【起】の章

第一話 改札口で


 それは突然、やってきた。



 その日はとりわけ寒い日で、少しずつ朝の冷え込みが和らいできた二月の半ばに身体が慣れてきたタイミングで訪れた、ちょっとした寒波襲来の朝だった。


 朝七時半。寮を出て駅へと向かう。MP3プレイヤーの音量を少し上げてコートの胸ポケットにしまうと顔を上げ、右手でリュックの肩ベルトをきゅっと引っ張り、歩調を速めた。仕事に行くときの軽い気合い入れのようなものだ。ビジネスブーツの踵を蹴って、緩やかな坂道を下りていく。身を切るような冷たい空気も、寒さが得意な身には苦にならなかった。


 旧街道に出て、交番の前を掠めて駅へ急ぐ。電車の到着が近いせいか、駅前にはあちこちからの人の流れができていた。

 駅舎に入り、ATMの前を通って改札の手前まで来たときだった。


 後ろから左肩をちょん、と叩かれた。


 それだけでもびっくりしてちょっとだけ飛び跳ね、振り返った。きっとひどくおびえた顔をしていたと思う。二ヶ月前に左の鎖骨を折り、まだリハビリが終わってなかったからだ。


 すると、同じように不安げな表情を浮かべた女性が立っていた。年齢は二十歳はたちから二十五歳、身長160㎝前後、痩せ型、アプリコットブラウンのポニーテール。丸顔、切れ長の二重に髪と同じ色のカラコン、口角の上がった豊かな唇、やや鷲鼻。耳にはピアスの穴が三つ。職業柄、瞬時にこれらの情報を識別し、精査して出した結論――可愛い。


「――な、なんですか」

 しかしこれまた、分かりやすくおどおどした声が出た。自分でも情けない。

二宮にのみやしゅんさんですよね。私のこと、分かります?」

 知らない。知ってたら忘れるはずがない。だって可愛いんだもの。

「ごめんなさい、ちょっと――」

「……やっぱりそうですか」女性は明らかにがっかりした様子で俯いた。「仕方ないわ。全然違う格好なんだもの」

 違う格好? 何と違う? いつと違う? え、もしかして――

「あの、二宮さん――」

「ちょちょちょちょちょっと待って! いや、待ってください!」

 周りの乗降客がこちらを見た。皆一様に怪訝そうな表情を浮かべていた。まずい、このままだと痴漢に間違われてしまう。

「すいません、ちょっとこっちへ」

 そう言うと女性を少し離れた切符売り場の前へと促した。彼女は黙ってついて来た。

 そしてあらためて訊いた。

「――あの、大変申し訳ないんですけど、どこでお目にかかってましたか?」

「えっと――」

「あ、大きな声で言わないでくださいね」

「えっ?」

「え、あ、いやその、周りの人がね。なんか誤解するから」

「誤解?」女性は明らかに不審そうな口調になった。

「いえ、違います。気にしないでください。それで、どこで?」

秋葉原あきはばらの『百花繚乱ひゃっかりょうらん』っていう――」

 がっくりと項垂れた。やっぱフーゾクか。けど顔を覚えられるほど行かないんだけどなあ。

「メイドカフェです」

 うん、メイドカフェね。ご主人さまぁーって、そういうプレイが――

「え、メイドカフェ?」顔を上げて女性を見た。

「ええ。そこで私、マロンって名前で」

「ああ!」

 大きな声を出すなと言っておきながら、自分が大声になっていた。

「思い出してくれました?」女性は目を輝かせた。

「ええ、思い出しました」

 よかった。フーゾクじゃなかった。そういえば何回かそんな名前のメイドカフェに行ったことがある。ややこしい名前つけないでよ。

 そのマロンちゃんがどうしてこの駅にいるのか、いろいろ訊きたいことがあったが、出勤途中で時間がないことに気付き、とりあえず彼女の用件を優先することにした。彼女も普段この駅を使っていて、今朝はたまたま店に来る客を見かけて声を掛けただけだというなら、それが一番ありがたい。

「それで、ボクに何か?」

 すると彼女は、左の腕に掛けていた小さな赤い紙袋を開け、中から青いリボンで綺麗にラッピングされた長方形の包みを取り出すと、両手でそれを差し出し、大きく深呼吸をして言った。


「好きです。付き合ってください」


 ――はぁ?????


「……え、何で?」

 そう言うのがやっとだった。

「……ダメですか?」

 マロンちゃんは瞳をうるうると揺らし、首を傾げて恨めしそうに見上げてきた。


 なんだこれ。なんの冗談だ――?


「朝からご迷惑だとは思ったんですけど、どうしても今日、渡したくて。バレンタインだから」


 バ、バレンタイン????? それってあの、バレンタイン? 女子が好きな人にチョコ渡して告白するってやつ――??


 差し出された包みを受け取れないまま、おそらくこれで二本目の電車を逃し、完全に遅刻したことに気が付いた。


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