第十話 理学療法士の憂鬱


 警部をどうにかなだめて車に押し込んで、アポを取っていた通り魔事件の目撃者に一時間半遅れで会いに行った。当然こっぴどく怒られた。相手は住宅関連の会社をいくつも経営する多忙な人物で、怒るのもごもっともだった。それでも、もし警部がなら、丁寧かつ潔く謝罪した上で、しつこく文句を言うこのオヤジを一刀両断していただろうなと思うと実に歯痒かった。

 この人物が目撃したのは二件目の事件で、もう二ヶ月近く前だ。仕事からの帰宅中、運転する車の中から犯行直後の犯人らしき人物が鉄道の高架下を走っているのを数秒間目撃したのだ。翌日ニュースで事件を知り、もしかして昨夜の人物が犯人かもと警察に連絡してきてくれた。大変ありがたく、極めて善良な市民の鑑だが、刑事課長がそう謝意を述べると、それ以来、薄れゆく記憶をぽろぽろと小出しにしては、こうしてたびたび呼びつけてくるようになった。しかも内容に今ひとつ信憑性がないときもある。もはやありがた迷惑だとも思ったが、なにしろ犯人の有力な手がかりが乏しい今、無視するわけにはいかなかった。

 今回もたらされた情報は、「犯人が持っていた凶器には、赤い布かビニールテープのようなものが巻かれていた」というものだった。え、たったそれだけ? おっさん警察からかってる? と思ったが、謹んで拝聴し、さっさとその場を辞した。


 署に戻り、課長に報告した。課長はそんなこったろうなと言って特に満足も不満も表さなかった。そしてこの事件以外にも一つ二つ軽めの案件を抱えていたので、その後はそれらの対応に当たり(もう警部のことはほっといた)、定時で切り上げた。帰り際、警部に「迷惑かけてごめんなさい」と謝られたが、元気出してくださいねとだけ言って、バレンタインデー以降初めてのリハビリに向かった。



 リハビリでは、相変わらず元気いっぱいで調子のいい、しかしやはり明快で的確な中川の指導を受けてメニューをこなした。このままだとひょっとすると春を待たずに完治ということも期待できると言われて素直に喜んだ。

 ただそうしながらも、例のメッセージカード付きのチョコレートを渡して来た遠藤と言う理学療法士のことはしっかりと注視していた。部屋の中央にある歩行訓練用の手すりの前で、松葉杖を持った高校生くらいの女の子の指導をしている。そう、今日の一番の目的は彼女だ。彼女にあのメッセージの真意を問い質そうと、昨日、マロンちゃんと別れて帰路につくあいだに決めたのだ。そしてその際、チョコを渡してきたときの彼女の様子を思い出した。こちらが受け取ったあとに少し会話を交わした際、一瞬だったが、彼女があたりを窺うように視線を泳がせたのだ。見間違いではない。あれは何だったのか。

 ――そうか。彼女はリハビリ施設の中で何らかのトラブルを抱えてて、そのことに対する『助けてください』だったんじゃないか。だから人目をはばかって、素早く渡す必要があったのだ。SOSの発信先に自分が選ばれたのは、警察官だと知っていたからだろう。

 これはやはり、知らん顔はできない――そう思った。

 チョコをもらった当日に抱いた、自分に対する何かの罠ではないかという疑いももちろん払拭されたわけではないが、それならそれで、その罠に嵌らないように十分に警戒すればよいことだ。

 とにかく、見過ごすことはできない。

 そしてそれは、単に自分が警察官だからではない。


 そう――俺はもう二度と、をしたくはないんだ。



 リハビリを終えて施設を出たところで、向かいにあるスターバックスに入った。表通りを見渡せるカウンター席に着き、コーヒーとBLTサンドを食べながらスマホを手に施設のドアを見張った。一時間半ほど待ったところで、彼女が出てきた。この前と似たような格好で、やはり、自分の出てきた施設を振り返りつつ速足で大通りを南西に歩いていく。駅に向かうのだなと思った。残りのコーヒーを流し込み、店を出た。誰かが彼女を追ってきていないか注意しながら、十五メートルほどの間隔を空けて尾行した。

 駅に着くとさらに少し距離を取ってホームに向かった。見失う危険も無いこともなかったが、万が一そうなれば自宅に先回りすればいいと思っていた。実はさっき待っているあいだに彼女の自宅住所は調査済みなのだ。そう、で。警部に怒られそうだが、この場合は事情が違う。

 幸い、ラッシュ時を過ぎた電車はそれほど混んでいなかったので、彼女の姿は常に確認できた。そして向こうはこっちに気付いていない。ま、一応尾行のプロだしな。


 乗り継ぎを含めて二十分ほどで電車を降りた彼女は、車中では少し緩んでいたようだった緊張感を再び身に纏わせ、改札を出た。このまま寄り道せずに自宅に向かうとなると静かな住宅街を十分ほど尾行して歩くことになる。それだと場合によっては自分が彼女を不安に陥れることになりかねない。ここはもう、接触を図った方がいいだろう。他に尾行はついて来ていない。――よし、行こう。

