第40話 戦いの終わり、そして

 勝負の4月15日。呼吸合わせが終わった上手(かみて)袖。ちょうど客席から見えない位置に立つ俺は、今までにない緊張感と高揚を味わっていた。それもそのはずだろう。今日は去山高校演劇部員としての最後の公演、その初日なのだから。外からは開場を待つお客さんの声がドアの隙間をぬって聞こえてくる。かなりの人数がいるようで、声が響いてざわめきを成している。もしかすると過去最高レベルの動員数かもしれない。立ち続ける物音に俺は不思議な暖かさを感じていた。ここまでの人数の中でキャストとして出て、芝居を見てもらえるのだから本望だ。俺は静かに気持ちを高めていく。幹彦は、来てくれるだろうか。まぁ、既読もつかなかったわけだし、そもそも公演の日程を知らないかもしれない。来ないと構えていいだろう。突如、俺の頭を照らしていた蛍光灯が消された。客席側から漏れる光だけがほのかに舞台袖を照らす。予定通りだ。蛍光灯が消えると同時に、幾度となく聞いたロックのイントロ、客入れが流れ始める。最初聞いたときははっきり言ってなんだこれと思ったものだ。でも、今日改めて聞いてみるとなぜだか曲と芝居の雰囲気、柿田たちの気持ちまでが合っているような感覚だ。今日これなら、きっと本番もうまく行く。そう思った刹那。

「開場します!! 」

奏先輩の凛とした声が、溶暗の舞台袖に向かって響いた。確かに時計を見れば、定刻16時。一気に緊張感が部室を包む。ほとんど間がなく、客席側のドアが音高く開けられた。遠かった喧騒が一気に近づいてくる。ざわめきも大きくなった。その大きさが、今回の公演のお客さんの全てだ。やはり、光栄な思いがする。だんだんと客入れが遠くなっていく。

「荷物は基本的に座席の下に、入らないときは横の棚の方までお願いします!! 」

あの声は佳穂先輩だろうか。佳穂先輩はじめ、克己先輩や奏先輩達が接客をしてくれているようだ。自分も出たい気持ちはあるが、衣装を着ている今ではそういうわけにも行かない。人には人の仕事があるのだ。

「こちらの名簿の方に名前等記入をお願いします!! 」

今度は克己先輩だ。そういえば名簿もいつのまにか作ってくれていたようだ。客席から相変わらずお客さんの楽しげな声と先輩達の接客をする声が聞こえてくる。

「荷物は基本的に座席の下に、入らない時は……。え……。」

声を張り上げる佳穂先輩だが、なぜだか急にその声が驚きに変わり、フェードアウトしてしまった。薄れて消える最後は、やけにかすれて聞こえてきた。何かあったのだろうか。まぁ、俺が行ってもどうにかできることでは無いし、忘れよう。その後は特に何事もなく全ては進んでいった。次第に気持ちと高揚感が高まっていく。接客については先輩方に任せよう。どことなく身をこわばらせる俺。急に胸が高鳴り、なぜか高揚よりも緊張の方が大きくなってくる。不意に肩が叩かれた。

「頑張ろうね。」

横を見ると、由香里先輩がいつもの優しい顔で笑って手を差し出している。さすがに本番10分前の舞台裏ということで、声は極限まで抑えられていた。しかし、衣装を身に纏い、髪の毛をケープで固めている以外は本当にいつもの由香里先輩だ。

「はい!! 」

俺も当然ささやき声で返し、手を握る。劇中の握手とは違う、でもそれに似たような光景が展開される。俺は気づいた。この2つはやはりかなり似ているのだと。今した握手も、劇中で二人が交わす握手も、共に明日へ向かって頑張って行こうと言うことを示すものだ。少しまた気持ちが楽になった。しかし、まだやはり根本的な胸のすくみは消えない。

「国之。」

また、由香里先輩が話しかけてくる。

「はい。」

俺もまたささやき声で応えを返した。

「緊張してるかもしれないけど、大丈夫だよ。今までの国之はどんなに緊張してたって、舞台に立てば何とかなってたじゃない。しかも、練習以上の成果出してたし。だから、今回もきっと大丈夫だよ。何があっても焦らないこと。いいね? 」

