【転】の章

第二十二話 怒涛の幕開け


 案の定、翌朝起きると少し喉が痛かった。熱はないが頭もちょっと重い。そのせいもあってか、ベッドから出るのに時間がかかってしまった。だがダラダラとしていても仕方がない。念入りにうがいをしてしっかりと朝食を摂り、頭痛薬を飲んだ。

 今日は十日ぶりの当直勤務の日だった。本来は週一でシフトが回ってくるのだが、他係の捜査員のやむを得ない家庭の事情が影響したらしく、今回はイレギュラーなパターンだった。警察がブラック職場なのは紛れもない現実だが、働き方改革の波が寄せて来ていることも確かだ。さざ波程度だけど。


 当直勤務は夕方五時からだったが、その前に確認しておきたいことがあった。中川の動きだ。昨夜の今朝でさすがに何もしてこないとは思うが、もしかしたら逆に意固地になるきっかけを作ってしまったかもしれない。ストーカー事案の難しいところだと分かってはいたが、警告すること自体は必要だったから、あとは適切なアフターフォローだ。とりあえず、今朝中川が出勤しているか、していないとしたらどこで何をしているのか、その確認だ。それから、中川が一昨日の夜に遠藤さんのマンション付近の防犯カメラに映っていたという状況証拠しかない現状を進展させるため、彼女が中川からつきまとい行為を受けている現場の目撃情報を探すつもりだった。当直勤務を控えて決して万全とは言えなかった体調だったが、寮で寝ているほどのことでもなかったし、幸い今朝はまだ比較的暖かい。だんだんと春が近づいて来ている。


 その前に、まずはパソコンの前に座り、いつもの仲間達とコンタクトを取る。しかし‟夜行性”の彼らの睡眠時間帯に入ってしまっているせいか、中川のに協力してくれそうな人物からは反応がなかった。

 モニターの時刻表示を見るとちょうど九時だったので、リハビリ施設に電話を掛けた。リハビリの予約日程を変更して欲しいので担当の中川さんをお願しますと言うと、案の定、中川は本日お休みをいただいていますとの返事が返ってきた。ではまたあらためますと電話を切った。


 ――どうする。中川の自宅へ向かうか。だが休暇を取っているのだから外出する可能性が高い。自宅は青葉台あおばだいだからここからは電車を乗り継いで四―五十分はかかる。仮に今は自宅に居たとしても、そのあいだに家を出られたらただの無駄足だ。

 そして、その外出先が遠藤さんのマンションだとしたら――


 やっぱり時間がないな、と自分に言い聞かせ、仲間の中で唯一スマホで連絡の取れる人物にコンタクトを取った。

 幸い、こちらの呼びかけにすぐに反応があった。依頼を送ると、高くつくぞという短い返事が返って来て、その約三分後には「完了」との報告があった。添付されたURLを開くと、横浜市北部の地図と、その中に赤い風船型のマークが現れた。中川の現在地だ。つまり中川は――厳密に言うと中川のスマホは――そこにいる(ある)。拡大して住所を見ると、青葉台となっていた。良かった、まだ自宅に居るらしい。

 依頼を受けてくれた相手に礼を言って、ついでにこの短時間でどうやって辿り着いたのか(つまりはどこに潜り込んだのか)訊いてみた。こちらにも想像はついていたが、それが正解かどうか、つい確かめたくなったのだ。すると即座に、

「殺すぞ」

 との物騒な言葉が来て、それっきり反応がなくなった。どうやら一時的にブロックされてしまったらしい。はい、ごめんなさい。

 この人物は、とある大手IT企業にSEとして勤める‟元”ホワイトハッカーである。一般的なSEの年収よりはるかに高収入なのになぜ辞めてしまったのかは詳しく知らない。あとこれは余談だが、仲間うちでいわゆる給与所得者なのはおそらく自分とこの人物だけだ。それから、知り合ってからこれまでの数少ない言葉でのやりとりの端々から察するに、どうやら女性のようだ。定かではないが。


