第7話 誰もが

 二度寝したい怠け心を振り切って身を起こす。今日は3月30日。新入生歓迎公演初日まで改めて日にちを数えたが、残るは21日だ。家を出ると、薄曇りの中にもしっかりと太陽光が届いていた。俺は昨日の部活を思い出し、1つ気づく。そうだ、台本の方針はどうなるんだろう。奏先輩が言っていた様に演出替えをして、みんなでセリフを考えながら作っていくのか、それとも克己先輩の言うように演出替えをせず、今川がキャッチャーのままで作っていくのか。そして、その選択はまずは作者が演出替えを許可したかに委ねられる。きっと昨日先生が言ったとおり、手紙の返信もそろそろ来ているはずだ。幸い、明日からは週末になるため時間もたくさん使える。できるだけ今日中に方針を固めたいところだ。そうこうするうちにいつの間にか学校に着く。

 そんないささかの不安もあったが、俺はともあれ授業を受けた。途中、なぜか移動教室中の他クラスに好奇な目で見られることがあったが、理由も分からないので俺は気にしないように過ごした。授業が終わり、部活が、「セーフティスクイズ」への戦いが始まる。いつものように勇んで入った部室だったが、今日は何かが違っていた。劇で使うパネル、小道具などが部室にところ狭しと並べられている。ここまでは同じだ。異様なのは、ポニーテールがしょんぼりと机に垂れていることだ。他でもない奏先輩が異常だった。彼女は机に突っ伏し、心なしか震えているように見えた。いつもの堂々とした姿は消え、先輩の姿はとても小さく見えた。俺はそんな先輩の姿を見たのは初めてで、動揺して思わず半ば上ずった声で

「おはようございます」

と言葉をかけた。できるだけいつもどおりにしようと思ったがやはり出来なかった。

「おぉ、国之、おはよう。」

俺の姿に気づくと、先輩は空元気を出そうとしたのか、

「よし、今日も頑張りますか。」

と気合を入れて立ち上がった。俺はかなり心配だったが、

「おはようございます! 体は労ってくださいね。」

とだけ言って舞台を作るための机の移動へ移った。奏先輩は少しバツの悪い顔をして笑い、俺と同様机の移動に移った。その後も続々と先輩や後輩が来たが、それからの奏先輩は堂々としていて気配りの出来るいつも通りの奏先輩だった。しかし、恐らく何かあったのだろう。とにかく心配だった。昨日彼女と言い争っていた克己先輩は特に異常は見受けられず、いつも通り物静かに音響機器の準備をしていた。もしかしたら、克己先輩もまた奏先輩と同じ様に心の闇を隠しているのかもしれない。俺は心のどこかでそこはかとない気持ち悪さを感じていた。

 程なくして、号令と共にミーティングが始まった。緊張の面持ちで皆が整列する。今日は作者への手紙の返信が来ているはずの日、つまり奏先輩と克己先輩の論争が決着して今後の劇作りの方針が固まる日でもある。緊張するのも当然のように思えた。

「まず、柳田さんからの手紙のことですが、変更に関してのオーケーを頂きました。」

これで方針は演出替えの方向に固まっていきそうだ。緊張が少しばかりほぐれていく。

「ということで、今回の件に関しては演出替えをし、今川はキャッチャーではなくマネージャーにする方向で行きます。また、台本もこれから練り直すので、アイデアなどよろしくお願いします。」

「はい! 」

自然に皆が唱和する。克己先輩も大きくうなずいている。やっと一つになれた。これならば行ける。

「何とか収まったようで安心した。意見のぶつけあいは演劇を作る上で必要なことではあるけど、険悪になるリスクも含んでるからね。これ以降も、適度にぶつかりあって意見を交わし、演劇をより良いものにしていけるようにしてくれ。」

果たしてただ「ぶつかり合う」ことがそのまま劇づくりの良さにつながるかはわからなかったが、とにかく俺は今回の新歓を無事に作れそうなことに安堵していた。

「それじゃあ、今日もキャスト回しをしていきます。申し訳ないですが、脚本については昨日こちらで渡したものでお願いします。何か解釈などで分からないことがあればまた聞いてください。これから部活を始めます。よろしくお願いします! 」

「よろしくお願いします! 」

その奏先輩が口を開く。心配な気持ちはあったが、今言っても仕方ないかもしれない。新歓絡みのことならきっと劇づくりが進めばその憂鬱も無くなる。俺は唱和しながら気持ちを切り替え、基礎練を始めた。

 今日も基本的にはキャスト回しが中心だった。俺は監督と柿田の役をほぼ交互にこなしながら、相変わらずとても楽しんでいた。他の人の演技も見たが、個性が出ていて面白かった。演出の奏先輩が主にキャスト回しを見ている間、助演出二人は台本の展開や構成について色々と話していた。その声に緊張感はあっても険悪さは無く、二人も奏先輩と克己先輩の言い争いなどの再発などを懸念していたのかもしれない。兼ねてから準備していた小道具に関しては、もともと数が少ない事もあって細かい品があらかた作り終わり、後は募集したものが集まるのを待つばかり。大道具も図面が出来上がり、材料が揃えば作り始められる状況にあった。何とか、「方針を決定する」という1つ目の山は越えられたようだ。作り手の精神状態というただ一つの問題を残して。

