第三十六話 “名誉の負傷”をイジられる


「――いったい何があったのよ、昨日一日で」


 インターコンチネンタルホテルのロビーで、右腕にハイブランドのバッグのストラップを掛けたまま、警部はこちらを見るなり両手を腰に当てて言った。ワインパープルのワンピースに黒のロングコートとブーツ、アクセサリーはパールで統一している。お手本のようなデートコーディネートだ。

「いえ、特に何も」

 口の中がまだ血生臭かったが、あえてはきはきと答えた。

「何もないのにそんな酷い顔になる?」警部はため息をついた。「今から行くレストラン、それなりにちゃんとしたところなんだけど」

「じゃあいいです、遠慮します」と頭を下げた。「お疲れさまでした、また明日。失礼します」

「ちょいちょいちょい、待ちなさい」

「あ?」かなり投げやりに見返した。

「……いいわよ。わたしは常連だから、追い返されはしないでしょ」警部は腕組みをした。「個室を予約しておいて良かったわ」

 憮然として頭を下げた。言っとくけど、そっちが誘ってきたから付き合ってるだけだからな。文句言うならソッコー帰るけど。

「それで? 何があったの」

「訊きますか、まだ」

「興味あるわね。オタクの二宮くんには似合わない形相よ」警部はにやりとした。

「でしょうね。ボクだって初めてですよ、ここまでボコボコにやられたの」

 左のこめかみに名刺大の絆創膏、右目尻、鼻、左口角にバンドエイド、額に擦傷、服で隠れていて見えないが左脇腹にも大きな痣が出来ている。昨夜寮に帰ってからはそこらじゅうが痛くてなかなか寝付けなかった。奇跡的に左肩を攻撃されなかったのは運が良かったとしか言いようがない。

「まさか、今日の仕事中に何かあった? 課長からは何も聞いてないけど」

「違います。でもさんざんイジられました」

「じゃあやっぱ昨日なんだ」警部は頷いた。「マロンちゃんに本命の男でもいた? コワモテの」

「いいえ。可愛い見た目と同じく、性格も可愛いコですよ」ハアっとため息をついた。「おおむね順調です。ものすごくおっかねえ親父さんが突然訪ねてきたこと以外は」

「マジで?! 最悪じゃん」警部はくくっと笑った。「……そのお父さまにボコられたの?」

「何ですかそのアンバランスな表現。ええ、そうです、抵抗する間もなくね。ボクシングの元国体選手らしいです」

 彼女からそう聞かされて驚いた。和菓子職人なのにその振り幅は何だよ。

 警部は顔をしかめて首を振り、胸の前で両手を組み合わせた。「神よ、この気の毒な青年にご加護を」

「ありがとうございます。めっちゃ救われました」ふんと鼻を鳴らした。「ところで芹沢さんは?」

「パシフィコの駐車場。わたしの車を停めに行ってくれてる」

 そう言うと警部はあたりを見渡した。「――あ、いたいた。――貴志、こっち」

 振り返ると、グレーのチェスターコートに黒のニット、ボトムも黒のスリムレザーパンツにショートブーツという、相変らずバッチリ決まった芹沢巡査部長がこっちに向かってくるところだった。両手をコートのポケットに入れてのんびり歩いていたが、こっちの酷い顔を見つけると驚いて立ち止まり、右手で口元を塞いだ。

「……お疲れさまです」

 そばまで来た巡査部長に言った。

「どしたどした? 何があった?」巡査部長は笑いをこらえていた。「急に武闘派に転向?」

「転んだだけですよ」

「転んだだけでそんなにならねえだろ。のガサ入れの応援でも行ったか?」

 警部に車の鍵を渡しながら巡査部長は言った。

「彼女の部屋に居たところに、お父上の抜き打ち訪問を受けたんですって」警部が答えた。

「マジで? 最悪じゃん」巡査部長は片眉を下げた。「そんでそのオヤジにボコられたって?」

「……あんたたち、カップルで同じこと言うんですね」

「誰でも言うだろ。そんな顔見せられりゃ」

「個室取っといて良かったって言ってたの」

「だな。でなきゃいい晒しもんだ。そんなの嫌だろ?」

「どうでもいいですよ。どうせボクの顔なんて、芹沢さんとは違ってもともとたいしたことないんですから」

「またそれぇ? もういいって」

「すいませんね。酷い顔になった経験のない人には分からないかと思って」自棄やけ気味に言った。

「何言ってんのさ、俺だって何度もあるよ。突然どこからか彼氏だの元カレだの元ダンナだの兄貴だの弟だの親父だの、あと幼馴染みだのが現れてボコられたこと。おかげで前歯の一本は差し歯だし」

