第10話 近づいては遠ざかる

 時間通りの列車に乗り込み、俺は胸を高鳴らせながら家に帰る。混雑の中でさすがに読むことは出来ないが、台本が背中にあるという暖かさが俺を安心させた。朗らかな気持ちで家に帰ると、珍しく温かい夕食が俺を待っていた。

「あ、国之! おかえり!」

「母さん。ただいま。なんで今日こんな夕飯早いんだ? 」

「いやね、あんた今日キャスト発表の日だって聞いてさ。緊張が解けただろうからお腹も早く空くだろうと思って。」

まさか、思いもよらない気遣いに胸が暖まった。さらに母さんは続ける。

「あんた、しかも最近いやに塞ぎ込んでたからね。でも、なんとか元気になったようで安心したよ。」

あまりこちらを気にかけて無いと思っていた母さんがここまで見てくれていたとは驚きだった。元気になる兆候といえば、柿田役になれたことしか浮かばない。

 久しぶりの温かい夕食を頂く。最近はそういえばなんだかんだで食欲もろくに湧いていなかった。改めてご飯の旨さを噛み締める。何気なくテレビをつけると、やっていたのは野球中継。ホームランを打って帰ってきた打者が、なぜだか無視されている。彼は懸命にアピールするけれども、認めてもらえない。俺はふと気づいた。これは今の部活にも通じるのでないか。もし俺が何か一つでも、例えば柿田で失敗したら、その後いくら成功しても認められないかもしれない……。身震いがし、慌ててテレビを消した。食後、台本を読み耽る俺は夢心地だった。明日からやっと心置きなく柿田役ができる。胸を高鳴らせながらひたすら文字を追い続け、俺はいつしか眠ってしまっていた。3月の最後の夜が更けていく。

 次の日、春には珍しい雪が舞う中を学校へ向かう。今日は煩わしかった春季講習の最終日、そして4月のはじめの日でもある。1年1組、俺の定位置について台本を読もうとするが、今日はいささかの邪魔が入った。

「おう、東田(ひがしだ)、おはよう! 」

「おお、西脇(にしわき)! 」

声をかけてきたのは男子サッカー部の西脇(にしわき)康徳(やすのり)だ。坊主頭がよく似合うこいつは、いつも委員長の森田(もりた)と公演を見に来てくれている。すぐさま西脇は俺の持っていた台本に気がつき、取り上げた。

「東田、今回はセリフ何個あるんだ? 前回何個だっけ?3個? ちょっと言ってみてくれよ。」

こいつはいつもこうして俺の出番の少なさをイジってくる。前回のクリスマス公演で、俺は助演出として演出がいない現場を仕切り、公演は何とか成功を収めた。その公演は「セーフティスクイズ」とともに今でも心に深く残っている。しかし、そんな苦労をこいつは知る由もない。いつもは付き合っているが、今日は早く台本を読みたいので早々にやめてもらおう。

「そんなセリフなんて覚えてるわけ無いだろ! てかそれより俺の役か? ここ見てみろよ。」

俺は表紙裏のキャスト表を指差した。表の1番最初に書かれた俺の名前を見て、彼は口を開けて唖然としている。その間に、少し申し訳なかったが台本を奪還して読み始めた。

 やはり今日も高揚した気持ちで授業を受け、休み時間には台本を読み込む時間を過ごした。最後のホームルーム、先生は新年度への連絡事項を話していたが、部活に向けて気持ちを高める俺の心にはそこまで残らなかった。かくして、あっという間に授業が終わる。俺はいつもどおり部室へダッシュした。雪はいつの間にか止み、細い光が雲の隙間から差している。部室についた俺は思わずそれに見とれた。

「おはよう!! 」

景色に見とれていた俺を現実に引き戻したのは一美の声だった。

「一美、おはよう!! 今日はいつもより早いね。どうしたの? 」

「いや、ちょっと助演出の仕事をやりたいと思って。」

「そっか、頑張れ!! 」

「国之も柿田、頑張ってね!! 」

柿田のことを出され、嬉しく思いながら俺は机を動かしに向かう。一美は雲の間からの光を浴びてさらに生き生きと輝いて見えた。俺はこれからのことを思い描く。これから俺達は「セーフティスクイズ」の成功のために団結し、たくさんの努力や返しを積み重ねて作り上げていく。その中でぶつかり合いもあるだろうが、きっとそれこそが良いものを作り上げる糧になるはず。先生が言っていたように。未来への展望を描いた時、ちょうど奏先輩が入ってきた。

