第4話 始動
家を出ると、奇麗に澄んだ空気と暖かな春の日差しが感じられた。朝日に背中を押され、俺は駅へと急ぐ。今日はキャスト回しの開始日だ。もう幹彦は自分の道へ進んで行った。だから俺も幹彦に誇れる様に頑張らないと。
程なくして去山高校、俺のいる2階の1年1組の教室は朝の喧騒に包まれていた。俺はクラスであまり喋る方では無いが、個性豊かでまとまりのあるこのクラスの人々が好きだ。机に着き、鞄を置くやいなや俺は新入生歓迎公演、通称新歓の台本を取り出した。「セーフティスクイズ」。作者は柳田(やなぎた)駿(しゅん)。柳田さんが書いたオリジナル版は、全国大会で上演されたこともあるらしい。新歓の初演は4月20日だ。上演する台本を決める台本会議が終わり、スタッフが決まった直後にあの一件が起こったからまともに読みこむ時間も無かった。しかも台本会議でも、その日休んでいた幹彦のことが気にかかってあまり意見を出せなかった。わかっているのは野球ものというくらいか。道具のチーフとして仕事をするためにも、キャスト回しの予習のためにも、俺はしばらく台本を読むことにした。
「お、何読んでんだ?」
何やら声をかけられ、顔を上げる。上げた先にいたのはクラスの委員長、森田(もりた)伸夫(のぶお)だ。優しく頼りになり、いつも公演に来てくれる彼のことを俺はとても信頼している。
「あ、これ?次の公演の台本」
「そうなのか。まぁ、ネタバレになるのも嫌だし読むのはやめとくよ。次も楽しみにしてるぞ! 」
とてもありがたい言葉だ。演劇をやっていて、見た人からの感謝の言葉ほど暖かくしみるものはきっとない。
台本はどうやら、野球部を舞台にした成長物のようだ。あいつは、今日は学校に来ているんだろうか……。台本を読みながらも幹彦のことが引っかかっていた。
気がつくと担任が来て、ホームルームを知らせるチャイムが鳴っている。俺は慌てて台本をしまい、連絡に耳を傾けた。少し眩しげな光が学校全体を包み込んでいた。さて、1時間目は数学だ。
気の焦りと舞台を作り始める高揚感で1日気持ちが昂ぶっていた。授業は聞いていたが、すべてを理解できたかどうかは定かではない。いよいよ部活が始まる。帰りのホームルームが終わると俺はすぐさま教室を飛び出した。向かう先はもちろん1つ上にある演劇部の部室だ。部室に入ると既にみんなが舞台のセッティングを始めていた。部室の生活感ある匂いが鼻腔に心地よい感覚をもたらす。
「おはようございます!!!!! 」
体中の高揚感を乗せて挨拶する。やはり何があっても、この部室に来ると気合が入る。そして、どの時間でも変わらない「おはようございます」という挨拶が、演劇部員であることの自覚と誇りを改めて持たせる。同じ様に楽しげに入ってくるもう1つの影が無いことに気づいて寂しく思ったが、それを言動に移すまいと昨日誓った。俺も早速入って机を動かす。こうしないと演劇部での1日が始まった気がしない。程なくして集合がかけられ、いつもの様にミーティングが始まる。先輩も同輩も昨日の事はまるでなかったかの様に振る舞っている。どうしてみんなそこまで強くあれるのだろう。唐突に疑問が生じ、高揚した心に少しだけ影を落とした。ともあれ、俺たちは手早く発声とストレッチの基礎練を済ませた。
「それでは今日から去山高校演劇部新入生歓迎公演、セーフティスクイズの練習を本格的に始めます。まずはキャスト回しからになるので、皆さんよろしくお願いします。」
演出の2年生、水沢奏(みずさわ かなで)先輩がよく通る声を上げる。ポニーテールが目印の奏先輩は、いつもどっしりと構えていて、何があっても落ち着いて対応する。ちゃんと俺達1年生の意見も尊重して聞いてくれ、色々な話を振ってくれたりもするので俺が大好きな先輩の一人だ。
「それじゃあ、オープニングから行きます。えーと、じゃあ、柿田(かきだ)を国之、江東(えとう)監督を健太(けんた)お願い」
早速呼ばれてさらに高揚感が増す。しかも主役だ。一緒に演じる健太先輩とも仲が良く、このキャストで決まってもなかなか楽しそうだ。キャスト回しはこのように登場人物を演じる人をどんどんローテーションで回していくのだが、このいつ呼ばれるかわからない緊張感、そして色々な役を演じられる楽しさが俺は大好きだ。
「役者配置いいですか?行きまーすっせい! 」
奏先輩の乾いた手の音と共に演技を始める。「いきまーすっせい」は去山高校の演劇部で使われる演じはじめの合図で、そのせいか日常でも手を叩かれると一気に気持ちが入る。やはりどんな役でも演じるのは楽しいものだ。今やっている柿田光輝(かきだ こうき)は、話の舞台である市立栗城高校の4番でエース。しかし、管理野球を掲げて挑む同校は5年連続で全ての季節の地区大会で初戦敗退を繰り返していた。新しく赴任した顧問の江東朋晃(えとう ともあき)の指導は放任主義で実力を見極めること。生徒たちは戸惑いながらも徐々に受け入れていく。主人公の柿田もまた、4番でエースでありながら小技が得意ということを監督に見定められた。俺はこの台本を最後まで読み、主人公の柿田に強い思い入れを抱くと共に台本が大好きになった。願わくば柿田をやりたいと密かに思っている。
その後もキャスト回しは続き、途中で人の名前を間違えるハプニングなどはありつつもあっという間に時は過ぎていった。俺は道具のリストアップをしたりしたため抜けることはあったが、たくさんの演技を見られて勉強になった。昨日の事がはじめから無かったかの様な和やかで明るい雰囲気が部室に流れていた。
