第十一話 なんで俺が

 中川修二しゅうじという男は、極めて分かりやすいクズ野郎だった。

 年齢は三十歳。全然知らなかったが、実はあのリハビリ施設の副所長――つまりナンバー2の役職にあるそうだ。母体である総合病院内にもリハビリフロアがあったが、そこが入院患者専用なのに対して、あの施設は主に外来患者を対象としている。駅近にあるのもそのためだ。病院とは徒歩で十五分以上の距離があるためにそちらと同じ設備もあって、医師やレントゲン技師、看護師も数名ずつだが常駐している。当然事務系スタッフもそれなりの人数になる。その立派な施設のナンバー2になぜ弱冠三十歳の中川が就くことができているのか。確かに理学療法士としての技量は優れているが、遠藤さんによると有能なスタッフは他にもいるらしい。だったらなぜ――

 その疑問に遠藤さんは明快に答えてくれた。

「――病院長には一人娘さんがいらっしゃって、第一外科の医師です。そして彼はその女性ひとの夫で――婿養子なんです」

 ふうん。要するに、に乗ったラッキーボーイが義理の親の七光りで相応のポジションを与えられたってわけか……いや、それより――

「中川氏は既婚者なんですね」

「ええ。二年前に今の奥さんから猛アプローチを受けて。当時、彼女が手術を担当したあるVIP患者の術後のリハビリを担当したのが彼でした。そのときの指導が良かったようで、患者さんがずいぶんと彼を高く評価したそうです。それで、理香子りかこ先生――奥さんのことですけど――が彼に白羽の矢を立てたのです。ゆくゆくは病院長になる自分を、公私ともに支えるパートナーに、と」

「……なんか、一般的な恋愛結婚とは違った印象を受けますね。婿選び要素が大きいっていうか」

「医者の結婚なんてそんなものじゃないでしょうか。継がなければならない病院や医院がある場合は特に」

「だったら、相手もまた医者の方がいいんじゃないですか。理学療法士ももちろん難しい職業だとは思いますけど、その――なんて言うか」

「エリートじゃない」

「ええ、まあ……そんな感じ」目の前の彼女も同じ職業だったので、ちょっと言いにくかった。

「でもね、意外と女性の場合、そこはあまり気にならないかも知れません。男女が逆なら違うのかも知れないけれど」

「そうなのかな」

「ええ。自分に釣り合う相手よりも、好きな相手。理屈よりも感情が大事っていうか」

 そう言われて、警部のことが頭を過った。確かにそうだ。警部も、今ですらすでに二階級、そしてこの先どんどんその差が開いていくであろう、同業者とは名ばかりで実際はその違いがあまりにも大きい相手と付き合って、あんなに心を揺さぶられているじゃないか。冷静かつ合理的なはずのエリートが、部下の目の前で大粒の涙を流すなんて、感情そのものを持っていかれている証拠だ。釣り合う相手より、好きな相手。警部はああ見えて“女性の王道”を行っている。

 まあ、それはいいとして、話を戻そう。

「いずれにせよ、中川氏も異論はなかったから結婚した」

「ええ。一昨年の六月――ゴージャスなジューンブライドでした」

 そう言った遠藤さんの声に、ザラッとした棘のような、ささくれ立ってすさんだ怒りのようなものを感じて、ああきっとこの人にはその結婚を祝福できなかった暗い事情があるのだなと悟った。

 ということはつまり、これから聞く彼女の言い分にはそのあたりのバイアスがかかっていると思った方がいいかも――

「私は中川の――いわゆる元カノなんです」

「はい」

 そうだと思った。で、ゲスの中川は病院長令嬢に口説かれて乗り換えたってわけだ。調子が良くて単純そうなあの男なら二つ返事でOKしたんじゃないか。

「どのくらいお付き合いされてたんですか」

「一年半です」

「別れたのは――」

「一昨年の四月。彼が結婚するふた月ほど前です」

「原因はその院長の娘ですか」

「ええ、そうです……確かにその前から少しぎくしゃくし始めてはいましたけど、直接の原因はやはり彼が理香子先生から猛アタックを受けたからだと思います」

 それで間違いないだろうけど、バイアスがかかってるとしたら、鵜呑みにはできない。けどまあそこら辺はどっちだっていいかなと思った。こちらから訊いておいて悪いけど。

「そんな彼が、どうして今、あなたにつきまとい行為をしているんですか」

「分かりません。ただ――噂によると、やはり院長一族としてのプレッシャーに潰されそうだとか。婿養子の彼はすべてにおいてあまりにも違いすぎて、どうやら居場所がないらしいです」

 分かりきったことだろ。その覚悟もなしに、おいしいところだけ手に入れようなんて都合のいいこと考えてんじゃねーよ。

「彼の実家はどんな?」

「ごく普通のサラリーマン家庭です」

「日本人の大半がそうですけどね。まぁいいです、それで今さら元カノのあなたのところに未練がましく戻ってきたと?」

 そう言っていや、違うかなと思い直した。「というか、ストレスのはけ口を求めてるんですかね。離婚して元さやに戻ろうと思ってるわけでもなさそうだし、あなたをその――にしようと。身勝手だけど、ひょっとしてあなたが受け入れてくれるんじゃないかって馬鹿な期待もしてるんでしょうけど」

