第六話 なんの罠だ

 見覚えがあると思ったら、彼女もまた理学療法士だった。リハビリ室でときどき、他の患者を支援しているのを見かける。今は仕事終わりなのか私服だったのでピンと来なかったのだ。

「あ、はい」

 飲んでいたペットボトルを脇に置いて、軽く居住まいを正して相手を見た。

 ネイビーのロングコートの中はオフホワイトのざっくりとしたハイネックセーター、ボトムは黒のスキニーパンツに黒のニューバランスのスニーカー。大きなトートバッグを肩に掛け、その肩より少し上のあたりでポニーテールが揺れている。並びの良い白い歯とすらりと伸びた長い足が健康的で、普段あまりテレビを見ないので記憶があやふやだが、確か『神スイング』とかいうので有名になった女性タレントに雰囲気が似ているなと思った。

「二宮さんでしたよね。左鎖骨の骨折で術後のリハビリに通われてらっしゃる」

「ええ、そうですが――」

 無意識に訝し気な表情を浮かべてしまったのだろう。彼女はっと目を見開き、軽く頭を下げて言った。

「理学療法士の遠藤えんどうと言います。二宮さんのこと、ときどきリハビリ室でお見掛けしていたので」

「そうですか、どうも」

「あの、中川なかがわが何か」

「えっ?」

 中川というのはさっきの担当の理学療法士のことだ。

「あ、すみません、実は先ほど、二宮さんがリハビリ室からの帰り際に中川と話しておられた様子をうかがっていたら、少しご立腹のご様子だったので――」

「ああ、いえ、別に。なんでもありませんよ」

 造り笑顔を浮かべようとして、ところがなぜか頬が引きつったのが自分でも分かった。なんかもう、ひとつひとつめんどくさい。

 すると彼女は、申し訳なさそうに首を傾げて言った。

「ごめんなさい。余計なことでしたね」

「あ、いいえ」

「中川はその――ちょっと、馴れ馴れしいと言いますか、人懐っこすぎるところがあるので……相手が患者さんであろうと上司であろうと、少し打ち解けるととにかく遠慮がなくて。もちろん悪気はないと思うのですが」

 そうなんですか、と頷いて、大丈夫ですよと受け流した。

「だったらいいんですけど。もしも何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってくださいね。ご希望とあれば、担当を替えることも可能です」

 女性はハキハキと、それでいて柔らかな口調で言った。体調にトラブルを抱えた患者にとって、治療に対する前向きな気持ちを呼び起こしてくれる生命力だけでなく、ままならない現状に寄り添って癒してくれそうな慈悲のこもった温もり、その両方を兼ね備えた彼女の声と話し方は、中川とはまた違う観点からではあるが有能な理学療法士だと思われた。

 親切な対応は有難かったが、これ以上話を引き延ばすのは勘弁願いたい。ドリンクはまだ半分以上残っていたが、立ち上がって頭を下げた。

「ありがとうございます。中川さんにはとても良くしてもらっていますし、頼りにしています。何も問題ありませんので」

「そうですか――」

 彼女は小さく頷いた。なぜだか少し残念そうだった。

 リュックを担いで失礼しますと歩きかけたとき、その動きを制するように彼女の手が伸びてきた。

「――あの、それとね、二宮さん」

「はい?」

 しつこいな、あとはそっちで勝手にやってくれとあえて迷惑顔を作って彼女を見ると、それまでの様子とは明らかに違う、些か緊張感の漂う笑顔を浮かべ、肩にかけたトートバッグに左手を突っ込んでガサガサと音を立てながら言った。

「あ、あのこれ、どうぞ――」

 目の前に突き出されたのは、またしてもプレゼント包装が施された包みだった。

「えっ」

 明らかに強い警戒のこもった声を出してしまった。朝のことがあったから、『プレゼント⇒チョコレート⇒悩ましい 』というチャートが頭の中で出来上がっていたのだ。

「これって――」

「チ、チョコレートです。バレンタインだから。あの、今日来られた男性のみなさんにお配りしてるんです」

「あ、そうですか」

 少し気が緩んで、口角が上がるのが自分でも分かった。「義理チョコね」

「え、まあ、はい、ええ。率直に言うとそうです」

 彼女はトートバッグの把手部分を何度も肩に引き上げながら、なぜだか困ったようにキョロキョロと周りを見回した。

 何を焦ってるんだろうかと思ったが、もうそこにこだわる気はなかった。

「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」

 包みをコートのポケットに突っ込み、リュックを担ぐと、丁寧に頭を下げてその場を後にした。

 

 

 寮に帰ると先に入浴を済ませ、部屋に戻ってNHKのニュースを眺めながらコンビニで調達した夕食を食べた。もちろん、チョコレートのことが気になっていたが、あえて普段通りのルーティンで過ごそうと、そのあと一階のランドリールームへ下りて洗濯をした。

 が、結局は寂しい独身男の一人暮らしだ。風呂と食事と洗濯が済めば、就寝前にすることなんてもう無い。そこで、普段観ない連続ドラマのめちゃくちゃ中途半端な回をぼんやりと眺めてみたり(もちろんストーリーはチンプンカンプン)、勤務日には滅多にやらないゲームをしてみたり(レベルはまるで上がらない)、ベッドに寝転んでスマホをいじったりしたが、当然のことながらどれも身が入らず、いっそまだ早いが明日に備えて寝ることにしようと布団を被ってみたりもした。が、すべては無駄な足掻きに終わった。


 馬鹿だなあ、なにモテ男ぶっちゃってんのさ。こんなこと初めてなんだから、舞い上がるのは仕方ないにしても、興味のないフリなんておこがましいぞ。


 さぁ、さっさとラッピングを開けてしまおうと、もはや義務感すら抱き始めて意を決した。


 リュックを開け、マロンちゃんにもらった包みを取り出そうとして、理学療法士の遠藤さんからの義理チョコが目に入った。そうだ、これもあった。義理チョコとは言え、もらって悪い気がしないのは確かだ。

 とりあえず、こっちの方から開けてみよう。マロンちゃんのと比べてサイズも小さいから、何なら今から美味しくいただいてもいい。

 光沢のある赤い包みをテーブルに置いた。すると、結ばれた白いリボンの下に、メッセージカードらしきものが挟まっているのに気付いた。

 義理チョコにわざわざカードなんて、と思いつつそれを抜き取った。きっとバレンタイン用の定型文が印刷されているのだろう。折り畳んでハート形のシールが貼ってあるのを捲り、カードを開いた。


 最初に飛び込んできた言葉を読んで、息を呑んだ。


『――助けてください。お願いです。あなたしか頼る人がいないのです。――』


 何だこれ。どういうことだ。


 ふに落ちないまま小さなカードにぎっしりと書かれた文章を読んで、頭を過ぎったのは――


 いったい、なんの罠だ。


 なるほど、どうやら俺の周囲で、俺を嵌める何らかの企みが遂行されようとしているようだ。


 冗談じゃない。そうはさせないぞ。


 チョコを食べる気はすっかり失せ、包みをそのままにしてベッドに入った。




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