第38話 決戦へ

 泣いても笑っても最後の練習が終わった。俺は半ば諦め、半ば明日への希望に満ちて列車に乗りこんだ。まだ来週の月曜日がある。そういう見方もできるが、仮にも演劇をする者としてはその回その回をベストの状態で見せたい。ましてや、今回は俺の最後と公演となるはずなのだから。いつもと変わらぬ走行音で列車は去山駅を滑り出た。俺も、一緒に乗っている先輩達も話す素振りは見せない。同じ場所にいても体は違う方を見ている。少しの寂しさを感じ、俺は願う。せめて、せめて心だけは同じ場所、同じ方向を向いていてほしいと。列車はダイヤグラム通りに街明かりの中を走っていく。乗客たち一人ひとりの思いを載せて。

 家に帰り、ふとラインを開くと優磨からのメッセージが来ていた。

「先輩!! 明日は頑張ってくださいね!! 絶対に見に行きますから。育美、菜々子(ななこ)、諭(さとし)、みんなさそっていきますから!! 」

育美、菜々子、諭。見たこともない名前だ。もしかしたら前に来ていた見学者の人たちだろうか。もしそうだとすればかなり心強い。できるだけ多くの人に見てもらいたい。俺は心からそう感じている自分に気付いた。どうやら、俺は思っている以上にこの台本、柿田光輝という役が好きらしかった。その気持ちに少し切なさを感じつつも、俺はまたスマホを見つめる。どうやら俺にはスマホの相手の様子が浮かぶくせがあるようだ。一美のときも、先輩達とラインをするときもそうだった。この画面も、きっとあいつは嬉しそうな顔でこれを書いていたのだろう。あいつの素直さはこれからの部活で武器にもなりうるが諸刃の剣だ。でも、演劇にかける情熱は本物で、それは紛れもない大きな武器だ。そういうやつが一人でもいれば部活は安泰だ。と、優磨とのチャットに新たな白フキダシが投げ込まれてきた。

「国之先輩、今練習終わりでしたか? お疲れ様です!! 明日の分の宣伝もバッチリしときますから。先輩、心置きなく演劇を楽しんで来てください!! 」

やっぱりこいつはいい後輩だ。思わずやっぱり表情がほころぶ。

「おう、ありがとう!! 宣伝よろしく頼むぞ!! 」

返した刹那、俺は気づいた。優磨に言われたことは今までの誰とも違う。「セーフティースクイズを楽しむ」、「柿田を演じることを楽しむ」ではなく、「演劇を楽しむ」。演劇自体を楽しむという新しい発想に、俺は思わず驚きを禁じ得なかった。考えてみれば、俺はそれぞれの芝居づくりを楽しんでいたことはよくあった。なんだかんだで今回の新歓公演も楽しんでいたし、クリスマス公演も辛い中だったが芝居を作っていくことに喜びを感じていた。しかし、演劇自体を楽しめていただろうか。自分ではない他の者になりきり、その人生の一部を追体験する。あるいは音響や照明として彼らをサポートする……。思い出して考えたものの、結局明確な答えが出ないままだった。しかし、何となく確認したいような気持ちだった。

 半ば諦めて画面を戻ると、由香里先輩との個人チャットにも赤地に白の1。メッセージが来ているようだ。

「国之、今までほんとに頑張ってきたよね。舞台の中でも外でもすごくお世話になったね。入部した頃と比べると演技もものすごく進歩してると思うし。とにかく明日、まずは一日目全力で頑張っていこう。よろしくね、光輝。」

由香里先輩の優しげな笑顔が浮かぶ。今日のことは大丈夫だったか聞こうと思ったが、やはり本番直前にストレスを与えるわけには行かない。指は虚空を掴んで止まった。代わりに俺は返信をすることにする。

「ありがとうございます!! こちらこそよろしくお願いしますね。イメとバックアップはおまかせしました!! 頼みます、今川!! 」

そういえば、由香里先輩とも演出替えが無かったら共演しなかったかも知れないのだ。そう考えると、人の縁とは奇遇なものだ。ふとさっきの疑問を解決したい衝動に駆られる。考えるより先に、俺は動いていた。

「あの、由香里先輩、演劇を楽しむっていうのは、どういうことでしょうか? 」

自分でも半ば答えの出ている質問を、確認の意味も込めてもう一度する。俺の顔を少しの罪悪感が一瞬撫でた。

「それはやっぱり、いろんな芝居に関係なく純粋に演じることや、それを支えることを楽しむってことじゃないの? あとは、脚本を書くとか、道具を作るとか、各公演の枠を超えてそれを楽しむってことなんじゃないの? 」

「そうですか……。そうですよね。」

「本番前日だよ? 急にどうしたの? 」

一瞬迷った。退部のことを話してしまおうか。俺は言おうかと思ったが、やっぱり言うことなんて出来ない。もう演劇部をやめるから再確認しておきたかったなんて、言える訳はなかった。由香里先輩を悲しませ、苦しませてしまうことは想像に難くない。

