第十四話 バゲットにリンゴのスライスって美味しいの

 腹が決まったせいなのか、朝起きたら晴れ晴れとした気分だった。

 それで、昨夜の謝意を芹沢巡査部長に伝えようかと思ったが、さすがにしつこいと迷惑がられそうだ。いや、そもそもされる可能性が高い。やめておこう。

 そして、歳は同じでも正反対の人間性を自覚しているし、納得のモテ男ぶりに憧れているわけでもないけれど、せめてこの気弱というか臆病というか、圧倒的後輩気質をいい加減何とかしないとなと思った。

 今まではほとんど前向きな意欲が持てなかった、昇進試験の勉強をしてみようか。したからと言ってすぐに合格できるものでもないし、ぶっちゃけ今でも巡査部長よりもデータベーススペシャリストへの憧れの方がはるかに強いけれど、この世界でやっていくつもりならいずれクリアしなければならないミッションだ。助けを求めてくる相手に応えたい――そのためにも、ある程度の地位や権限はあって邪魔にならないだろうし。

 ちょっと本気で考えてみようか。


 その前に。何はともあれ遠藤さんの件だ。

 昨夜巡査部長に指摘されたように、彼女の話の信憑性の裏付けの必要がある。すべてが作り話だとは思わないが、自分を捨てた中川憎しで彼のことを悪く可能性はじゅうぶんにある。確かに、逆玉狙いで婿養子に入ったものの婚家の居心地が悪いからと言って、今さら元カノに度を越したつきまとい行為やパワハラ行為を繰り返すだろうか。しかもその相手は職場の同僚だ。やりすぎると婚家先にバレるリスクを伴う。それでも元カノへの執着が抑えられなかったのか、それともちょっとした未練心に過ぎなかったのを彼女が過剰反応しているだけなのか――そのあたりの心境はもはやよく分からないが、とにかくまずは、中川修二の身辺について少し洗ってみようと思った。


 普段より手早く出勤の支度を終えて、パソコンの前に座った。いつものチャットルームに入り、夜を徹してネットの‟沼”で底に潜ったり水面を漂ったりを気の向くままに愉しみ、そろそろ就寝を迎えようとしている仲間たちに手短に調査依頼をする。彼らの中には、依頼対象のデータ収集が得意な者もいれば、行動追跡が得意な者、ネット上の足跡を隅々までかき集める者もいる。中にはターゲットになかなか際どい罠を仕掛けるスキルを持つ者もいて、さすがにそこまでの依頼をしたことはない。当初、彼らは報酬を求めなかった。依頼に応えることそのものが喜びなのだそうだ。しかしそれでは万が一彼らのときのこちらのリスクが高すぎる。だがら少額ではあるが成功報酬は必ず支払うことにしていた。ちなみに当然のことながらここでは、互いの素性は決して明かさないし詮索もしないという一応の暗黙のルールが成立している。そこらへんは細心の注意を払っているつもりだが、彼らのことだ、今頃もう丸裸にされているかもしれない。しかしそうなると今度はこちらも彼らの素性を暴くまでだ。つまり、お互い綱渡りと言うわけ。だから今のところ平和が保たれている。


 電源を落として立ち上がった。リュックを担ぎ、部屋を出た。



 寮の玄関を出たところで電話の着信があった。ジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、画面を見て思わずえっ、と声が出た。

