第十三話 懺悔と再生

 思い出すと、胸が苦しくなる。それでも話さずにはいられなかった。


「――優秀な研究者でした。将来はきっとこの国のIT産業に大きな利益をもたらす人物になるだろうと、研究室ラボの誰もが信じてました。明るくて、何にでも一途で、おおらかで――人を疑ったり、穿って見るようなことは決してしない。研究でも成果を上げて、教授からの信頼も厚くて――でも結局、それが周りの醜い嫉妬を生んでしまった」

 そのことに俺は早くから気づいていた。気をつけろ、出る杭になってるぞとあいつに忠告するべきだった。浪人していて歳が上だったぶんあいつの方が少し兄貴分で、だからまた、二宮、おまえは相変わらず心配症だなと笑われるのが嫌で、つい放置してしまった。

「きっかけはごく些細なトラブルからです。それが研究室での陰湿なイジメに発展しました。無視や陰口だけにとどまらず、不可抗力を装った実験データの破損や学会参加への妨害……じわじわとエスカレートしていきました。やがてはネット上の誹謗中傷です。そしてその対象が郷里の家族にまで……地元に付き合ってる恋人がいて、その彼女にも被害が及ぶかもしれないと思った彼は、理由を一切言わないまま別れを告げました」

 そのときのあいつの落ち込みようは酷かった。それまで見たことのない姿だった。まるで身体の半分を持って行かれたかのようだった。その女性がどれだけ大切な存在だったか、失ったことの絶望感は計り知れなかった。

 なのに、それを俺はただ傍観していた。あいつならきっと大丈夫だ、強いから、何も間違ってないから、いつか立ち直るなんて都合のいい、卑怯な理由づけをした。やつらの魔の手が自分にも及ぶのを恐れたんだ。

「――気丈に見せて、実はSOSを出してたのは分かってたんです。いくらでも手を差し延べる機会はあったのに、勇気が出なくて――自分のことが可愛かった。すごく心配はしてたから、それで充分だって、そのうちやつらも飽きるだろうって――そんな勝手な解釈をして」

 あのときの自分が、心の底から嫌いだ。でもそれは、まぎれもなく今、ここにいる自分に違いないのだ。

「……まだ寒さの残る、Mの三月のある夜でした。大学や自宅とはまったく縁のない駅の……ホームから――」

《いいよ言わなくて》巡査部長は静かに言った。

「……ボクは――バイト先の友達と飲みに行ってて、酔っぱらって家に帰ってそのまま寝たんです。朝になってようやく、ケータイにメッセージが入ってるのに気づいて――」

 人生最悪の朝だった。

「たったひとこと、『いままでありがとう』って……それを送って来た直後の、……さ、最終電車に――」

 巡査部長は何も言わなかった。ため息すら聞こえなかった。電話の向こうで、今どんな顔をしてるのだろうか。

「……葬儀には行けませんでした。ただただ怖くて」

 郷里は宮城だった。父親の経営する中古車販売会社は、震災の津波でほとんどの車が流され、従業員も何人か犠牲になったという。それから必死で頑張って、家族で震災を乗り越えたんだと、酒が入るといつも誇らしげに話していた。

「――そんなあいつが……じ、自分で、人生を、お、終わらせて、しまうって――」

 うわぁ、と、ベッドに突っ伏した。涙腺が、身体が震える。駄目だ電話中だぞ、泣いてしまったら相手も困るだろと踏ん張って何とか顔を上げた。

「……す、すいません」

《いいって。だからもう見過ごしたくないんだろ?》

「……はい」完全に涙声になっているのが分かった。「そのために警察官になったんです」

 もともとは研究者になりたくて大学に入ったのだけど、クソみたいな連中だらけの世界にもう未練はなかった。ただ研究自体は好きだったし、途中でやめるのはそれまでの学費を出してくれた親に申し訳ないと思ったから修士までは修めることにした。残りの一年間、一通りの学業と警察官採用試験の勉強、七歳から始めて高校受験の前に辞めていた剣道の道場に再び通うのに費やした。大学での友達付き合いの一切を絶った。誰のことも信じられなかった。あいつを殺した、ネットの中の闇を片っ端から暴いてやると思ってパソコンの前に座る時間が長くなり、いろんな‟禁じ手”も覚えた。皮肉にも今はそれが縁で仲間と呼べる繋がりもできたが、彼らと直接会うことは絶対にない。姿を見たくはないし、見せたくもないからだ。


 あの一年はものすごく孤独だった。けどそれが自分への罰だと思って耐えた。


《ちゃんと動機があったんだな》

「えっ?」

《警察官になった理由は特にない、何となくだって言ってたから。前に》

「そうでしたっけ」

《……まぁ、誰にでも気軽に話せる内容じゃねえよな》

「……ええ」

 五年間、ずっと胸の奥深くに重石のように潜んでいた後悔と罪悪感が、自分だけで抱えるにはもうこらえ切れず、一気に溢れ出たのだと思った。誰かに聞いて欲しかったわけではない。だから慰めて欲しかったわけでもないし、ましてや擁護して欲しかったわけでももちろんない。ただこの暗くて醜い負の感情を、いつかどこかで曝け出す必要があったのだろうと思う。一人で抱え続けることによって、やがて間違った方向へと自分を追い詰めてしまう。俺はきっと、無意識のうちにそれが分かっていたのかも知れない。

