第35話 歩んだ足跡

 夕闇の中に染まっていく去山の街。その一偶で、一人の男が立ちすくんでいた。彼の前に佇む4人の集団。そのうちの一人にポケットの中身を指摘された彼は、何ともつかぬ引きつり笑いをたたえて硬直している。ひとしきり時間が経って、彼は動き出した。

 俺はこの上なく焦っていた。まだ帰り道に後輩たちに会うだけなら良かったのだ。ただ連絡をして帰ればいいだけなのだから。でも、あろうことかポケットの中身を失念してしまっていたのだ。そこには今1年生はおろか誰にも見せたくないもの、退部届が入っている。これを見せてしまっては終わりだ。人が自分の意志でやめていくような部活なんだと思われてしまう。そうなれば、今日見学した3人は絶対に入ってくれないし、そればかりか、かろうじて入ってくれた優磨の居心地をも悪くしてしまうかもしれない。俺の退部という最後のわがままで、部の将来すら揺るがすわけには行かないのだ。

「先輩……? 」

どう切り抜けたものか迷う俺に優磨の目線が迫ってくる。緊張と後ろめたさで足元が覚束なくなってきた。突如、頭にひらめきが走る。俺はふと退部届を入れた時のことを思い出した。俺は確かあのとき、書かれた内容を内側にして折り、制服のポケットにしまっていた。つまり、外からはこのまま出しても一切中身は見えないのだ。事ここに至ってその事実に気づいた俺は暗闇の中の光を見た思いだった。しかし、俺が言い募ろうとするより早く、さらなる陽光が俺の心を暖めた。

「いや、こっちがごめんなさい、先輩。聞くようなことじゃなかったです。答えなくて大丈夫ですよ。」

やはり、策にまみれて汚れた人間を救うのはより清らかな人間の言葉だ。優磨は少し観念するように苦笑を浮かべ、申し訳なさそうに呟いた。あいつみたいな後輩にあんな顔をさせるのは俺だって忍びない。

「先輩なのに困らせてごめんな、優磨。すぐに答えなかったこっちこそ悪い。」

そう聞いた優磨は、さらに悲しそうな顔をして何か言おうとした。心優しいあいつのことだ。このままだと謝りの水掛け合戦になってしまうのは目に見えている。

「それでさ優磨。」

それならばと俺は用件を言い、未然に防止しようと努める。

「ん? なんですか? 」

さっきのことがまるで無かったかのように、優磨はまた屈託ない笑顔を見せる。なんだかこっちがすごく下等なものに見えてきた。ここまで純粋で素直で、悪く言えば人を疑うことを知らない優磨。こいつを騙して何かを信じ込ませることは俺にはできない。俺が間違っていた。また、心の傷に楔が打ち込まれていく。そのたびに胸はどくんどくんと強く痛んだ。

「あのさ、優磨って新歓の日はいつか知ってるだろ? 」

「はい!! 明後日の金曜日と、来週の月曜日ですよね!! 」

「そうだ。それで、優磨にはクラスとか知り合いの1年生に宣伝してほしいんだ。明後日と来週の月曜日にこれやるから来てくれってな。」

「え!? 本当にいいんですか? 」

ただの依頼のはずなのに思いの外喜ばれた。少し離れていたあいつは、ものすごく嬉しそうな顔をして一気に距離を詰めてきた。こっちも反応に驚いて、思わず数歩距離をとってしまう。

「え……いいって、うん。今の1年生で正式に入部してるのは優磨だけだからな、よろしく頼むぞ。ところで、どうしてそんな反応を……。」

聞かないほうがいいとわかってはいた。でも、聞かずにはいられなかった。特に表情を変えることもなく優磨は答えていく。淡々と、聞いてほしいかのように。

「ああ、僕、部紹介のあとくらいから演劇部についてクラスメートに結構喋ってたんですよ。部活見学に行ってからは特に。でも、それを言うたびにみんなに、お前は入部もしてないのになんでそんなことが言えるんだ。誰の権限でそんなこと言ってるんだって言われてちょっと傷ついてて……。でも、もうちゃんと演劇部員ですもんね!! 言っていいんですもんね!! 」