 ともかくこれで中川の動向は確認できる。あとは、遠藤さんのマンションの周辺を聞き込みして、やつが彼女につきまとい行為をしていたという形跡を探すことだ。もしそこで見つけられなければ――いよいよやつの職場での証拠集めに着手するしかない。しかし、次期病院長の夫という立場を考えるとそれは決して簡単ではないのは分かっていた。おまけに一部の職員にはこちらの正体も知られている。だからできることなら病院に乗り込むことは避けたかったが、遠藤さんのマンション周辺での聞き込みが不発に終わればそれも覚悟しておかないとな。

 クローゼットの抽斗からいつもよりやや厚手のアンダーシャツを取り出して着て、ヒートテックのインナーボトムを穿いた。ボタンダウンのシャツにVネックセーターを着て、スーツを合わせた。そして液体タイプの葛根湯を一気飲みすると、のど飴を口に放り込んでマスクを着用し、寮を出た。


 駅へと向かう途中の信号待ちをしているときにコートのポケットからスマホを取り出し、中川の現在地を確認した。するといつの間にか自宅から出て、東急田園都市とうきゅうでんえんとし線の青葉台駅方面に向かって広い通りを移動していた。

「えっ――」

 詳しく確認しようとしたところで信号が青になった。はっきりさせたかったが、ここは早く駅に向かった方がいい。スマホをポケットにしまうと横断歩道を渡り、歩調を速めた。駅舎に着くと、自販機の誘惑に負けてデミタスタイプの缶コーヒーを買い、改札の手前で飲みながらもう一度スマホを開いた。