「……真意はよく分かりませんが」遠藤さんは眉根を寄せて首を捻った。

「具体的に、どんなことをされました?」

「仕事帰りに尾行されたり、家の前で待ち伏せされたりです。電話やメールも」

「ブロックしましたか」

「ええ、もちろんです。ただ、同じ職場で働いてますから、その立場を利用して、他のスタッフを経由して接触を図ろうとしてくることもあります。緊急の用で電話しても繋がらないから、連絡くれるように伝えてほしいって」

「するんですか?」

 遠藤さんは大きくかぶりを振った。ま、そりゃそうか。

「はっきりと伝えましたか。『迷惑だからやめてくれ』と」

「はい。最初にマンションの前で待たれてたときに。彼はそんなんじゃない、ただ話を聞いてもらいたいだけだと言いましたが、今さらどんな話だろうと私には受け入れ難いことだし、何も聞きたくないと言って追い返しました」

 そこまで言うと、遠藤さんは大きくため息をついた。「――そしたら、職場で嫌がらせをしてくるように」

 は。なんだよその古典的理不尽シチュエーション。しょうもなすぎて虚しくなるわ。

「具体的にはどういうことを?」

「リハビリの指導の仕方にいろいろ難癖を――患者さんの前で酷く罵られたこともあります。あとは、重要な業務連絡を私だけ教えてもらえなかったり、私個人のことで、でたらめを吹聴したり」

 つきまとい行為がセクハラだとして、加えてパワハラか。仕事ができて、盤石の地位も手に入れた人間にありがちなクズ設定ってやつ。

「職場のハラスメント対策の窓口に相談は?」

 と言って、すぐに無駄だと悟った。「……言っても駄目か」

「ええ。おそらく相手にされないだろうと。それどころか――」

「ヘタすりゃあなたの立場が危うくなる」

「かと思います」

 そう言って遠藤さんはため息をついた。「いっそ病院を辞めようかとも思ったんですけど、それだけで解決するとも思えなくて。職を失うことに対する不安もありますし」

「公的機関に相談するという方法もありますよ。労基とか法テラスとか」

「え? はぁ……」

 遠藤さんは少しがっかりしたように俯いた。はい、分かりますよ。彼女の相談にこちらが乗り気でなく、他へ丸投げしようとしているという認識なんだろう。

「もちろん、警察のストーカー対策部署に相談するという方法もあります。ただ警察はあくまでストーカー行為への対応ということになりますから、それで仮に中川氏のつきまとい行為が収まったとしても、民事上の事案であるパワハラやセクハラまでは――」

「分かっています、それは。あの私、そこまでのことは考えてないんです」

「え?」 

「病院のコンプライアンス統轄部門に訴えても無駄なのは分かってますし、かと言って外部のそういう、労基とか弁護士とかに相談するつもりは今のところ無くて――ましてや警察にどうにかしてもらおうとは思ってないんです」

 遠藤さんは慌てたように言って、申し訳なさそうにこっちを見た。


 ――は? え、じゃあなんで俺なの? 


 いささか脱力感に襲われた。椅子に背を預け、コーヒーのソーサーの淵を指でなぞりながら言った。

「……遠藤さんは、ボクに何を望んでらっしゃるんですか」

「えっ、あの――」

「もしかしてボクに、中川氏に言って欲しいとかですか。『遠藤さんにつきまとうのはやめろ』って」

「…………」

 そうなのか。何だよそれ。こっちはただの患者だけど。

「ボクが言うことで期待される効果というか、そもそもの根拠が見えないんですが。警察官だからですか?」

「ええ、まあ、それもありますけど――」

「どうでしょうね。いくら警察官でも、中川氏にとってはあくまでいち患者と言う認識でしょうし。いきなりあなたに近づくなと言っても、なに彼氏ヅラしてんだよって話で――」

「それです!」遠藤さんは声を上げた。

「えっ?」

「あの、そういうことにしていただけないでしょうか」

 え、なになに。「どういうことですか?」

「二宮さんと私が付き合ってる、ってことにして――」

「付き合ってる?」

 思わず訊き返した。『鳩が豆鉄砲食らったような』ってやつ。今、そんな顔してんだろうな。

 遠藤さんは小さく首を振り、コホンと一つ咳払いをした。

「もちろん、本当に付き合うとかじゃなくて、あくまでそういう設定でいいんです。申し訳ないですけど私、今は誰とも付き合う気なくて」


 ――はぁぁ????? え、なんで俺、ちょっと振られたみたいになってんの?


 一気に気持ちが引いていくのが分かった。警察官である以上、助けを求めてくる相手にはそれがどういうつもりであれ手を差し伸べなくてはならないのだろうし、自分もその覚悟だったが、そこはやっぱり人の子だ。軽くディスられた上に、ただ面倒くさいだけの事情に乗っかれと言われ、まあまあ失望してしまった。

「――信じますかね、中川氏はそれで」

 極力つっけんどんに言ってやった。「唐突すぎませんか」

「大丈夫だと思います。基本的に彼、自分のことにしか興味を持たない人ですから。唐突だとしても、へえそうだったのかと思うタイプです」

 ほんとかよ。まぁもはやどっちだっていいけど。

「分かりました。じゃあそういうことにしましょう」

「いいんですか?」

「乗り気ではないですけど、それであなたが助かるのなら。リハビリも早く終わりそうですし」

「……すいません。ご迷惑おかけします」

「大丈夫ですよ。人助けも職務の一つだと思えば」

 はははと作り笑いをして、冷めたコーヒーを胃に流し込んだ。


 何だろ。無性にマロンちゃんの声が聞きたくなった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る