第十七話 マロンちゃんの真実(前)
そのマロンちゃん。今日も可愛かった。
彼女が朝のメッセージで予測していた通り、夕方近くから雨になった。待ち合わせ場所のカフェに着いたとき、彼女はもう先に来ていて、大きなカップに入ったロイヤルミルクティーを半分ほど飲んでいた。
オフホワイトのケーブル編みのロングニットベストに同色のスウェット地のロンT、ゆったりめのデニム、オレンジ色のファー仕立ての巾着バッグ。ネイルとピアスはターコイズブルーで揃えて、髪は今日は下ろしていた。
「お疲れさまです」
マロンちゃんは読んでいた分厚い書物を閉じてにっこりと笑った。え、まるでまたメイドカフェに来たみたいだな。
「あ、お疲れ――」
「雨、ひどくなってきちゃいましたね」
「うん。きみが言ったとおりだね」
「私じゃなくて、天気予報です」マロンちゃんはふふっと目を細めた。
お冷を運んできたスタッフにブレンドコーヒーを注文し、あらためてマロンちゃんの前の本を見た。IT系の洋書で、見覚えのあるタイトルだった。
「勉強熱心だね。春休みなのに」
「休みのあいだだからこそ、研究以外の分野でも体力つけとこうと思って」
マロンちゃんは本をとんと叩いた。「今日、大学の図書館で借りたんですけど――私、あまり英語得意じゃなくて。難しい……」
「それが読めてるんだったら、充分だよ」
「二宮さんも読まれたんですか?」マロンちゃんはぱぁっと表情を明るくした。
「ずいぶん前だけどね。ボクも英語はあんまりだし、そこそこ苦労したよ」
マロンちゃんはうんうんと頷くと、幾つか貼った付箋の一つをつまんでページを開いた。
「特にこのページ。面白いんだけど、もう、用語の解説が難しくて。ここで最初の挫折が来ました」
「でも、今日借りてそこまでは順調に読み進めたんでしょ。すごいじゃない」
マロンちゃんは満面の笑みを浮かべた。勉強が好きなんだな。
コーヒーが運ばれてきて、マロンちゃんは書物を空いた椅子に置いた。それからスマホを手に取ると、親指でサクサクと操作しながら言った。
「二宮さん、お腹空いてますよね? なに食べます?」
「あっ、えっと――何でもいいよ」
「あーそれ、ナシですよぉ。ざっくりでもいいんで何か提案しないと」
「きみは何が食べたいの?」
「それもズルーい」と彼女は笑った。「奈那はねぇ、実を言うとさっきちょっと食べちゃったんです。ここのパンケーキ」
ほんと、女子ってパンケーキ好きだよな。俺もパンケーキ職人になれば良かった。あと、さっきまで自分のことを私と言っていた彼女が、名前で呼んだのに気づいた。なぜだろう。話題によって変えるのかな。
「来るのが遅くなったからね。ごめんね」
「全然平気です。お仕事大変なんでしょ? 予定通りになんて行きませんよね」
「まぁ、年中なんだけど」
「今はどんな事件を捜査してるんですか?」
「それはちょっと――」
「あっそうか、言えませんよね。守秘義務ってやつ。訊いちゃダメ」
そう言いながらマロンちゃんは眉を寄せて厳しい顔を作り、人差し指を唇に当てた。ころころと変わる表情が、とても可愛い。
「――それで、さっきからスマホで何を見てるの?」
「ご飯食べに行くとこ。調べてるんです――あ、飲茶なんてどうですか? ここ、美味しそう」
マロンちゃんはスマホの画面をこちらに向けた。グルメサイトのページだった。
「……中華街か」視線を上げた。「管内、なんだよね」
マロンちゃんは不思議そうにこっちを見ている。ピンと来ていないらしい。
「あ、うちの署のね。担当区域なの。ここ」
「行っちゃダメなんですか?」とマロンちゃんは目を見開いた。「なら一生中華街行けませんよ?」
「そういうわけじゃないんだけど。なんて言うか、その――」
「あっごめんなさい、それも機密事項なんですね」
いやいや、いろいろ違う。突っ込みどころ満載だ。
「そうじゃなくてね。行っちゃダメとかはないんだけど、ボク自身が今日はちょっとなぁって思ってて。非番の日ならいいんだけど、仕事帰りだし。何となくだけど、仕事の延長感を持っちゃうっていうか。そうなるといろいろ気持ちの上で邪魔で」
「あー、分かります。奈那もバイトのあとはソッコー帰りたいかも。アキバで遊びたいときは、別の日に出直すことが多いです」
「あと、一生行けないこともない。そのうち異動もあるし」
ホントだ、とマロンちゃんは肩をすくめた。
「じゃあじゃあ、どこにします?――あ、ここはどうですか? クラフトビールとロティサリーチキンだって。美味しそう! ここから近いし」
「え、ああ、そうだね」
電話してみますね、と言ってマロンちゃんはこちらに向けていたスマホの画面をタップして耳に当てた。お腹、減ってないんじゃなかったのか?