「どこ行きやがった……」

 赤いマークが示す地点は、中川の自宅からほど近かった。そしてそこには産婦人科医院の表示があった。


 ――ああ、なるほど。中川の妻は妊娠しているというわけか。それで欲求不満が募って、元カノに未練がましくを出そうとしたってことらしい。


「……クズな上にゲスかよ」

 飲み干したコーヒーの缶をゴミ箱に捨てると、改札へ向かった。



 遠藤さんのマンションの最寄駅に着き、改札を出ようとスマホを取り出したところで警部から着信があった。

「――おはようございます」

《おはよう。今、寮?》

「いえ」

《どこにいるの?》

「……菊名きくな駅です」

《遠藤さんに会いに?》

「いえ、会うと言うより、彼女の自宅付近をちょっと回ろうかなと」

《回ってどうするの?》

「中川が彼女につきまとったり、彼女を待ち伏せしてたことが裏付けできる目撃証言でも取れないかなと思って」

《あなた一人で?》

 何だよこの尋問。出勤前の行動予定まで事前承認受ける義務あったっけ? 出勤したときにちゃんと報告しようと思ってたから。

「……まぁ、やれるだけやってみます。あと、実は今日、中川が休暇を取ってるんです。ひょっとしたら――」

《それはどうやって確認したの?》

「リハビリ施設に電話しました。予約の日程を変更したいからと呼び出してほしいと言って」

《ふうん》

 警部の質問の意味は分かっていた。またこっちが禁じ手を使ったのではないかと疑っているのだ。……もういろいろ使ってるけど。

「――それで、いずれまたこのあたりに現れるかもしれないので、張り込みというか、少しパトロールを――」

《その必要はないわ》

「どうしてですか」

《彼女の自宅付近のパトロール強化は、わたしから所轄に依頼済みよ》

「えっ?」

《――新横浜署にね。がいるのよ》

「キャリアの同期ですか」

《違う。わたしが同期に協力を仰ぐと思う?》

「……ないですね」思わず笑みがこぼれた。

《でしょ。詳しいことはまた後で話すわ。電話をしたのは仕事の案件についてよ》

「はい、何でしょう」

《ちょっと気になることがあって。どこかで落ち合えない? わたしがそっち方面へ向かうわ。少し遠出になるから》

「分かりました。じゃ、横浜駅で待ってます」

《――いえ、ちょっと待って。菊名なのよね。じゃあ東神奈川ひがしかながわ根岸ねぎし線に乗り換えて、秋葉原へ向かって》

「秋葉原ですか?」

 どういうことなんだとの疑問が沸くと同時に、マロンちゃんのことが頭に浮かんだ。

《ええ。わたしも石川町ここから乗るから。途中で連絡を入れるわ》

「……分かりました」



 逐一連絡を取り合ったおかげで、警部が乗ったのと同じ電車に乗り込むことができた。どの車両もそこそこ混み合っていたのであえて車内では合流せず、秋葉原までそれぞれ一人で過ごした。途中、何があったのかとスマホから警部に訊いてみたが、警部は「あとで」との返信を最初に寄越してきたきり、その後のこちらからの探りの送信には一切既読を付けなかった。こういうところは本当に意志が固い。


 秋葉原に着き、改札に向かう前に警部と合流出来た。お互い速足で歩きながら、黙ってエスカレーターを下り、中央改札を出た。

 そこでやっと警部が口を開いた。

「お洒落なスーツ着てるわね。似合ってる」

「あ、どうも。ありがとうございます」

 中にセーターを着たのでややカジュアルになったからと選んだ、ネイビー系のウィンドウペン柄のスーツだった。

「――で、どこに行くんですか」

 警部に向き合うとコートのポケットに両手を入れて見下ろした。「いや、やっぱその前に、何があったのか教えてください」

 警部はじっとこちらを見上げていたが、やがて一つ大きなため息をつくと言った。

「――昨夜遅く、この近くで通り魔事件があったの」

「え?」

「被害者は女性。頭部を固い凶器で強打されて、病院に救急搬送されたものの意識不明の重体。予断を許さない状態らしいわ」警部は唇を噛んだ。「アルバイトを終えて同僚と遅い夕食を済ませて駅に向かっていたところで、いきなり襲われたらしい」

「そ、それで……?」

 ざわざわと胸の奥から不安が沸きあがってきた。動悸すら覚える。まさか。

「大丈夫。あなたのマロンちゃんではないわ」

「……そうですか」心底ほっとした。そしてすぐに気づいた。「いや、『あなたの』って」

「ふふ、そこはちゃんと反応するのね」

「あ、いや」頭を掻いた。「でも、その一件がどうしてウチの事件ヤマと関わりがあると? 話を聞く限りウチの今までの五件とは明らかにタイプが違うんじゃないですか」

「ニュースで見たときは私もそう思ったわ。でも念のためと思って詳細を調べたら、気になる点が一つ」

「何ですか」

「病院に運ばれるまではかろうじて意識のあった被害者が、救急隊員に話したそうなのよ。『で殴られた』って」

「赤い――」

 そう呟いて、はっと目を見開いた。すると警部が言った。

「ええ。例の、何度も呼びつけて目撃情報を小出しにする工務店の社長の証言よ」


 ――犯人らしき人物の持っていた凶器のようなものには、赤いビニールテープか布のようなものが巻かれていた――

 

「……でも、なんで今になって東京で?」

「それを今から解明するのよ」

 警部はショルダーバッグのストラップを肩に掛け直した。「秋葉原署に向かう。話はつけてあるから」

「え、だったら出口はここじゃないですよ」

「違うの?」歩きかけていた警部は振り返った。

「ここ、中央口。秋葉原署は電気街口方面です」

「……早く言ってよ」

「それ、そっくりお返ししますよ」向きを変えながら反論した。「途中で事情を訊いても、ぜんぜん教えてくれなかったじゃないですか」

「知ーらない」

 警部は言って、あははと笑った。


 そしてここから、自分史上かつてない究極にハードな三日間が始まることを、当然のことながらこのときはまだ知る由もない俺だった。


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