第39話 暗闇の世界から

 今日もどうしようもない倦怠感とともに起きる。時計の日付で、今日が金曜日だということを確認する。カーテンを開けると外は晴れ渡った快晴のようで、外へといざなう様に窓からは陽光が差し込んでくる。時刻を確認するとやはりすでに13時を回っていた。新天地に行けばなんとかなるとは思っていたが、どうもそうでもないらしい。昨日はまだ普通に学校にも行けたのに。何故か今日に限っては大幅な朝寝坊で学校に行きそびれてしまった。というか、流石にこの時間になっては行く気も失せる。未だキリキリと痛む腹を押さえて僕はトイレへ駆け込んだ。いつになってもこの腹痛だけは消えてくれることがない。今日は休むことにしよう。新学期早々これでは少し心もとないが、休めるのもきっと今のうちだ。

「新しいところへ行っても元気でやるんだぞ。たまにはうちの芝居も見に来いよ。」

そう言って清水先生は屈託なく送り出してくれたが、きっと心中複雑なものがあっただろう。最後まで迷惑をかけてしまった彼には本当に申し訳なく思っている。

「もちろんですよ。清水先生。できるだけ芝居も見に行きますし、先生の方こそ、お元気で。」

口ではそう言ったものの、僕はやはりあそこに戻る気にはなれなかった。きっと何より、誰も受け入れてくれないだろう。特に、国之は。思わず自分でその名を思い出してしまい、胸が大きく詰まる。だめだ、忘れよう。忘れてしまおう。きっといずれ接点もなくなっていくような相手だ。頭ではわかっていても、その痛みはなかなか消えてくれることは無かった。それどころか、痛みはどんどん強く増していく。国之にはとても良くしてもらったし、彼といる時間だけは僕も安らぐことができた。でも、その僕の居場所も彼も、いずれいなくなる。このまま行動を起こさなければ、いつかは。いつからだろうか、僕は彼と行動を共にすることを激しく忌み、拒むようになった。今思えば、それもそのはずだ。僕が彼とあそこまで一緒にいなければ、なじられることもなく、今でもあそこで一緒に芝居をやっていたのだろうから。またも自責の念に駆られ、僕は思わず拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む痛みさえ、僕に少しの安らぎを感じさせた。

 食欲はないものの、一応居間に向かう。テーブルの上にはいつもの様に母の用意してくれた朝食があった。彼女は相変わらずパートでうちにはいない。

「幹彦、食欲無くてもちゃんと食べなさいよ。栄養第一なんだから。」

日替わりで変わる丹念な文句に感謝しつつ、僕は無理くりご飯を口に運んでいく。途中何度か危ない所もあったが、今日は無事に流し込むことに成功する。

「ごちそうさまでした。」

か細い声が口から漏れる。いつからここまで声が出なくなっていただろうか。不意にたった半年前が懐かしく思えてきた。僕は流し台に食器を下げた。今日は学校にも行かないんだしこれくらいはやった方がいいだろう。少しの後ろめたさに僕は皿洗いを始めた。食器の擦れる音を聞きながら、僕はぼんやりととりとめもないことを考えた。まず浮かんだのは、何故か今日の日付だった。今日は4月15日だ。4月15日、この響きになにかとても懐かしいものを感じたが、その場で考えつくような答えを僕は持ち合わせていなかった。

 朝ごはんも食器洗いも終えてしまうと、僕はすっかりまたすることがなくなった。頭の中ではまださっきの響きが蠢いている。僕は暇つぶしになにかしようとスマホを取り出した。いくつかのアプリを開くが、どれも開いた途端にやる気が失せてしまった。そういえば、母は今日は長い日だと聞いている。何か連絡が来ているかもしれないと、僕はラインを開いた。案の定母からは何もなかったが、通知には赤地に白で1の文字。メッセージの着信が示されていた。ほとんど両親以外とラインをしないため、誰かからの広告だろうか……。僕はページを繰っていき、息を呑んだ。途端に押さえていたはずの腹痛もまたやってくる。文字の横に記されていた名前は、僕が忘れようとしても忘れられない相手であり、とうの昔にブロックしたはずだった。ラインからも、心からも。「国之(柿田光輝)」の名前がそこにはあったのだ。思わず一気に高揚する心を抑え、僕は必死で冷静になろうとする。こいつのことはクリスマス公演前にはブロックしたはずなのだが、いつの間にかそれが外れてしまっていたらしい。届いた一件のメッセージがそれを証明していた。その時の僕は、気でも触れていたんだろうか。ひとまず中身を確認しないと。何か目的があって送ったに違いないのだから。僕はそのトーク画面を開いた。開いてしまった。

「明日の4時15分から、いつもの部室で新歓公演がある。演目は柳田駿のセーフティスクイズ。一応、主演は俺だ。もし本当に良かったらでいいが、俺はお前に是非見に来てほしい。」

見た瞬間、急に体が熱くなる感覚を覚えた。国之が僕を受け入れてくれているのだろうか。体が震え、目頭が少し熱くなる。しかし、流されてはいけない。僕はここで何とか平静に戻ることができた。思わず差し出された言葉を本気で信じてしまいそうになったが、簡単に流されてはいけない。国之がこの状態の僕を受け入れてくれるわけが無いのだ。そもそも、彼には他でもない僕のせいで多大な迷惑を掛けている。そう簡単に許してもらえるわけがないのだ。自分でたどり着いた当然のはずの結論に、僕は何度目かのため息を着いた。

 しかし、ため息の中でも僕の目を焼いたのは演目だった。「演目は柳田駿のセーフティスクイズ。」この文字がネオンサインのように頭の中を駆け巡る。僕は驚きと嬉しさのあまり声を上げそうになったが、辛うじて抑えることができた。いずれにしても、鳴り始めた早鐘は、もはや留まるところを知らない。僕は慌ててテレビをつけ、録画番組のところを出す。そこには何度見返したかわからない全国大会の映像ドキュメント「青春舞台」が変わらぬ姿で残っていた。オリジナルの柿田、今川、江東監督らの演技を見返し、改めて惚れ惚れとする。

「ぱぁふぇくと! 」

半身をねじり、サムズアップを決める。江東監督のあのポーズも久しぶりにやってみた。やはり、最後のシーンでの彼は異常なほどかっこいい。本当にこの素晴らしい芝居をうちの部活でやるのだろうか。しかも主演は国之だ。あいつの演技力とこの芝居の脚本が合わさったらどんなにいい芝居になるだろうか。これは何としてもに見に行かなくてはなるまい。またあの学校、あの部室に戻ると思うと気が引けたし、受け入れられないのではないかというか不安も頭をよぎった。しかし、あのメンバーでやる「セーフティスクイズ」は素晴らしいものに違いない。カーテンコールの前で帰ってしまえば問題はない。そうだ。去山高校演劇部の芝居を見に行くんじゃなくて、ただの芝居を見に行くと思えばいいんだ。

 僕はもう腹痛を感じることもなく準備を始めた。今からなら普通に行けば間に合う時間帯だ。急いで支度を整え、何日かぶりに家を出た。午後の日差しがやけに眩しく僕の行く道を照らした。

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