「はい……。」

言われてみればそうかもしれない。この先輩はどこまでも後輩を扱うことに長けているようだった。完全に胸のつかえが取れたような思いだった。ふと横を見ると、健太先輩もげんこつを出して構えていた。由香里先輩とは対照的に何も言わなかったが、その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。俺も無言でグータッチを交わす。本番直前にも関わらず、やけに穏やかな気持ちが俺の胸に広がった。これ以降、誰も話すことはなく、舞台裏の時間は静かに流れていった。そして、16時15分。観客席のざわめきの中で、芝居が始まった。前説をする一美が、下手(しもて)袖から舞台に出ていく。

「本日は、去山高校新入生歓迎公演、セーフティスクイズにご来場いただき、誠にありがとうございます。上演に先立ちまして、いくつかのお願いがございます……。」

予定通りの口上を一美はこなしていく。やがてそれが終わると一美は当然袖に下がり、舞台が暗転した。客入れ共に興奮も高まっていく。いよいよ、俺達の出番だ。暗転しているうちに、俺は野球部のロッカールームと化す舞台に足を踏み入れた。客席は水を打ったように静まり返っている。

 前説後の拍手と共に、「セーフティスクイズ」が始まった。冒頭シーン、照明が点いた瞬間に俺は痛感した。分かっていたはずなのに。舞台照明は舞台だけでなく、否応なく客席の一部まで照らしてしまう。そこから見える黒い頭のなんと多いことか。思いもよらない動揺のせいか、それは件の握手のシーンで起こった。夕方、夕日が落ちきった頃のぼんやりとした照明。手はず通りに硬球を投げる俺だが、このときばかりは投げる瞬間に失敗だと分かった。瞬間に冷や汗が吹き出す。完全なるすっぽ抜けだ。硬球は先輩の足元を抜けてパネルに当たり、そのまま舞台袖の方へと転々とする。完全にやってしまった。思わず素に戻ってしまう。

「何やってんのさ光輝。」

しかし、俺のミスを完璧にカバーする由香里先輩がそこにはいた。全くセリフの違和感も無く、アドリブで彼女はやってのけたのだ。すぐさまボールが帰ってくる。

「お、おう、すまん。」

なんとか敬語を使わずに済んだが、完全に素の声だ。これが俺のアドリブ力の限界ということか。胸のうちで少しげんなりとする俺を尻目に、当然ながら芝居は続いていく。次の難関は、普通に前を向いてしゃべるシーンだった。演技面では何も問題が無い。しかし、問題なのはその目線だ。ここだけは練習では確認できないだろうと完全に素通りされていた。いざ本番が始まってみると、案の定あまりの人の多さに思わず困ってしまった。とにかく話し手の方、話し手の斜め上を向いて演技していこうと定める。その俺の視界の端に、いないはずの幹彦が見えた気がした。

 途中で大きなミスなども重なったが、何はともあれ最後まで来られた。最後の江東監督の言葉、歓喜と共に照明がフェードアウトしていく。俺はこの上ない充実感と達成感に満ちていた。照明が暗転しきり、穏やかなエンディングBGMが流れ出す。ここからはカーテンコール。役者達、スタッフ達が一番最後に胸を張れる場所だ。BGMのリズムの切れ目をぬって照明が点く。

「柿田光輝、東田国之。」

演出の奏先輩が一人ずつ名前を呼ぶ。役名から名前へ。心地よい響きが耳をくすぐった。前へ出て客席を見渡しながら一礼する。よく見ると西脇も、委員長も、栄も皆がいるではないか。大好きな芝居を、大好きな人たちに見てもらえる。これほど幸せなことはないと思った。

「今川翠、十河由香里。」

「江東朋晃、大林健太。」

俺が個人の感傷に浸る間にも次々と人が入り、礼をしていく。俺は幸せな気分に胸を膨らませていた。フットライトとスポットを浴びる俺達の顔は一様に明るい。

「本日は、本当にありがとうございました!! 」

奏先輩の最後の挨拶で頭を下げる。今までのどんな公演よりも大きな拍手が鳴り響く。やっぱり、この感覚があるから演劇はやめられないのだ。充実感とともに俺達は再び舞台から去った。

