絡もなし。そうこうするうちに今月に入り、バレンタインが近づいてきたので、会うことを考えてくれてるのかなと思って期待しながら連絡を待っていた。ところがやはり何も言ってこない。やがてバレンタインが来て、何もないまま終わり、ついに昨日、しびれを切らしてそれとなく探りのメールを入れると、

『え、今さらチョコなんていらねーよ。アホみたいに届いたんだし。場合によっちゃゴミ箱行きだ』

との一文が返ってきたという。


「……わー、すごいこと言うんですね芹沢さん」

「でしょ。ありえないわ」

 礼拝堂の木製の椅子に座り、まっすぐ先の祭壇にある十字架を見つめて警部は言った。「最上級の神罰でも受ければいいのよ。そう思わない?」

「や、まぁ、いや……」

「わたしは別に、バレンタインだから会いたいとか、チョコレートを渡したいとか思ってるわけじゃないのよ。この前あなたにも言ったと思うけど、本来は好きな人へ秘めたる想いを伝える日だと思ってるし。チョコレートはその勇気と想いを具現化したものよ。マロンちゃんみたいに」

 警部は言うとニタッと笑った顔を向けてきた。は、何だよこの人。さっきまでべそかいてたくせに。どういうメンタルしてんだ。

「それで、何か返信したんですか」

「してない。呆れ返っちゃって、何ひとつ言う気が失せたわ」

「まあでも、実際たくさん貰ってるわけでしょ。しかもおそらく少年の頃からずっと。正直、有難味なんて皆無になっちゃってるんでしょうね」

「だからって、わたしにそういうこと言う?」

「いや、それは、はい」ここは逆らえない。

「でしょ。物件探しだって、もうちょっと親身になってくれても良さそうなものでしょ。彼がこっちに来たときのことを考えて部屋を借りようとしてるって部分もあるのよ。恩着せがましいことは言いたくないけど」

 そう言うと警部は下を向き、前の椅子の背面に施されたレリーフを指でなぞった。「……どうせわたしなんて、たまに会う相手としてはいいけど、その生活とか人生とかに関わる気なんて毛頭ないって存在なんじゃないかしら」

「大丈夫ですか警部。だいぶ情緒不安定に見受けられますけど」

「そう?……ごめんなさい」

「いや謝られても」

「そもそも、新幹線乗って会いに来なくても、向こうで充分間に合うんだものね。わざわざお金と時間を使ってそんな面倒なこと、やっぱり性に合わない、ってなってきたのよ、彼みたいな人は」

「彼みたいな?」

「自分のことを好きって言ってくれる相手に困らない、恵まれた人。毎日楽しく、チャラチャラ過ごそうと思えばそれができる人よ」

「芹沢さんはチャラくないですよ」

「え」

「そんなこと思ってる人じゃないです。警部も分かってるでしょ」

 ちょっと苛立っているのが自分でも分かった。なに馬鹿なこと言ってんだよと思ったのだ。あんたらそんなんじゃないだろ。ラブラブのくせに。――そうだ、思い出した。イチャコラしてる写真、愛車のダッシュボードに入れてたよな。

「二宮くん、ちょっと怒って――」

「とにかく」と警部を制して立ち上がった。「芹沢さんは警部のことを大切に思ってますよ。京都で二日間行動を共にしましたけど、チャラいところなんか――あー確かに少しありましたけど」

「え」

「いえ勘違いでした気にしないでください」やべー。「警部のことが心から好きなんだなって、ひしひしと伝わってきましたから、ホントに。気休めじゃありませんよ」

「……そうなの?」

「はい」強く頷いた。本当だったから。「物件探しの相談に乗ってくれないのは、男って大概そういうのが面倒臭いものですし、実際仕事が忙しかったのかもしれないし、だから、くよくよするのはやめましょうよ。警部らしくないですよ」

「二宮くん……」

 言うや否や、警部はわっと泣き出した。ポケットからハンカチを取り出し、顔を覆ってオイオイと嗚咽を漏らした。

「わーちょっと待ってくださいよ……!」慌てて座り直した。「泣かないで――」

「だってぇ~~~」


 ったく、何だよこの浮き沈みは。勘弁してくれ。メンタル絶叫マシンかよ。


 腕時計を見たら、約束の時間を一時間も過ぎていた。





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