 巡査部長は指を順に折りながら言った。

「えっ」と言って警部を見ると、眉を寄せて巡査部長を睨みつけていた。しかし巡査部長は気づいていない。

「ま、名誉の負傷だな。俺のもそっちのも」巡査部長はにっと笑った。「男はこういう経験で大きくなると思っとこうぜ」

「……くだらない」

 警部は吐き捨てた。そして腕時計を見て、

「まだ少し時間があるわね。お化粧室に行ってくる」

 と言ってフロアの奥にすたすたと歩いて行った。

「……怒ってますよ」

「ああ。怒ってるな」

「ま、今さらですけどね」

「そうだよな」

 化粧室に消えた警部の後ろ姿を見送ると、巡査部長は振り返って言った。

「――な、ここのあと二人で飲みに行こうぜ」

「えっ? でも最終の新幹線に乗るんじゃ――」

「明日の始発に変更した。ホテルも延泊の手配済み」

「警部に内緒で?」

「うん」

「いいんですか、嘘ついて」

「だってさ、あいつがいたら話せねえこともあんじゃん」

「それってあなただけでしょ」

「まあそうだけど」巡査部長は頷いた。「その、オヤジさんが怖ぇ彼女のこと、俺は知らなかったんだからな。じっくり聞かせろよ」

「ところが、このまま終わっちゃうかも知れません。親父さんの監視が厳しくて、ほとぼりが冷めるまではしばらく会わない方がいいって、今朝彼女から連絡がありましたから」

「うん、ありがち。そこは通る道なのよ。何なら相談に乗るよ?」巡査部長は愉しそうに言った。

「……ボクの恋バナが酒の肴ですか」

「いいだろ。よりは酒が旨い」

 そう言って巡査部長はにやりと笑って、前方を指差した。「前に向かってる方が圧倒的に面白おもしれぇ。簡単じゃねえけど」

「……そうですね」

「じゃあまず、ここで腹ごしらえだな」巡査部長は腕組みした。「高級フレンチだってさー。もつ鍋でいいのによ」

「警部の行きつけの店だそうですね」

「そうなんだよ。ちょいちょいセレブなとこ見せて来るんだよな。本人は無意識なんだろうけど」

「ひょっとして、ボクらより階級が上だからご馳走してくれようとしてるとかだったりして」

「えっそうなの? だったら遠慮なく高いワインとか頼もうぜ」

「そういうとこ素直ですね芹沢さん」思わず笑った。「めんどくさい男のプライドとか振りかざさないんだ」

「そう? 普通だけど」巡査部長もにたっと笑った。「だって実際そうだろ。向こうの方が断然稼いでる」

「ええ、それはもう」


 やがて警部が戻って来た。しっかりと化粧直しをしたのが自分にも分かった。そばまで来ると「お待たせ」と言った警部に、巡査部長は「お、また可愛くなった」と微笑んだ。警部は嬉しそうに頷いた。さすがだな。ちゃんと褒めてあげるんだ。さっき機嫌を損ねたのも、これでチャラってわけか。やっぱ真似できないな。


 二人が並んで歩く、その後ろをやや離れて従いながら、あらためてお似合いだなと思った。少し前までのような嫉妬心ももう沸いてこない。

 すると、警部が何か言ったのを訊き直すように、巡査部長が警部に振り向いて首を傾けた。驚くほど柔和な笑顔をたたえている。京都で二日間行動を共にしたときに感じたような、孤独や排斥の空気もまったく無い。その美しい横顔を眺めながら、なぜだか少し誇らしい気分になった。 

 淡い気持ちではあったし、今はもう無いとはっきり言えるけど、自分が密かに想いを抱いていた女性の、絶対的にかけがえのない相手、圧倒的存在。見た目も中身も、同い年なのにまるで追いつけそうにない、だけどやっぱり追いついてみたい、挑み甲斐のあるライバル。そのくせ行き詰ったときは頼りになる、実に頼もしい――友人。

 独りよがりの片想いを勝手に空中分解させた代わりに、自分はそういう人物を得たのだと思った。そう思うと素直に嬉しかった。


 ――そうだ。警部が借りようとしている候補物件について、巡査部長はどう思って難癖をつけていたのか、このあと飲みに行ったときに訊いてみよう。自分が抱いた違和感と同じならちょっと嬉しいし、違うならそれはそれで興味がある。


 ふと警部がこちらに振り返り、改めて顔をまじまじと見て困ったように笑った。それにこちらも笑顔で返し、左側の口角がひきつって痛みを感じたが、そんな自分がどうにも今は愛おしかった。


 ――俺はたぶん、少しは成長したのかな。


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