「いや、なんとなくです。つい聞きたくなって。ごめんなさい。」

「そっか。疲れてるだろうから早く寝なよ。」

「はい!! 明日は最高の舞台にしましょう! 」

何とかなった。相手が苦しむくらいなら、自分の小さな悩みなんて解決されなくていい。

 クラスに宣伝をしようと連絡先チャットのページを繰る俺の手が、再び止まった。「幹彦」。鮮やかな液晶に文字が映る。それは今回の本番をする上で避けられない名前、俺が忘れたくても忘れようとしても忘れられない名前だった。こいつにとも言っておきたい。せめて最後の公演なのだから。でも、きっとあいつは来ない。来られるわけがない。将来の為なのだから、どうしようもないことではあった。でも、葛藤の末結局去ってしまった場所に簡単に戻ってこられるわけは無かった。俺はまたしばし悩む。グローブの事もあるから、頭では「迷ったらやめる」べきだとわかっていた。しかし、これは最後の公演だ。もう去山高校で芝居をすることは無くなる。最後の勇姿を見てもらいたい。これが多分あいつへの最後のわがままだ。本当にすまん、幹彦。やっぱり最後は自分の心に負けてしまった。

「明日の午後4時15分から、いつもの部室で新歓公演がある。演目は柳田駿のセーフティスクイズ。一応、主演は俺だ。もし本当によかったらでいいが、俺はお前にぜひ見に来てほしい。」

 俺が決死の思いで打ったメッセージは、無機質な機械を通って画面に写り込んだ。既読はつくわけもなかった。クラスへの宣伝を済ませると一気に気力は尽きてしまったようだ。急に眠気に襲われた俺はその場に倒れ込んだ。いつしか体に暖かく薄い毛布の感覚を覚える。きっと、母が掛けてくれたのだろう。心遣いに感謝しつつ、俺は意識を手放した。

 翌朝、勝負の4月20日。学校に着いた俺を待っていたのは、いつもに増してハイテンションな栄の激励の言葉だった。朝の教室に彼女の声が響き渡る。

「国之!! 今日はいよいよだね! 主役、頑張ってきてね、絶対に見に行くから!! Play is play! 」 

最後を発音良く言い切り、少し誇らしげな顔をする栄。そんな彼女に噛み付いていった。

「Play is play! ってなんだよ! 演劇は演劇だって当たり前じゃん。」

「国之、文系科目もできるのにこんなのがわかんないなんて意外だよ。絶対わかると思ったのに。Playには、演劇、ドラマって意味以外にも楽しむって言う動詞の意味があるでしょ? 」

全く失念していた。だとしたらこの意味は。

「だから、これは演じることは楽しむことだって意味! 全力だしといでってこと!! 」

「ありがとう!! 」

差し出された拳に、俺も当て返す。十分なエールと暖かさが胸にしみた。その日はまるでスロー再生にでもあっているかのようにのんびりと、ゆっくりと一日が過ぎていった。ただ単に俺が待ち遠しかっただけだと気づいたのは、帰りのホームルームになってからの時だった。

「今日のこのあと16時15分から、3階の視聴覚室で演劇部の新歓公演があります……」

昨日と全く同じことを話していく。しかし、違ったのはみんなの反応だった。どことなく嬉しそうに微笑んで見えたのは俺だけだっただろうか。ふと、また清水先生と目があった。彼はしっかりと目を合わせてから小さくうなずいてくれた。これでもう、恐れる物は何もない。夕暮れに変わりつつある光が、部室へ向かう俺を後押しするようにそっと差し込んでいる。セッティングはグローブの紐がほつれていたり、音響のコードを差し間違ったりすることなく今度こそ完璧に終わった。時刻は15時55分。開場の5分前だった。

 「それじゃ、呼吸合わせするので皆さんは舞台の中央に丸くなってください。」

今回の最大の功労者であり、演出の奏先輩が号令をかけた。リハーサルにはなかった開演前最大の行事が始まる。でも、やはりこの時の緊張感と一体感は事前に味わうようなものではない。衣装姿になった全員が舞台中央に集結していく。出演者、スタッフ見境無しに。そして、頃合いと見た奏先輩が舞台の完全な中央に向けて右手を指しおろした。その手の甲へ向けて、俺達も手を伸ばす。円になったことでちょうど奏先輩の手を中心とした花の様な格好になり、俺達は合図を待つ。

「行きます。」

奏先輩の細く短い声を合図に、俺達は動き出す。息を吸いながら手を降ろし、吐きながら高々と掲げる。全員の手と呼吸が重なる。呼吸とともに気持ちも一つになっていくのを感じた。全ては、まずこの劇の初日を成功させるために。少しでも多くのお客さんを楽しませて帰すために。3回の昇降を繰り返した後、予定通り、突如として手の花は解かれた。呼吸合わせの終わりだ。

「それでは新歓公演、セーフティスクイズ初演、頑張っていきましょう! 」

「はい!! 」

奏先輩の言葉にそれぞれが思い思いに返し、持ち場に動いていく。呼吸合わせを済ませた俺の胸にはどことない安心感が広がっていた。上手(かみて)側舞台袖で、その時を待つ。

 遮光カーテンによって光が遮られた部室の中。暗闇の中、外からは既にざわめきが響き、開場を待つ群衆の多さが伺えた。今更不安に思うはずもないのに、俺の胸は音を立てて弾んでいた。

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