 階段を下りたところで、すぐ前の短い横断歩道に差し掛かっていた彼女に、大きく深呼吸してからできるだけ穏やかな口調を心掛けて声を掛けた。

「遠藤さん」

 案の定、彼女はびくっと体を跳ね上がらせたが、逃げようと走り出すようなことはなかった。立ち止まり、そのままゆっくりと足の向きをこちらに向けて、振り返りながら俯けていた顔を上げた。

「二宮さ……ん」

 さすがに驚きを隠せないようだった。大きく目を見開いて、パチパチと瞬きをする。「あ、あの――」

「助けに来ました」

 そう言ってジャケットの内ポケットから、先日渡されたチョコレートに付いていたメッセージカードを出して提示した。「どういうことか、話してもらえますか」

 ほっとしたのか、彼女ははぁっと大きくため息をつくと、こくんとひとつ頷いた。


 

 それからすぐそばの小さなコーヒーショップに入った。一番奥の席を選び、外から見えない方の椅子に彼女――遠藤清香さやかを座らせると、とりあえずコーヒーを一口飲み、少し世間話でもして彼女の緊張が解けるのを待とうと思った。

「――実はここ、割と馴染みのある場所なんです」

「このお店が、ですか?」

 遠藤さんは僅かに首を傾げ、遠慮がちに店内を見渡した。

「あ、いえ、この界隈のことです。姉が住んでて」

「そうなんですか」

「JR線の南側です――一丁目の外れ」

「私も一丁目です」

 知ってる。単身者用マンションが建ち並んでいる一角の、坂の上の三階建てだよな。そこの二階、二〇五号室。

「お姉さまは、ご結婚なさってらして?」

「はい。同い年の旦那と、二歳の女の子と三人暮らしです。共働きで、毎日が闘いだって言ってました」

「姪御さん、可愛いでしょうね」

「ええ、まあ。あまり会いませんけど」

 遠藤さんは、じゃ、会ったときはなおさらですねと言って穏やかに笑った。少し気持ちが和らいできたようだ。

「遠藤さんは、ここが地元ですか」

 違うと分かっていたが、あえて訊いた。パーソナリティーに関わる質問を受けて、虚偽を述べるようなら信用はできない。コーヒー代を置いてさっさと帰るまでだ。

「いえ、静岡です。大学進学でこっちに」

 正解(あたりまえ)。みどり区にあるキャンパスだっけ。大学の同期の彼女がそこに通ってて、確かその子は看護師になったんだった。

「ずっとあの病院に?」

「ええ。大学時代に実習でお世話になって、そのまま雇ってもらいました」

「じゃあもう、ベテランなんだ」

「えっ?」

 しまった、余計なことを。二十七歳と知っていたから、つい口が滑った。

「いや、新卒でずっとお勤めなんだったら、あの病院のことはよくご存じなんだろうなって。はは」

 うまくごまかせたかな。微妙だな。しかも何だよ最後の「はは」って。

「まぁ……そうですね」

 遠藤さんは困ったような微笑を浮かべて頷いた。そのまま俯いてカフェラテを飲む。

 あーもう、持たないな。ボロが出ないうちに本題に入ろう。

「それで――あのメッセージのことなんですけど――」

「はい」カップをテーブルに戻して両手を膝に置いた。神妙な顔つきをしていた。

「どういうことか、説明していただけますか。お役に立てるかどうか分かりませんけど」

「……すいません。いきなりあんな――」

「いえ、事情は分かりませんが、きっとボクの職業をご存知の上でのことだったと思いますので」

 そこまで言うとはっと気づいて、内ポケットから名刺入れを取り出して一枚抜き、彼女に向けてテーブルに置いた。「今、ここに勤務してます」

「刑事課――」そう呟くと彼女は顔を上げた。「刑事さん……?」

「見えないでしょ」いつものことだ。「交番の気のいいおまわりさんキャラ?」

「あ、いえ、そんな」

「まあ自分でもそう思います。何で刑事になれたのかなって。誰か他の優秀なやつと奇跡的に名前が同じで、間違えられたのかなってね」

 自虐的に笑っておいた。そして続けた。「仮にボクの手に負えないことだったとしても、代わりの対処法はきちんと考えます。その上でもちろん秘密は守りますよ。安心してください」

「ありがとうございます」

 遠藤さんはこくんと頷いた。実際安心したようだ。そして話し出した。

「実は――度を超えたつきまとい行為に遭ってるんです」

「なるほど」

 ストーカー事案か。程度によっちゃ重大事件に発展しかねない。

「それは、あの職場に関わる誰かから、ってことですか」

「えっ――分かるんですか?」

「この前の遠藤さんの様子から、何となく」

 やはりそうだったか。彼女は美人で優しそうだから同僚受けも良さそうだし、親切にされて勘違いする患者もいるだろう。

「相手は誰です?」

 遠藤さんは眉を歪めて視線を落とした。悔しそうに唇を噛み、やがてまるで不味いものを吐き出すかのように言った。

「中川さんです」

 さすがにそれは想像してなかった。マジか。な~か~が~わ~(怒)!

「詳しく話していただけますか――」


 これだから、爽やか体育会系イケメンってのは信用ならない。偏見だよ。悪いか。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る