「集合!! 」

号令がかかり部活が終わる。

「道具です! 作業報告です。小道具は野球部の日誌以外あらかた作り終わりました。それに関しても、専用のノートを作って書き込むだけなのですぐに終わりそうです。各種募集したものよろしくお願いします。大道具は図面が書き上がってきたので、材料を買って、キャスト回しが終わったら作り始めたいです。」

今日は最も作業がはかどり、区切りがついた日だ。キャスト回しと道具の作業を並行するのはかなりキツイが、その分やりがいも大きい。心地よい疲れが俺を包んでいる。

「演出からです。今後のキャスト回しについてですが…」

どこの部活でもそうだが、今後の予定については把握しなければ練習が進まない。みんなの視線が奏先輩に集まる。 

「キャスト回しについては、明日で以上として、明日の最後に配役の発表をしたいと思います。キャスト回しの台本に関しては、今までの物を使い、キャストが決まってから変更していきたいと思います。」

明日で3月も終わる。月終わりにキャストを決めて4月頭から練習となれば切れ目がわかりやすい。そこを狙ったのかもしれない。納得しつつふと横を見ると、克己先輩が何か言いたげにしていた。また昨日のように問題点を指摘しようとしているのだろうが、何故か自制が見えた。彼が発言しなかったため、一見何事も無くミーティングは進行していった。 

「それでは、今後はそういう日程で進めて行こうと思います。よろしくお願いします。」

こうしてミーティングは終わった。なんとか奏先輩は調子を取り戻したようで、少し暗い様子はありながらもつつがなく部活を進めていた。特に周りの部員も気にしている様子は無かったが、一人克己先輩だけは、時折少し暗めの視線を奏先輩に送っていた。部室は部活後特有の和やかで、気の抜けた雰囲気に包まれる。俺はこの雰囲気も大好きだ。しかし、今の俺の心の底には作業が進んでいく安堵感ではなく、奏先輩の見せた作り笑顔が貼り付いていた。クラス順に回っていく日誌を2年生の最初、克己先輩が書いている。それが書き終わったのを合図とするかの様に俺は部室を飛びだした。居づらくなったのでは無い。疑問を解決し、少しでも手助けするためだ。そう言い聞かせて迷わず職員室に向かう。部室での賑やかな話し声の残響が少し心に切なく響いた。

「失礼します。」

職員室に入り、清水先生の所に向かう。先生はいつも通りの穏やかで話しやすい印象と笑顔をたたえた表情で迎えてくれた。

「おぉ、国之。今日もお疲れさん。道具関連が順調で何よりだ。」

「はい、僕も思ったより進んでいて安心してます。ありがとうございます。」

「それで、今日はどうしたんだ? 」

何気ない話をしに来たならここで言葉に窮するだろう。俺が話そうとしていることも躊躇されるべきなんだろうが……。胸にまた先輩の作り笑顔と苦しそうな様子が去来し、俺は少しの不安と決意とともに口を開いた。

「先生、僕、この前に先生が言ってたことを改めて実感しました。」

「この前…?」

「やっぱり、普段すごく頼りになって、信頼感と安定感のある先輩が急に崩れているのを見たら、冷静なんかじゃいられなかったです。」

先生は少し記憶を辿ったあと、察したように表情を真剣なものに変えた。

「奏先輩、今日の部活の最初、すごく辛そうでした。何か、いつもの感じが無くなって、小さく見えてしまいました。とても心配です。何かあったんでしょうか。できることならなんとかしたいんです。」

先生は言葉を選び、噛み締めるように口に出した。

「昨日、部活が終わった後、奏と克己を呼んでここで話したんだ。」

やはり、カバンがあそこにあったのは先生と話していたからだったのか。先生は言葉を紡ぎ続ける。

「話題は当然部活。新歓の今後の方針のことだった。その時、実は既に作者の柳田さんからの手紙をいただいていた。二人にはそのことを職員室で伝えた。昨日のうちに方針を決めてしまっても良かった訳だし、ミーティングの場にも手紙は持ってきていた。しかし、お前も知っての通りそうはしなかった。奏はもしかしたらその日中に助演の一美(かずみ)と美智(みち)に話して方針を固めていたのかもしれないが。」

 衝撃だった。昨日の部活終わりから俺達の雰囲気に影を落とし続けた方針問題。既に解決していたならば、どうして昨日手紙の存在を明かして方針を決めてしまわなかったのだろう。俺は少しの怒りすら感じた。