なるほど。誰の権限でなんてひどいことを言う同級生もいたものだ。楽しいと感じたことを人にわかってもらいたいと思うのは当然の帰結では無いのか。それすらも誰かの差金だと否定していくのか。いつしか怒りが優磨をなじったクラスメートに向いてしまっていた。慌てて話の照準を戻す。

「そうだよ。そんな人の目なんか気にする必要無いんだ。思う存分やってくれ。」

「ありがとうございます!! あの、どういうことを言えばいいんでしょうか。」

言われてみれば当然の質問ではある。説明不足を侘びてから、スマホの画面を見せながら説明を始める。液晶にはちょうどクリスマス公演の時の宣伝画像が写っていた。

「えっとね、前回のときはこういうふうに絵も描いてもらったんだけど、それは別になくてもいいかな。ひとまず、日時、場所、作品、作者くらいでいいかな。それに一言おすすめコメントを載せて、タイムラインとかに上げてもらえばいいかな。そうじゃなかったらクラスラインとか、できるだけひと目につくところがいいかな。と言ってもツイッターとかは流石に対応しきれないけど……。」

「わかりました!! じゃあ、確認しますね。今回だったら、明後日と来週の金曜日の4時15分からやること、去山高校の3階、視聴覚室でやること、作品は柳田駿さんのセーフティースクイズ。後は、僕個人の意見でセールス文を書けばいいんですね? 」

こいつは飲み込みも早いようで本当に助かる。逸る優磨に、俺は思い出した追加事項を言伝る。

「あ、あと、教室で明日と明後日の帰りのホームルームの時間に言ってほしいんだ。言う内容はラインとかと同じでいいから。」

「わかりました!! 」

そう言って明るく笑った優磨だが、直後に顔を少し曇らせた。まだ何か心配なことがあるのかもしれない。

「あの……、国之先輩。このことで、演劇部は入ったばっかりの1年生を利用する部活だって思われたりしませんか? 」

「え? どういうことだ? 」

1年生を利用するとはどういうことなのだろうか。

「えっと、何ていうんでしょうか。入ってきたばかりの一年生をこう……不正に使うといいますか。入部したとはいえちゃんとした活動は新歓終わってからだって清水先生に言われたんですよ。だから……」

つまり、今の時期は入部したのに正式な活動はしていない期間。その時期にちゃんとしたような活動をするのはどうだろうかってことなのだろう。演劇部は入部早々働かされる部活だと悪く思われないだろうか。そんな懸念を優磨はしているらしかった。確かに思われることもあるかも知れない。でも、俺には持論があった。

「そういうやつには言わせておけばいいんだよ。ほっとけないかもしれないけどさ。それに、いい芝居の宣伝は優磨だってしたいだろ? いざとなったら、これは個人的なものだって言えばいいし。そもそもこの宣伝だって誰がやるなんて正式に決まってるもんじゃないんだから。だから安心して、大手を振ってやっていい。」

「そうなんですか……」

平坦な口調とは裏腹に、話しているうち、段々と優磨の顔から不安が消えていくのがわかった。最後には笑顔になって、俺に話しかけてくる。

「先輩!! 話したおかげで心置きなくできそうです。あと、初仕事、ありがとうございます!! 言われたとおり、頑張ってきます!! お疲れ様でした。」

そう言い残して、優磨は十字路を真っ直ぐに駆けていった。夕日の微かに残ったかすが彼の姿をおぼろげに照らしている。そういえば、これがあいつの演劇部での「初仕事」になるのか。入部してから引退までの間に幾度となくこなす仕事。その任命第一号になれたことに、演劇部の志田優磨という部員の歴史に名を残したことに俺は少しの誇りと嬉しさを持っていた。さて、俺も優磨よろしく宣伝をしよう。きっと、これが演劇部として舞台の外でやる最後の仕事になる。せめて最後くらいは迷惑をかけず、少しでも貢献してから去っていこう。十字路を折れて帰る俺はぼんやりとそんなことを思っていた。

