第二話 舌打ち男との攻防
チョコレートの包みを掴んだまま猛ダッシュで電車に乗り、 満員の車両の隅っこでずっとバンザイの姿勢で過ごした。包みをリュックに片付けようにも、この混雑の中でもぞもぞしようものなら、今度こそ本当に痴漢と認定されてしまう。幸い一駅で乗り換えるから、しばらくの辛抱だ。
すると向かい合って立っている男性がじっとこちらを見つめて来た。視線を上に動かし、チョコレートの包みを見るとふんと鼻を鳴らした。
え、何が? と言う意味で首を傾げて男性を見ると、男性は不愉快そうに口を歪めて、
「チョコ一個もらったぐらいで、喜んでんじゃねーよ」
と小声で言って舌打ちした。
いやいやいや違いますから! 嬉しくてバンザイしてんじゃないんです!
持ったまま下に下ろせば潰れちゃうし落とすかも知れないし、片付けるにしてもこれだけ混んでたら迷惑だし、だからバンザイしてるんですよ。こっちだってやりたくない。あんたみたいに誤解する人出てくるし、だいいち左の肩が痛いんだ!
そうは言うものの、ぶっちゃけ嬉しかったのもある。あんな可愛いコに、どストレートに告白されたのだから。しかも今日はバ、バレンタインデーだぞ。
男性が依然として挑戦的な眼差しを向けてくるので、顔を逸らした。そして何食わぬ顔を心掛けつつ、さっきの光景を頭の中で再生した。
「好きです。付き合ってください」
マロンちゃんがそう言って両手で差し出したチョコレートの包みを呆然と眺めていると、彼女はまたしても心細そうな表情で見つめてきて、「受け取ってもらえないんですか?」と今にも泣き出しそうな声で言った。
ハッと我に返って包みを受け取った。それで彼女はようやく笑顔になり、「あっ、あの、SNSのアカウント――」
「ごめんなさいっ!」身体を直角に折って一礼した。
「えっ……」
マロンちゃんはまた心細い声を出した。そこでこっちもまたハッと気付き、大慌てて手をブンブンと振って言った。
「あ、ち、違う、あの、ごめんなさいって言うのはそ、その、おことわりしますってことじゃなくて――」
駄目だ、ここが限界だ。顔だけを残して身体を反転させながら、コートのポケットのスマホを握りしめて言った。「ホントごめんなさい、もう行かなきゃ!」
スマホを自動改札機に当て、通り抜けてから振り返った。彼女も改札機のそばまで来ていて、右手を頰の横あたりに上げ、小さく振りながら「お店で待ってます!」と言ってぺこりと頭を下げ、顔を上げるとにっこり微笑んだ。
――あの笑顔も可愛かったな――
思わずにやけ顔になりそうなのが自分でも分かる。
が、前の男にまた舌打ちされるのも不愉快だし、ぐっと奥歯を噛み締めて我慢した。
ほどなく次の駅に到着した。舌打ち男ともお別れして、端っこのホームから反対側の端っこのホームに移動するあいだにチョコをリュックにしまった。乗り換えの電車を待ちながら腕時計を見ると、当初の予定より十五分遅れている。朝イチで会議の予定で、昨夜
そこでふと気付く。そうか、バレンタインだったら、あの人もきっと今日は――
戸惑いながらも浮かれていたメンタルに少し、翳りが刺す。いちいち思っても仕方のないことだと分かっていたが、それでも頭を過るのを止められない。
――ほんと、バカな想いを抱えてしまった。
乗り換えの電車が来た。気をとりなおして乗降口に乗り込む。今度は比較的余裕のある空間に落ち着くことができた。ホッとため息が出た。
二駅が過ぎた頃、ポケットのスマホが振動した。たぶん、係長か主任からだろうと思った。もうすぐ会議の開始時間だ。未だ姿を見せない生意気な下っ端を叱りつけようと、掛けてきたに違いない。
はいはい、分かってますよと心の中であしらって、またちょっとにやけそうになる。上司にどやされようと、あの人に文句を言われようと、それがどうした、かまうもんか。なんてったって、可愛いコに待ち伏せされていきなり告られたんだからしょーがないじゃないか。それでも、その健気な勇気をとりあえずは受け止め、連絡先を教えて欲しいと言う相手の要望を仕事があるからと振り切ってきたのだから褒めてもらいたいものだ。おかげで、彼女の気持ちをもう少し掘り下げて確かめるためには、店に行くしかない。秋葉原の『百花繚乱』に。
――あれ――?
これって、もしかして――
やだやだやだ、考えたくない。そんな、まさか。
店にきてもらうための、営業......?
何度か来店履歴はあるものの、最近は顔を見せない客をピックアップして、また店に来て金を落としてもらうためのセールス。
名付けて『バレンタインいきなり告白・勧誘大作戦』か。そうなのか?
違うだろ違うだろ?
そんな手の込んだことします?
しないでしょ。しないよね。
でも――そう考えると確かに納得はいく。
電車が停まった。ここで降りなきゃならない。
さっきまでの浮かれ気分は何処へやらだ。
我ながら分かりやすく落胆し、俯いてトボトボと改札に向かっていると、後ろからドン! と誰かにぶつかられた。
「イテっ――!」
顔を上げると、ぶつかって追い越したスーツの男がこちらを振り返って舌打ちし、
「ボーっとしてんじゃねーよ!」
と怒鳴りつけてきた。
さっきの舌打ち男だった。
「あ――」
ご指摘の通りぼんやりと見つめるこちらを捨て置いて、舌打ち男はさっさと改札を通って行った。
何なんだよ。何で朝からこんなにメンタル乱されるの? 何をしたって言うのさ――?
スマホを取り出し、自分も改札を抜ける。そこでまた着信。画面を見ると、案の定『刑事課』の文字。だらりとした仕草で電話に出た。
「――はい」
《何だその声。てめえだけ重役出勤とは上等じゃねえか》
「あ、すいません、今駅に着きました。すぐに行きます」思わず走り出した。
《上席待たせといて、成果なしでは済まされねえからな》
それだけ言って、主任は電話を切っていった。
スマホをポケットに突っ込み、リュックの肩ベルトを持って走りながら、くそ、何がバレンタインデーだと思った。
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