 表通りへと向かいながら、タップして耳に当てた。

「――もしもし。おはようございます」

《おはよ。忙しいとこ悪いな》

 少しこもった声だった。何か食べてるっぽい。ずいぶんと気安く扱われるようになったな。

「いえ、こちらこそ昨夜ゆうべは遅くまですいませんでした」

《ちょっと考えたんだけどよ》

 巡査部長は唐突に言った。お互い、のんびり話している時間はないとの配慮らしい。

《逆玉野郎の遠藤さんへのストーカー行為の裏取りができたとしてさ》

「ええ」

《二宮が遠藤さんの恋人役を演じてそいつにクギを刺すって、それだけでいいのかなって》

「……と言うと?」

《いや、それが遠藤さんの望みだってことは――分かってんだけど――》

 巡査部長は口ごもった。ただし気持ちの上でそうなったのではなく、物理的にだ。

「あの、何か食べてます?」

《あー悪りぃ。バゲットの上にリンゴのスライス乗せたのかじってる。メイプルシロップかけてトーストしたやつ。旨いんだぜ》

「……いちいちカッコいいなぁ、もう」俺なんか今朝は納豆ご飯だけだった。

《ウチにそれしかねえんだもん》

「それで、遠藤さんの望みがどうなんですか?」

《ああそれ。どうせならよ、そいつ挙げちまえよ》

「は?」

《その方がいいって》

 巡査部長は明るく言った。そしてまたすぐに抑えた声になって続けた。《その方が――二宮にとって、意味があると思う。結果的に、遠藤さんも安心だし》

 つい立ち止まった。「……どうして、そう思われるんです」

《説明めんどくせーよ。昨夜の電話のあと、もろもろの話をトータルして考えて、そういう結論に至ったってこと》

 言わんとしていることは分かった。理系の研究者を目指していた自分が、警察官になったこととその理由、そこにこだわるべきだということだ。元カレにつきまとわれて困っている女性の今カレのふりをしてそいつを追い払う、そんなことは警察官でなくても――もちろんその方が効果的に働くだろうが――多少の勇気があれば誰にでも出来ることだ。けど、五年前おまえはそれが出来なかったんだろうと。勇気を持てなくて親友を失って、絶望して苦しんで、だから警察官になって、卑怯なやつらを蹴散らしてやるスキルと権限を持ったんじゃないのか。だったらそこにこだわれと、この人は言いたいんだ。それが二宮――俺にとって意味が――あれ、さっきから俺のこと二宮って言ってる。『二宮くん』とか『あんた』じゃなくて。

「ボクのこと、呼び捨てにしてくれるんですね」

《えっ、ダメなの?》

「いえ、その方がいいです。嬉しいです」

《だからさぁ。もうお互いタメ口で行こうぜ》

「ダメですよ。芹沢さんの方が階級上なんだし」

《えぇ~もうそんなの関係ないじゃん》

「ありますよ。けじめは必要です」

 そう言うとふと思いついた。「そうですね――ボクが巡査部長になったら、そのときはタメ口使いますよ」

《早めに頼むな。じゃねえと俺、警部補になっちゃうし》

「……分かりました」

 思わず笑みが漏れた。ほんと、いちいちカッコいい人だ。

 巡査部長の提案を検討してみますと電話を切って、リュックの肩ベルトを引っ張ると、坂道を走り出した。



 駅を出て署に向かう途中で、今度はマロンちゃんからメッセージが入った。踊りながら朝の挨拶を告げるパンダのスタンプに次いで、絵文字まみれで告げてきたことと言えば――


《今日は午後から雨だそうです! 寒くなるみたい。雪になっちゃうかもですね。二宮さんはお仕事ですか? 風邪ひかないように気をつけてがんばってくださいね♡》


 パンダが色とりどりの旗を振ってエールを送ってくれている。


《それで、もし良かったら今日夜ごはんとかご一緒出来ますか? お仕事遅くなるのかな? 奈那は何時でもOKです!》


 自分のことを名前で呼ぶ女性が苦手だったけど、マロンちゃんなら許します、とあっさり志向転換した。男のバカなところだ。

 昨日の告白がそれまでの後ろ向きな自分をリセットする儀式だったとしたら、さっきの巡査部長からの電話とマロンちゃんのこの誘いは、さあ今日から前を向けという天からの啓示のような気がして――ちょっと、いやだいぶ大袈裟だが――ありがたく受けることにした。って言うか、シンプルに会いたかっただけなんだけど。


 ――おはよう。今日空いてます。時間はちょっと確約できないけど、19時~20時なら解放されてるかな。大丈夫?


《もちろんです! 嬉しい! どこで待ち合わせます? どこでも行きます!》


 ソッコー返信。相変わらずグイグイ来るけど、それが今は嬉しい。


 ――また夕方にでも連絡するよ。今日は大学は?


《実は春休みに入ってるんです。でも今日は研究室ラボに行きますよ。ちょっと調べたいことがあるんで!》


 ――そう。頑張ってね。じゃあまた夕方。


《ハイ! 二宮さんも頑張ってくださいネ♡ 悪いことしたヤツ、いっぱい逮捕しちゃってください!》


 今度は口がバツ印のウサギが大きなハートを抱えているスタンプ。

 いやが応にも口元がにやけるのを、あえて手で押さえながらスマホをポケットに仕舞うと、肩をほぐして首を回し、大股で歩き出した。


 納豆ご飯しか食ってなかったって、そこそこイケてるんだぜ。





※データベーススペシャリスト……情報処理分野の国家資格。



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