 家に帰り着き、すぐさま宣伝しようとラインを開く。タイムラインは後輩に任せて、とにかく俺はクラスラインに宣伝をしよう。新歓公演においては新入生以外、2、3年生の集客も鍵になってくる。新入生の部室への入りやすさが段違いなのだ。送信が終わり、たった今送った緑の吹き出しをぼんやりと眺めた。俺はもう一つの報告を完全に失念していたと気づき、部活グループを開く。

「優磨に宣伝のこと依頼しておきました! 明日と明後日の帰りのホームルームで言ってもらうこと、ラインにもできれば上げてもらうことを連絡しました。それで大丈夫ですか? 」

やはり、待てど暮せど既読はつかない。大きくため息を付き、俺はスマホを置いた。頭が段々と朦朧としてくる。

 いつの間にか、俺は真っ暗な中にいた。闇の中、なんとか抜け出そうとしてもがくが周りが全く見えないため状況が掴めない。手足を必死に動かして、何かに触れようと、手がかりを探そうともがき続ける。その右手が不意に、なにかに触れた。一瞬の希望を抱いた瞬間、世界が一変する。あたりはクリムゾンレッドの明かりに包まれ、俺が掴んだものの正体もわかった。それは、いつも部活でよく見るジャージを着ていた。その後ろ姿は、まごうこと無き幹彦だった。

「み……」

肩に手をやり、声をかけようとした瞬間、「それ」は振り向いた。肉のない骨と皮ばかりの顔、土気色の肌。目はなく、眼窩だけが不気味にくぼんでいる。「それ」は、手にした金属バットを振り回し、声にならないうめき声を上げて追ってきた。俺は声も出せずに走り出した。こんなところ、どこかもわからない異郷で殺されるわけにはいかない。俺はひたすらに逃げ続けた。何もない、ひたすらに土だけが広がる荒野。途中、「それ」の数は逃げるごとに膨れ上がり、最後には10体にまでなっていた。走る。走る。逃げ続ける。うめき声から逃げ続ける中で、空の遠くから一筋の光が見えた。すがりたい。と強く思った。それに手を伸ばした刹那、躓き、転んでしまう。取り押さえられ、頭上にバットが振り下ろされようとする。俺は意識を手放した。

 その実は、何事もない朝だった。違うのは体にびっしょりと汗をかき、心なしか泣いていた跡があるということだ。何という夢を見てしまったものだ。本番前日だというのに。嘆息しつつも、俺は優磨に言った宣伝の件を思い出す。優磨が1年への宣伝をするなら俺は2年へのそれをしよう。なにか爪痕を残しておきたい。俺はいつしかそう思っていた。

 その前の授業はよく覚えていない。何はともあれ、勝負の帰りのホームルーム。

「なにか連絡のある人はいるか? 」

聞き慣れた清水先生の声が戦闘開始の合図だ。俺は間髪を入れず手を付きあげる。

「はい、東田くん。どうした? 」

そういう先生の顔は、呆れ半分嬉しさ半分。どうしたと言いつつも、何を言うかはもうわかっているようだった。

「演劇部からです! 明後日の4時15分から、3階視聴覚室で演劇部の新歓公演をやります!演目は、柳田駿さん作のセーフティースクイズという野球のはなしです。新歓公演と言っても、在校生の人たちも大歓迎するので、お気軽に見に来てください! 明後日以外にも、来週の月曜日に同じものをやるので、もし明後日の都合が悪ければそちらへ足をお運びください。たくさんのご来場お待ちしています!! 以上です。」

俺はなんとか言い切り、椅子に座り込んだ。俺を見つめる先生の目が、いつもより暖かい気がした。

 ひと仕事終えた気分で、よたよたと部室に向かう。しかし、これはまだ前座でしかないのだ。今日は最後の通し、そして明日にはいよいよ本番が待っている。それまで泣き言を言っている暇はない。最後の公演なのだから。せめて爪痕を残して、後悔しないで終わろう。

 ゆっくりと、確実に部室へ向かう俺の姿を、午後の陽光が柔らかく照らしている。新歓が全て終わるまでが、演劇部での活動なのだ。逆光に目を細めながら、また一歩ずつ歩いていく。

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