「なんでだ。とは思うだろう。明かさなかった理由は奏にも克己にも聞かれた。なんでかって言うと、まず、奏と克己を人として成長させるためだ。彼らに今日のミーティングの進行のよかった点、悪かった点を教え、1日置いて自分の中で整理し、今後に活かしてほしかったんだ。そのために、一旦懸案事項を取り除いた。それと、国之。お前たちにも他の部員にも考えてほしかったんだ。」

何を考えるべきだと言いたいのだろう。

「一人ひとりの部員の必要さだよ。個人の重み、果たしていた役割みたいなものを見つめ直して、そのうえで自分がどう動くべきか考えてほしかったんだ。」

俺は虚をつかれ、言葉は胸に刺さった。そして、抱えていた疑問も消え去った。確かに昨日が無かったら、俺は気持ちの整理がまだついてなかったはずだ。奏先輩、克己先輩もきっと、先生の言葉で気付かされたこともあったはずだ。

「話を戻すけど、二人に言ったことだ。奏には落ち着いて決めようとしてるのはありがたいけど、周りのこととか状況に目を配ってほしいこと。このままじゃまた大きなことで失敗しかねないし、誰かに無根拠なこと言って傷つけちゃうかもしれない。だから一旦頭を冷したほうがいいってことを、克己には、そうやって人の気づけなかった意見をどんどん言ってくれるのはありがたいけど、言う時に個人を攻撃しすぎるのはやめたほうがいい。本人にその気持ちが無くても、相手を傷つけるかもしれない。だから言葉を選んだほうがいいぞってことを言った。」

俺はさっきの克己先輩の行動に得心がいった。あれはもの言いたげではあったが、必死に言葉を選んでいたのか。あれほど完璧に見えていた奏先輩も、先生の目には欠点が見えていたようだ。やっぱり先生はすごい。こっちの反応を確認した先生は、今度は俺の目をしっかりと見据えてこう言った。

「それから、国之、ここに来たことだから、お前にも色々言っておこうと思う。国之、前に素直なのはいいことだけど少しずつ年齢に応じて変わっていこうって話したよな?」

「はい」

俺はその時のことを思い出し、噛み締めながら答えた。

「お前は素直だから、きっと今日奏を見たときみたいに困った人をすぐ助けよう、なんとかしようって思うかもしれない。でも、それはいつでもできることだと思わないほうがいい。人には、踏み込んじゃいけない領域があるんだ。人の責任の不可侵領域もあれば、気持ちの面での不可侵領域もある。今、お前は奏をなんとかしたいって言ってくれたけど、それはお前が関わっていい問題なのか? お前がなんとかできるような問題なのか? もし、なんとかしようと関わる中で相手の踏み込んじゃいけない領域に入ったとしたら、当然相手は嫌がるだろうし、善意の押しつけになる。だから、どこまでが踏み込んでいい領域なのか考えて話す必要があるし、自分にはどうしようもない時は見守るのも選択肢だ。それが出来ないと、きっとこれから大変になるぞ。今はうちの演劇部の雰囲気でやれてるかもしれないけど、社会に出たらきっとこうはいかないからな? 」

俺はまた心をうたれた。自分のしていることがそこまで人に不快な気持ちを与える可能性があるとは考えていなかった。先生の声は優しく、でも目にはがっちりと俺を捉えて離さない強さがあった。領域を考えてから、言葉を選んで話そう。当たり前かもしれないことに今更気づき、俺は思わず気恥ずかしくなった。それを見透かしたように先生が言った。

「今はたくさん色々なことが学べる時期、ゴールデンエイジだ。月並みな言葉かもしれないが、今のうちにできる失敗を大切に、自分にアドバイスしてくれる存在、そして、一緒に活動できる仲間を大切にな。」

いつの間にか先生の目には厳しさが消え、代わりに慈しむような優しさが滲んでいた。

「一緒に活動できる仲間」。俺は思わず眼前の先生の顔にあいつを重ねてしまい、言葉が出なくなった。昨日気持ちを入れ替えただろうと自分を叱咤しながらなんとか言葉を紡ぐ。

「はい……」

結局言葉が出てこず、俺はこの一言しか返せなかった。

「先生、今日はあんな、今考えれば聞いては駄目だったかもしれない質問に答えて、時間を割いていただきありがとうございました。」

俺はせめてもの感謝の言葉を述べて職員室を出た。先生は最後まで優しい目で俺を見つめてくれていた。

 学校を出て、帰宅の途に着く。さぁ、明日はいよいよキャストが発表になる。どんな役になっても全力を尽くし、先生に言われたことも思い出しながら日常生活も頑張ろう。抱えていた疑問も晴れ、俺はまた歩く。ここ数日は気持ちの高低が激しすぎる気もしたが、これもきっと一種の社会勉強だろう。薄曇りをつんざいた夕日の残り火が、歩き続ける俺の影を弱々しいながらも細く長く伸ばしていた。

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