「おはよう!! 国之、一美! 」

「あ、おはようございます!! 」

そう言って一美は奏先輩に駆け寄り、話し合いを始めた。

「奏先輩、やっとちゃんと練習できますね!! よろしくお願いします!! 」

俺も一言声をかける。また今日も楽しくやりがいのある部活が始まりそうだ。続々と部員が集まって来る。しかし、精神が安定し、高揚感に包まれていたのはこの辺りまでだった。少しずつ知った顔が増え、あとは部長・由香里先輩だけになった。

「あれ? 由香里は? 」

演出であり副部長でもある奏先輩が訝しがる。特に聞いてはいなかったはず。LINEなどの連絡もされてなかったはずだ。。

「掃除でもないよね? じゃあ何なんだろ……? まぁ、じゃあ取り敢えずミーティングしようか。」

うちの部では、練習が本格的に始まってからのミーティングの仕切りは部長ではなく演出ということになっている。そのため、今は由香里先輩も部長ではなくただの衣装・メイクのチーフとなる。でも、部門のトップであるチーフがいなくていいんだろうか。しかも、由香里先輩はミーティング時にいなくなるような事はなかったはずだ。そんなことを言うことも出来ないまま、

「集合! 」

奏先輩の声と共にミーティングが始まった。連絡をしているみんなの声も、柿田をやれるという高揚感すらも霧散してしまっていた。由香里先輩は大丈夫だろうか。何かあったんだろうか。ミーティングが終わると、俺は

「由香里先輩探してきます!! 」

そう言うが早いか駆け出す。柿田役はやりたかったが、今はチーフでもある由香里先輩を探す方が先ではないかと思ったためだ。返しをする。頭では分かっていても、体が動いてしまった。とにかくいそうなところを探し回ろう。

「由香里先輩ー!! 」

俺は探した。いつも演劇部が道具を入れている教材室、各教室……。どこにもいなかった。息を切らし、俺は途方に暮れた。ひとまず部室に戻って見ると、彼女は既にそこにいた。

「由香里先輩!! 何してたんですか! 探したんですよ……。」

「いや、ちょっと教材室にアイロン取りに行ってて……。入れ違っちゃったのかな。心配させてごめんね。」

「あ……そうだったんですか。皆さん、時間を取らせてしまってごめんなさい。」

由香里先輩とはまさかの入れ違いとなっていた。俺は常々この手の早とちりのミスには辟易している。ともあれ、気を取り直していよいよ待ちに待った柿田の練習へ向かう。

「それじゃ、冒頭のシーンから。役者配置、板付きいいですね? いきまーっせい! 」

いつもの掛け声と共に練習が始まる。奏先輩は本番を意識して今から練習しているようだ。役者の配置、パネルの裏に入れたかも確認していて、これが本番になってくると心強い。演技が始まると、後は自分の周りの時間だけが加速されているような不思議な感覚に陥る。こうして、オープニングから序盤にかけての流れ練習に終始して今日は終わった。当然台本を読んでおく必要はあるものの、初期の練習はどちらかというと流れを意識した物になるので少し気は楽だ。

「集合!! 」

奏先輩の一声でミーティングが始まり、いつものように引き締まった雰囲気が場を包む真っ先に発言したのは由香里先輩だ。

「イメです!! 皆様の衣装、候補になる物の写真送ってください!! 決まり次第持ってきて貰えればアイロンがけします!! あと、アイロンを持ってくる関係で今日遅れてすみませんでした。」

そんなに焦る必要は無いのではないかとも思ったが、ともあれこれで由香里先輩が遅れた理由がはっきりした。大事には至らなかったようでひとまず安心した。

「あの……」

おずおずと手を上げたのは照明のスタッフ専任部員、津田沼(つだぬま)佳穂(かほ)先輩だった。

「そういえば、幹彦って私と同じなんで照明をやるはずだったんですよね? そこは別に問題ないんですけど、広報ってどうするんですか…?」

俺はまず久しぶりに聞く、新歓が終わるまで封じようとしていた「幹彦」の名を聞いたことに嬉しさと切なさを感じ、次いですべてを思い出した。他の部員も同じなようで、厳しさの中に僅かな暖かさを残していた部室の雰囲気が完全に凍りついた。退部する幹彦は照明と広報を兼任する予定だった。元美術部としての絵の上手さを買われての広報抜擢で、部員たちは完全にポスター系統は彼に一任、悪く言えば丸投げしていた。しかし、その彼はもういない。新歓、新入生歓迎公演において、劇の内容以上に広報活動は重要で、それが失敗すれば部の存続が危うくなる危険もある。当然みんなもそれを分かっていて、気まずげに視線を泳がせている。どうするべきか……。いつしか目線は一人の人物に集まった。みんなにほぼ一斉に見つめられた奏先輩は、困った様に夕焼けが広がる虚空を眺めている。静かに思案するその顔からは何も読み取ることが出来ない。ミーティングは当分終わりそうに無かった。

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