 カーテンコールが終わると、俺達はお客さんの見送りのために客席へ突入していく。

「ありがとうございました!! 」

大音声とともに来てくれた人達に感謝の言葉をかける。大抵のお客さんは帰ってしまったが、何人かは残ってくれていた。その中に多くの知り合いを見つけ、俺はほっこりとした気持ちになる。先輩は同級生と思しきお客さんと話している。こっちも話すなら今だろう。そばにいた栄に声をかける。

「栄、今日はありがとう!! 」

ここで、俺は栄の隣に座るもう一人の女子に気づいた。清楚な印象、キリリとした表情、ポニーテール。もしかして。

「もしかして、隣にいるのって、木下さん? 」

俺の言葉に気づいた栄が嬉しそうに声を上げる。

「そう!! 国之の言ってたこと聞いてから、多恵子の読んでる小説とか見てみたのね。そしたら私とすごい趣味が合ってさ!! そこから、友達の演劇を見にいかないかって話を。」

「そうだったのか……良かったな!! 」

馴染むのがやけに早い。全く話したことなくてもこんな短時間で仲良くなるのだから人間とはわからない。

「うん! ありがとう。」

「ねえ、栄、この人は……。」

俺は相当不審なのだろうか。木下さんが不安げな声を上げた。

「あ、言ってなかったね。まだ多恵子と仲良くなる前に、話すきっかけを作ってくれた人だよ。悪い人じゃないから心配しないで。」

木下さんはやはりまだ不安そうにこっちをしばらく見つめると、ふわりと笑った。

「あなたのおかげでまた一人こんなにいい人と繋がれたのは本当に嬉しいです。ありがとうございます。」

直球すぎる感謝の言葉。俺は手も足も出ず見送ることしかできなかった。

「おい、国之! こっちにもちょっとは話しかけろよ!! こっちだって黙ってお前の芝居見てたわけじゃないんだぞ!! 」

泣き腫らした目で噛み付いてきたのは西脇だ。口は少々悪いが、感動してくれたことに変わりはなさそうだ。

「はいはい。今行こうと思ってたよ! 」

俺は栄と木下さんに感謝を告げて彼らの方へ移動する。

「お前、なんか全然いつもと違ったな。クラスの雰囲気と同じ人間とは思えなかった。ホントに気持ちも入ってたしすごかった。いいものをありがとう。」

委員長が感嘆したように呟いた。

「お前……! お前……!! その腕でなんで今まで脇役だったんだよ。十分すぎるくらい立派に主役が務まるじゃないか!! 」

泣き腫らした西脇は、喋りながらもまだ少し泣いているようだった。

「来てくれてありがとう、西脇。」

そう言って俺はあいつの頭を撫でてやった。頭の中にまた達成感が広がる。ここまでしてくれる奴らと友達で、こいつらに演劇を見せられて本当に良かった。

 「あ、ねぇ、これ……。」

満足気に名簿を見ていた一美が声を上げた。その驚きに満ちた声が、突如場の熱を奪っていき、代わりに緊張へと転化させた。彼女は一心に名簿を指さしていた。

「どうした、なんかあったの? 」

奏先輩が一美に近づき、声をかけた。そして、一美が指差す先を見た奏先輩までもが、思わず固まってしまった。俺もたまらず駆け寄り、名簿を凝視する。30人を超す名前で埋まったその名簿の一番左隅に、それはあった。

「今日は本当にいいものをありがとうございました。こんな形で迷惑を掛けてごめんなさい。明日行って、ちゃんと色々と謝らせてください。 君津幹彦」

紛れもない、確かなあいつの筆跡でそれは記されていた。とても小さな字だった。胸に穴が空くかの様な衝撃が体の自由を奪う。フラフラと座り込んでしまった。

 公演後、いつもは歓喜と安堵に湧くはずの部室は不気味な静けさをたたえてそこにあった。「君津幹彦」の文字がいつまでも頭から離れない。周りの景色がぐわんぐわんと回っている。

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