「……すいません。今日はこんな気の滅入る話、するつもりじゃなかったのに」

《吐き出してしまわねえと、って。あるよな》

「あ――ええ。はい」

《ずっと心の中に抱えて行くんだと思ってても、それじゃ重すぎるって、たまにその心が悲鳴を上げる》巡査部長はため息をついた。《実はそこまで人間出来てねえからさ》


 ――この人も、同じような経験があるのだろうか。それがあの、『俺は自分を使い切って死にたいんだ』と言う言葉に――


「あ、あの――」

《――だったら、気の済むようにやればいいんじゃね?》

 巡査部長はまたあの軽さで言った。《バチっと決めてやれよ。遠藤さんの恋人役》

「……はい。そうします」

《いいなぁ~美人の恋人なんて――ってあぁ俺またなんか間違えたか? 他意は無いぞ、深読みすんなよ》

「分かってますよ。それに恋人じゃなくて、あくまで『恋人のフリ』ですから」

《そうだけどよ。まぁ何にしたって、女のコにご指名で頼まれたんじゃ、ひと肌脱がなきゃな。野郎の救いを求める手なんかはソッコーではたき落としてやりゃいいけど》

 思わず口元が緩んだ。不思議な人だ。たった今まで重い話を静かに聞いていたかと思えば、まるでそれを追い払うかのようにふざけた物言いになる。きっとどっちも嘘で、どちらも真実なんだろうな。

《……だけど、過信しない方がいい》すると巡査部長はまた。《俺たちはそんな万能じゃない》

「あ――はい」

《警察官だからって、すべてのSOSに応えられるわけじゃない。逃げで言ってるんじゃないぜ。どんなに足掻いてもどうしようもないときもあれば、本当は救えたはずなのにそれすら出来ねえときもある。むしろそっちの方が多いくらいさ。だから、そうやって自分がやらなきゃ、って思ってると、駄目だったときはその反動で余計にメンタルやられちまう。そうなったときが酷い》

「……ええ」

《それでもその後悔をずっと抱えて、また新しい悲劇に向かい合わなきゃならないんだ。俺たちのやってることって、そういう懺悔と再生の繰り返しさ》

「……そうですね」

《まぁあんま落ち込まねえで。今やれること一個一個、積み上げていくしかねえと思うけど》

「はい。ありがとうございます」

《……ってことで、そろそろ寝たいなあって思ってるんだけど。明日もそんな不毛な仕事が待ってるんで》

「すっすいません。もう切ります――でもあと一つだけ訊きたいことが」

《何よもうー。もらったチョコの行き先だったら喋んねえぞ?》

「そこはもういいですよどうでも」

《チッ、邪険にすんなよ腹立つなぁ。高級チョコだろうと手作りチョコだろうと、その全部にさ、きっちり想いがこもってんだぜ? 俺はそれをちゃんと受け止めてるんだ――あーもちろんとして別格扱いだけど……ってなんでいちいち断り入れなきゃなんねえのよ。めんどくせえんだよ》

「分かってますよ。今後ボクに対しては断り無用です」

《しょーがねえだろ顔が良くてスタイルも良くてモテるんだからさぁ。もっかい言おうか? 俺みたいになってみろって。そしたら分かるから》

 またおちゃらけモード。もう分かってきた。きっと、真面目なことを言ってしまったことの照れ隠し。それと、落ち込んでるこっちに上を向かせようとしてるんだ。

「それ、そこです訊きたかったのは」

《あん?》

「そんなモテモテの芹沢さんに教えて欲しいんですけど――」

《もうそーゆー毒吐くかね。さっきまで堕ちてたくせに》

「はは、すいません」つい笑ってしまった。「遠藤さんの恋人役をするってこと――あくまで芝居ではあるんですが――誰にも知られたくないんです」

《確かに。芝居とは言え、余計な誤解を招くリスクはある》

「でしょう。やましい事やってるわけではないけれど、だからこそ極力リスキーなことは避けたいんです」

《ああ。それで?》

「芹沢さんに訊きたいと思って」

《何を》

って、あるんだろうなって。それを応用できないかと」

《……てめえぶっ飛ばすぞ。今度会ったら》

「え、教えてくれないんですか?」

《そもそもねえよそんなもん》巡査部長はふんと鼻で笑った。《つか、誰にバレたら困るわけ? 遠藤さんの恋人役が》

「えっ、いやぁ……別に」ヤバい、やぶへびだ。「ええっと、そう言えば確かにもう遅いですね、明日もあるし切ります」

《もしかして、そういう相手がいるんだ?》

「あっいや、違います、まだそこまでは――」

《まだ? あ、まだなんだ。でももしかしたら今後は、ってやつか》

 巡査部長のにやにや顔が目に浮かんだ。あぁもう、俺のバカ、未熟者。

《ふーんなるほどねぇ》巡査部長は楽しそうに言った。《だったらなおさら、小細工はしねえ方がいいな。もしその相手にあらぬ疑いを持たれそうなら、正直に話した方がいい。ただ遠藤さんのプライバシーに関わることだから、難しいけど》

「……分かりました。小細工はしません。だから忘れてください、今の話」

《おう。忘れたふりして、憶えとくよ》

 巡査部長はじゃあなと言って電話を切って行った。気がつけば日が変わっていた。

 いろんな醜態を晒してしまった。それは恥ずかしかったけれど、その一方で妙に清々しかった。五年のあいだに、自分で溜めた膿が洗われたような気がした。


 本当の自分を知ってもらうということは、悪くない。


 


※M1……修士(Master)1年生。

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