「集合! 」
由香里先輩の通る声が響く。あっという間に部活も終わりを迎えた。名残惜しさを感じながらも俺は部室を去った。
部活が終わった後、俺は職員室にいる顧問、清水先生のところへ向かった。2年生の先輩は6人いるが、実は皆ほとんど小道具の経験が無いのだ。道具の仕事のイロハを確認すべく、俺は職員室へ急いだ。外の光は完全に夕日のそれに変わり、遠くには雪雲と思しき雲が浮かんでいる。
「失礼します」
俺は一礼して職員室に入り、清水先生のところへ向かった。先生はいつも以上に優しい顔で、
「とりあえず、座って」
と言った。先生の優しさがありがたかったが、何かしただろうか。
「もう、ちょっとは良くなったか? 1日だからそんなに変わることは無いのかもしれないけど」
その瞬間、俺は察した。先生は俺が昨日書き殴った日誌を読み、心配してくれていたのだと。途端に申し訳なさが胸をつく。
「はい……まあ、なんとかなってますよ。先生と由香里先輩のおかげで。」
「由香里……? そっか。でも、無理はするなよ。」
ここで俺はさっき感じた疑問を思い出してしまった。口をついて出る質問を止めることは出来なかった。
「はい。あの、先生、1つだけ質問いいですか? 」
「おう、なんだ?」
「どうしてみんなあんなに平気でいられるんでしょうか。昨日由香里先輩も言ってたんです。みんな辛いのは同じはずだって。でも、ならどうしてあんなに何気なく振る舞えるんでしょうか。まるで幹彦が始めからいなかったみたいに感じられてて……」
寂しいです。という言葉をかろうじて俺は飲み込んだ。由香里先輩との約束を破るわけにはいかない。
「そういうことか……。」
先生は暖かい笑みを浮かべて俺の肩に手を掛けた。
「いいか、国之。まず1つ。みんなが幹彦を忘れてるなんてことは絶対に無い。あれだけの時間を過ごした仲間だからな。ただ、多分みんな我慢してるんだ。寂しいって言わないように。周りに不安がられない様に。」
先生は、言葉を咀嚼する時間を与えるように一旦言葉を切った。みんなが幹彦を忘れてないと聞いてまずは安心できた。それだけ我慢ができる先輩、同輩はホントにすごい。劣等感と尊敬の念に駆られながら俺は次の言葉を待った。
「国之のいいところは、出来事に素直に心を動かせるところだ。でも、この新歓が終わればきっと国之も先輩になる。その時にこんなことがあったら、後輩にびっくりされるぞ。」
俺はとっさに、奏先輩を想像した。もし、物事に動じず、いつも冷静に周りを見て見える奏先輩が泣いてるのを見たら、俺はきっとすごく動揺するだろう。
「国之、お前の素直さは宝だ。でも、50歳になってもそのままでいるっていうのも違うだろ? 人間は少しずつ時代や年齢によって変わっていくんだ。素直さを大切に、でも頼られる先輩になれるように少しずつでも変わっていこう。きっと、この経験を乗り越えた先で、今の国之みたいになってるやつを救えるようになるんだ。由香里みたいに。」
最後の言葉は昨日の克己先輩の言葉と全く同じで、でもとても心に響いた。由香里先輩みたいに、辛さを乗り越えて誰かを救える人になろう。新たな決意が生まれた瞬間だった。
「ありがとうございました。疑問が晴れました。」
「おう、なんかあったらまたいつでも聞くからな。」
心が晴れたところで、忘れかけていた本題の存在を思い出した。
「あ、あと、先生。今取りあえず使いそうな道具をリストアップしてるんですけど、他にどんな仕事がありますか。先輩方に聞くに聞けなくて……。」
「今、道具をリストアップしてるんだろ?それが終わったら、小道具リストを作って全体で共有し、使う道具を募集するなり、作るなりするんだ。作るのは小道具全体の仕事だけど、募集をかけるのは主にチーフの仕事だ。それから、上手(かみて)と下手(しもて)にそれぞれ使う小道具を入れたボックスを用意して管理すること、あとは演出と相談して、小道具の場所を決めること。大道具については、リストアップが終わったら色々な面から見た道具の設計図を書き、材料を買うなりして揃えてから作る。これももちろん演出と相談しながらな。長くなったけど、ざっとこんな感じだよ。」
「ありがとうございます!! それに沿ってやっていきますね! 」
「おう。よろしく頼むぞ、国之。」
「はい! 失礼しました。」
本来の目的も果たし、俺は新たな決意を胸に職員室を後にした。今日も一人で帰ることになってしまったが寂しさは無い。夕日はとうに消え、陽光の余韻が小さく地平線を照らしている。暮ゆく街の中、俺は家路を急いだ。
誰に会うこともなく今日は帰ってきた。心地良い疲れに包まれた体にむち打ち、俺は先生の言を参考に道具をリストアップし、共有用のリストを書いていた。今回の本は既成だから、大きな道具の変更は無いだろう。一区切りついて体を休めていると、スマホがラインの通知を伝えた。
「緊急連絡があります。遅れてしまい申し訳ありません。」
演劇部のグループに送られたその無機質なメッセージの向こうで、奏先輩の悲痛な声が聞こえた気がした。俺はとにかく確認のためにスマホを開いた。急に吹き始めた春一番の強風が、窓枠と俺の心を揺らしている。
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