すると彼女は抑えた声で通話しながら、バッグから小さく畳んだナイロンバッグを出して広げ、脇に置いた書物を入れた。どうやら店を出る用意をしているらしい。せっかちと言うより、実に手際のいいコだ。こちらも残りのコーヒーを流し込んで伝票を持った。
「大丈夫。席、取っときますって」
マロンちゃんはウィンクした。荷物と傘を持ち、キョロキョロとテーブルを見渡すと、こちらが手にしている伝票に視線を止めてあっと言った。
「私、払いますよ」
「なに言ってんだよ」と笑って立ち上がった。
「だって、パンケーキも食べたし」マロンちゃんも席を立つ。
「待たせたのはボクだから」
そう言ってテーブルを離れた。「大丈夫。きみのバイト代よりは給料貰ってると思うよ」
「……すいません。ごちそうさまデス」
マロンちゃんはぺこりと頭を下げた。
クラフトビールにハーフサイズのロティサリーチキンとフルーツサラダ、タコのセビーチェ、イワシのコンフィ、それとアヒージョを注文したら、あっという間にテーブルがいっぱいになった。そもそも、さほどお腹は空いていないと言いながら、これだけのメニューを食べたいと言うマロンちゃんに驚きだ。彼女といい警部といい、どうも自分の周りの女性には大食いが多い。そういや三つ下の妹もよく食べる。
ともあれ料理を味わいながら、まずは共通の趣味であるゲームやアニメの話で盛り上がった。ゲームにしてもアニメにしても、彼女はそれぞれのあらゆるジャンルに精通していた。そう、かなりの猛者だ。そして、自身がアキバで働いているのも関係してか、いわゆる地下アイドルというものにもなかなか造詣が深かった。正直、これらのジャンルでここまで会話が白熱する女性は、自分にとっては彼女が初めてだ。素直に嬉しかった。
そして、一通り話し尽くしたあと、どういう流れか話題はそれぞれの生い立ちを含めた家庭環境へと移っていた。
父親は化粧品メーカーの研究所長、母親はフランチャイズの学習塾を経営、結婚して家を出た英語教師の姉と損害保険会社に勤める妹がいるというこちらの平平凡凡な家族構成をどういうわけか至極興味深げに聞き、なぜだか分からないが「いいなぁ、いいなぁ」と羨ましがったマロンちゃんは、やがて自身について話し始めた。
「――実はね、私の母は、私を連れて今の父と再婚してるんです」
「そうなんだ」
それがあたかも負のイメージとして受け止めていると勘違いされないよう、極力平坦な口調で返事をした。いや、そう思うこと自体本当は失礼なのかもしれない。
「私の実の父は、私が三歳にもならないうちに脳の病気で亡くなりました。まだ三十一歳だったそうです」
何も言えなかった。さぞ無念だったろう。
「で、母は私を育てるために働かないといけないでしょ。でも元いた職場は、小さな子供を抱えて続けるにはまったく理解のない会社で。
「お父さんは何の会社を?」
「会社じゃないです。老舗の和菓子屋さん。あ、でも今は会社になってるかな。株式会社、うん、そうだ」マロンちゃんは頷いた。「お父さんはね、母の幼馴染なんです」
「へえ」
「小学校のころから、同級生の母のことが好きだったみたい。すごく真面目な人で、母のことを親身になって支えてくれました。母もその厚意に応えようと一生懸命働いたそうです。最初はお菓子の工場で働いて、それからデパートに出店したきっかけでその売り場に出て。それで、私が小学校に上がるころかな。父が、自分の両親――今のおじいちゃんとおばあちゃんですけど――と一緒に、私と母が暮らすマンションにきて、奈那ちゃん、お母さんをお嫁にくれないかって、私に言ったんです」
なるほど。つまり彼女の母親自身からは既に承諾を得ていた上での訪問だったんだな。
「私、びっくりしちゃって。嫌とかじゃなかったけど、わけ分かんなくて、パニクって、それで大泣きしたんです」
「そりゃ驚くよね」
「はい。だって、当時の私には再婚とかいう概念まだないですから。そしたらね、今度は父とおじいちゃんとおばあちゃんたちが超慌てて。ごめん、奈那ちゃんやっぱり嫌だよね、今の話は無しにするよって。奈那ちゃんはこれからもお母さんと二人で仲良く暮らしたらいいよって」
「おや」
「で、それを聞いた私、すっと泣き止んで――『なんで? みんな一緒にここで仲良く暮らせばいいよ!』って叫んだんです」
「あははは」
何となく想像がつく。さぞかし子供の頃から元気だったんだろうな。
「それでね。結果、母は私を連れて今の実家に嫁いだんです」
マロンちゃんはにっこり笑った。「父は私をとても大切に育ててくれました。初婚で、まだ三十代半ばだったのに自分の子供は持たずに。私は女だし、おじいちゃんもおばあちゃんも跡取りが欲しかったに違いないのに。中学生の頃は、私が和菓子職人になるか、無理だったら和菓子職人のお婿さんをもらって跡を継がないとって思ったこともありました。でも、どっちも考えられなくて――それどころか、高校生になったときどうしても叶えたい夢を持ってしまって」
マロンちゃんは俯いた。本当に申し訳なく思っているのだろう。
「どんな?」
「AIエンジニアです」
伏し目がちにそう言うと、マロンちゃんは顔を上げて真っ直ぐに見つめてきた。
「……実の父も、そうでした」
黙って頷くしかなかった。
空になったクラフトビールのグラスに、店の照明が憂いを帯びた光を落としているかのように見えた。
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